第3話

「…はあ…はあ…はあ」


 裏路地を足を引きずりながら歩く一つの影。

 襤褸切れを身に纏い幽鬼のように暗い影を落とす。

 行く先宛もなく、息切れと歩行を交互にするその姿を見たものは、不気味な視線とともに通り過ぎる。


 誰も助けない。それが当然としてまかり通るのが社会である。

 いつしかその影は頬に冷たさを感じていた。動けない。動く気力もない。


 視界は闇に覆われていく。光なき、意識の届かぬ夢の彼方へ。


「なんだあ、こいつ?」

 

 最後に聴覚を震わせたのは低い声。それとともに、光は完全に消え去った。




♢♢♢




「──んで、酒を買った帰りにこいつが地面に寝てたわけよ。酔っぱらいじゃなかったけどな、んがはははは!」

「ボズじゃあるまいしその辺に無防備に寝る人なんてそうそういないよ」

「なんだと〜? 俺だってこの辺じゃやらねえよ。危ねえし」

「危なくない場所ならやるんでしょ? 同じ同じ」


 言い合いの音で目が覚める。のそりと襤褸切れが動くとそれに二つの視線が集まった。


「おはようさん、喋れるか?」

「う…あ……」


 どことなくこの状況に既視感を感じつつも、リオンは茶化してボズに冗談を言う。


「ボズ、水を。酒じゃないよ」

「馬鹿にしてんのか。俺を何だと思ってんだよ……」


 愚痴を垂れ流しながらボズは寝室を出る。


「それにしても綺麗な目だね」


 彼女はアメジスト色の目をした少女であった。子供ほどの身長でくすんだ紫髪が見え隠れしていた。


「持ってきたぞい」

「はい、ありがとう。飲める?」


 コクコクと頷く少女。それを見てコップを手渡すリオン。

 少女は両手で一気に飲み干す。


「話せそう?」

「……うん」

「そっか、君の名前は?」

「わかんない」


 二人の頭を一つの単語がぎる。


「どこから来たのか覚えてる?」

「わかんない。歩いて歩いて、喉が乾いて声も出なくて……最後は、倒れてた」


 状況把握能力はある。しかも客観的に自分を認識している。これはこの年頃の子にはできないことが多い。

 それを少女は無意識にやってのけた。

 つまり、賢いだけではない。早熟に加え天才かもしれないのだ。


「ん……?」


 ぼろの隙間から何かが見えた気がした。


「ボズ、ちょっと外に出てもらえる?」

「あん? いいけどよ」


 ボズの退出を確認するとリオンは少女に後ろを向くように告げる。

 少女はそれに従い振り返る。


 背中には不自然な膨らみがあった。

 それは単に空気が入ってるとかではなく。


「────っ!」


 触れると確かな感触。胸椎中央、広背筋の上部に根本が硬く、先端がガサガサとした感触の異物を確認する。


(これは……羽?)


 確信は持てない。だがではない。


「自分が何者かわかる?」

「なにもの? お兄さんとは違うの?」


 間延びする話し方はやや舌っ足らずな感を否めないが、不思議とこちらまでも思考がゆっくりとしそうになる。

 

「それもわからないのか。君は人じゃない。妖精と呼ばれる種族だ」


 妖精は人と同じく赤ん坊として生まれ落ちる。故に数年経過した時点での出身不明はあり得ない。すなわち記憶喪失以外にないのだが。


「よう、せい?」


 透き通る声。本当によく延びる声だ。


「背中にあるそれが証拠だよ。人にそんなものはついていない」


 妖精ならばざいを負っているはずであるが、リオンはどうすべきか悩む。

 そもそもリオンはこんな妖精は見たことがなかった。それぞれの妖精には強い特徴があり世に知られる妖精は概ね把握していた。

 それがリオンに混乱をもたらした。


「何か得意なことはある?」

「……得意なこと? うーん、歌は好きだよ?」

「ちょっと歌ってみて」

「いいよ!」


 そして彼女は歌い始める。だがしかし、


「おい、何があった?! とんでもない不協和音が……」


 ボズが部屋に飛び込んでくる。直後にボズはリオンと少女を見比べて状況を悟る。


 やっちまった、と。


「ボ〜ズ〜?」

「い、いやあ、その……んがはははは!」

「後でお仕置きね」

「はい」


 大人しくなったボズをよそ目にリオンは真剣な目で少女を見据える。


 あまりにも音痴な彼女。何の歌を歌っているかすらわからないほど音程が狂っている。


「さっきの歌は名前とかある?」

「ないよ……」


 意気消沈した様子の彼女の頭を撫でてリオンは考える。

 もしや自分でつくった歌だからおかしくなっているのではないか、と。

 だとすれば────。


「君は、えーと呼びにくいな。とりあえずサルビアって呼んでもいいかな?」


 アメジスト色の髪から花を連想した。アメジストセージ、別名サルビア・レウカンサから。


「うん」

「じゃあサルビア。少し手伝って欲しいことがあるんだけど、どうかな?」

「なに?」

「ぜひ歌って欲しい歌があるんだ──」



 翌日平日、再びサントリア大聖堂へ。

 微笑み佇む一人の司祭。

 彼は嫌な雰囲気一つせず出迎える。

 代わって昨日の客室に戻る。


「リオン様、本日はどうなさいましたか?」

「こんにちは。今日は頼みがあって来ました。この子に讃歌59番を覚えさせてあげてほしいんです」


 ほう、と息を吐いて次いで彼はどうしてかと問いかける。


「僕には友人がいまして。彼は聖女様のお歌を死ぬ前にもう一度聞きたいと言うんですよ。しかし聖女様はもうここにはいない。そこで、美しい声音を持つ彼女に歌って欲しいと思ったんです」

「……話はわかりました。しかし少々立て込んでいましてですね。代わりに聖歌隊の方々に面倒を見てもらう、というのはどうでしょう?」


 内心迷惑に思っているかまではわからないが承諾の返事をもらうことができた。

 リオンにとっては大きな収穫であった。


 サントリア大聖堂では年に一度、コンサートが行われる。そこで一曲披露するために彼女は歌い続けた。


 夏が過ぎ、秋の訪れを間近にした時、彼女の歌は筆舌に尽くしがたい美しさを醸し出していた。


「もう秋だね……稲穂も結構な黄金色に変わってきたし」

「お前が毎週ここを来るようになってからもう十年は過ぎたか? 景色は変わってもお前は全く変わんねえな」

「若さが取り柄だからね」

「ったく、羨ましいぜ」


 微塵も思っていなさそうに彼は言う。冗談を言うとき、彼はいつも口を尖らせるのだ。


「なあ、ついぞ聞かなかったんだけどよ……どうして妖精を救うんだ?」


 突然の呟きにリオンは動揺を隠せなかった。一度も聞かれたことがなかったからだ。


「妖精を救う理由か……いくつもあるけど、一つに絞るとするなら──」


 リオンは表情崩さず己の核心を口にする。


「──僕が生きるためかな」


 白髪の老人、リチャードは面食らう。もっとありきたりな回答を予想していたからだ。

 

 役目に対する義務感か、それとも見て見ぬふりできぬ偽善心か。誰かを助けるのに理由が必要なのかという返答も予想していた。


 だが彼は生きるためと言った。

 自分のために妖精を救っているのだと。

 理解できない。それは変わらぬ彼の容姿とも関係するのか。また一つ、友人の謎が深まるばかりであった。


「……僕が唯一契約している精霊、アマヌルはね。魔法が全然使えないんだ」


 彼は話し始めた。誰にも告げたことのない秘密の一端を。


「できるのは魂の裁定。それだけ。僕自身に戦う強さはないしね」

「つまりお前が妖精を助けるのは新たな契約を結ぶため、ということか?」


 リオンは口を噤んで応えない。しかしそれをリチャードは肯定と受け取った。


「僕の体は成長が止まっている。それはほんの僅かすらない。完全に止まっているんだ。だから筋肉もつかない。剣を振ることもできない。魔力も増えない。精神の成長も何もかも」

「だがお前は未だ他の精霊と契約していない。それはなんでだ?」

「彼らは皆忘れるからさ。僕の記憶を。僕が救ったことなんて覚えていない。だから契約することなんてできないんだ。まして力のない精霊と契約しても意味はない」


 吹っ切れたようにリオンは笑う。自分の成してきたことは無意味だったのではないかと。


「でも諦められない。いつか必ず僕の前に精霊はいるはずだ。契約を交わしてくれる精霊が」


 必ずと言いながら望みにかけるリオンの姿勢はリチャードにチグハグな印象を与えた。


「わざわざそこまでして強くなる理由があるのか……?」


 至極真っ当な疑問。それにリオンは素直に答えられなかった。


「それは言えない。それは僕の人生、そのものの意味だから」



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