第4話

「ただいま」

「お帰り! お兄ちゃん!」


 羽を生やした天使がリオンへ近寄ってくる。ここ半年で心を開いた笑顔が溢れるサルビアであった。まさに住めば都と言ったところか。


「ボズ、送り迎えありがとう。調子は悪くなさそうだね、サルビア」

「おうよ、週一なら構わねえよ」

「あのね、あのね! 今日はね!」

「サルビア、そんな焦んなくても聞くから。テーブルに行こう」


 夜ご飯を囲みながらリオンたちは談笑した。

 変わらぬ日常、穏やかな日々。この夜が永遠に続けばいいのにとリオンは思う。


「お兄ちゃん、どうしたの?」

「あ、ううん。なんでもないよ」


 表情の陰りを察知してサルビアが心配する。リオンは平気な顔で毅然と振る舞う。

 たとえ友人が日に日に衰えているのを見ても。

 残された時間は僅かしかないものだとしても。

 この時間はかけがえのないもの。欠かすことはできないのだ。


「サルビア、ご飯食べ終わったら頭洗ってあげるから」

「やったあ! あれ大好き!」

「ボズ、今日のってまだ残ってる?」

「ああ、あるぜ。裏手の桶に入ってる」

「俺は使わねえから別にいいさ。しかし綺麗好きになったな、リオンも」


 ゆするとは、米の研ぎ汁を指す。それは髪の艶出しに高い効果がある。昔からの習慣により、帝国では女性を中心として当たり前となっている。


「教会に通うのに汚れたままは失礼だろう?」

「教徒でもねえのに?」

「それにサルビアの隣に薄汚れた格好で歩くのは少し、ね?」


 腰を反らしてボズはそれもそうか、と豪快に笑う。

 思考や習慣は少しずつ変化していくものだ。それは姿形の変わらぬリオンでさえも。

 だが、平和な日々も変わりゆくものである。


 凶報はまもなくやってくる。予想もしていない場所から。



♢♢♢



 アウストリア帝国の西にある強国、バーゲルンリッヒ王国。其の王が住まう宮殿、【白城はくじょう】にて。


「虫の居所でも悪いか、バシレウスよ」

「まさしくその通り、虫が一匹逃げた。躾が足りなかったみたいだ」


 王冠を被り、蓄えられた白ひげを撫でる眼光鋭い男。対し、横柄な口調で王と会話する金髪の若い男。

 派手な装飾を施された王とは異なり、金髪の男は生地こそよいものだが、決して貴族とは思わせない簡素な服装であった。


「ああ、貴様が生んだ小さきものか。あれは確か、出来が良かったとかで喜んでおったな」

「ああ、あれは随分と役に立った。俺様に牙を剥く点を除けば、な」

「貴様ならその程度御せるであろう?」

「当前だ。全ての上に立つのが俺様だ」

「……私もか?」

「借りを返せ。その時再び対等になる。約とはそういうものだ」


 上からの物言いに王は反論しない。それが友と交わした約束なのであるから。


「今日は別の要件で呼んだのだ。そちらの話をしよう」


 王は話を切り替える。


「近頃、帝国側の森から魔物が現れると報告が上がってきている」

「依頼か? 俺様を使うと懐が寒くなるぞ」

「依頼したいのは貴様の部下だ。結界を張れるやつがいただろう?」

「ああ、フィラケスか。わかった、貸してやろう」


 不敵に笑う男。あくまでも上からという立ち位置は変えないらしい。


「ならば俺様からも依頼だ」

「なんだ、珍しいな。貴様がそう云うのは」

「今回は仕方のないことだからだ。要件は……一週間の同盟を結ぶ契約をしろ」

「同盟? しかも契約だと?」


 表情を険しくさせる王。王にとってこの男との契約は絶対を意味していた。破棄することも破ることも許されない。

 単なる約束とは重みが違うのだ。


「僅か一週間で何がしたい。他国に侵攻でもする気か? 生憎ともそんな用意はしておらんぞ」

「そんなことはわかりきってることだ。俺様がそれを知っていることをお前は知っている、そうだろ?」

「……理由を話せ。でなければその契約はできん」


 ため息を付いて男は一言。察しが悪いと悪態を吐いて、真剣な物腰で言う。


「虫を捕まえに行く。それだけだ」


 王は納得した。それほどまでにあれは、この男にとって重要だったのだと。


「承知した。その間、国を守れと」

「ああ」


 王は席を立ち、扉の前に並ぶ騎士へ剣を渡すように告ぐ。


「さて、契約の儀を行う。バシレウスを除く全ての者はこの部屋を出よ」

「「「「はっ!!!」」」」


 騎士らは統率の取れた動きで部屋を出ていく。静まり返る部屋の中、男と王は互いに向き直った。


「【────休題。訪れよ】」


 両者の間に風が巻き起こる。

 だが何も現れない。

 見ることはできない。


「【契約をここにベリース】」


 宙に空白の層が現れる。


「年寄りを酷使しをって」

「こういうときだけ年寄りぶるな」


 指先を剣で斬りつけ、王は宙に指を滑らせる。

 血は文字となり契約の内容をつづる。


「バシレウス、署名を」

「ああ」


 流れる仕草で名を記すバシレウス。

 鮮血と鮮血が重なり合い、解ける。

 最後の一文字を書き終えた時、血文字の契約書は球体へと凝縮され、光を放って消滅した。


 ここに、契約は成された。


 契約を終えた彼らは互いに目線を切って、反対の扉へと向かう。彼らの間には挨拶も、礼儀もない。信頼とは程遠い関係に思える。


 だが王は男を、男は王を友と呼ぶ。

 それが彼らの“絶対”であった。



♢♢♢



 男は歩いた。さすれば道が開ける。

 男は駆けた。さすれば敵は薙がれる。

 男は奮った。さすれば恐怖が生まれる。


 彼の者の前では何人たりとも見做みなされる。


 彼は災厄と呼ばれた。まさに歩く災害であった。

 力は強大、知能にも恵まれた。王よりも王たらしく振る舞う彼を止めることは決してできない。


 そんな彼が今、帝国へ向かう途上の森を突っ切っていた。


「バシレウス様、バシレウス様。魔物がこちらを見ているでございます」


 ローブを纏う小柄な少年が男を見上げる。


「ピルウム、ならば始末しておけ」


 男は淡々と返す。だが少年は涙目で首を横に振る。


「むむむ、無理ですう。バシレウス様のいつもの『えいやっ』でやっつけて下さい!」

「なんだそれは……まあ、いい。奴らは襲っては来ない。なぜなら、俺様が居るからだ」

「きゃ〜かっこいいっ! 流石バシレウス様!」


 高い声で少年が男をはやすと、男は少年の頭を鷲掴みにした。


「ピルウム、馬鹿にする相手を見違えるなよ?」

「ひうっ。ごめんなさいです。痛いですう」


 情けない声で少年は降参する。男は呆れて手を離し、足を進める。


「あわわ。置いてかないで欲しいですう」


 魔物の視線が集中すると、少年は慌てて男の跡をついていく。


『アアアアアア』


 木々を躱しながら歩いていくと、水辺に到着した。魔物の水場としてそこは利用されているようだった。しかし、今は一体の魔物が湖の中心に浮かんでいた。


「ニンフ、いやウンディーネか」

「バシレウス様! やっちゃってください!」

「森の主はお前か……ピルウム!」

「はい! 何でしょう、バシレウス様!」

「行くぞ」

「はい! はい……?」


 湖を横切って通過しようとするバシレウスに少年は困惑する。


「小虫に興味はない。放っておけ」


 男は視線すら与えず、ただ草道を歩く。

 女性の形をした魔物は咆哮を上げる。

 言葉の意味はわからずとも、彼の仕草が蔑みや情けを示していた。

 生かしておくことはできない、その意志を籠めてそれは腕を振るった。


 湖面から水球が生まれ、それらはさらに異なる速度、異なる角度で男へ襲い掛かった。


「刃を向けるなら敵だ」


 水球が男に触れる直前、それらは全て凍りつく。


 氷は中心から放射状に広がる。

 群青の華が、咲き誇る。


『ルオオオオオ』


 次々と発射される水弾の群れを全て氷漬けにしたあと、男は一言呟いた。


「叫ぶな、雑魚が」


 ウンディーネの周囲を氷が囲みこむ。それは大樹のように高く、空へと昇り、塔となる。完全なる氷牢と化して。


「はわ〜」 

「行くぞ、行き先はまだ先だ」


 彼らは氷像へ目もくれず、早足に森を進み行く。


 バシレウスは遙か前方へ視線をやった。

 世界最大の領土を有する、アウストリア帝国へ。

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