魔迷宮/魔術師
うす暗く、ひたひたと水の落ちる音がする、石造りの廊下。
壁にかけられたサビついた燭台の、ゆらゆらとゆらめく炎が、うごめく影となって僕らを不安な気持ちにさせる。
(しまった……)
辺りを確認した僕は、悔しさに歯噛みした。
注意が足りなかった。『境界紋』に触れないようにうながすとか、大事な事は言わずに伏せておくとか、僕にはもっと出来たハズなのに――
「なに、ここ? 秋目君、どうなってるんだろうこれ……」
――境界に、漆原さんを入れてしまった。
カビ臭い空気に構わず深呼吸して、僕は正直に話すことにする。
「ここは境界。この世界と、別の世界の接点なんだ」
境界のこと。『境界紋』のこと。そして『封紋師』のこと。
僕はある程度の情報を漆原さんに伝えて、様子を見る。
漆原さんだったら、何も分からないより、少しは分かる方が落ち着けるんじゃないか。
僕はそう考えていたし、実際漆原さんは、僕が言ったことを理解しようと、じっと考え込んでくれた。そして彼女が問うたのは、次の一言だ。
「秋目君は、こうなるって分かってた?」
「……いや。漆原さんが『境界紋』を通れるって思ってなかったし、僕も今回は下見だけで済ませるつもりだったから……」
言いかけて、首を振る。
確かにそうなんだけど、そうじゃない。言うべきだ、この一言は。
「僕のせいだ、ごめん」
頭を下げて謝った。僕が漆原さんに同行して、漆原さんの隣で『境界紋』の解釈を口にしなかったら、きっと漆原さんがここに迷い込む事は無かった。
長く、沈黙が走る。僕が頭を上げずにいると、やがて彼女は「いいよ」と口にする。
「事故なのは分かったから。それより、秋目君はこういう時どうするの?」
「僕、っていうか『封紋師』の名桐さんだったら、界獣を倒すかな……」
「境界のヌシみたいなヤツだよね。今回の場合は……魔術師かな」
漆原さんはとても理解が早かった。
なんでと聞くと、「ファンタジー小説とかよく読むから」と彼女は返す。
「ここじゃない世界に行ってみたいとか、そういう想像も、前はよくしてたしね」
「そうなんだ……前はってことは、今はあんまり?」
「うん。なんていうか、前は全然この世界が好きじゃなかったけど、今はちがうから」
って、今は「この世界」じゃややこしいか。漆原さんはそう言って苦笑した。
こういう態度に、僕は覚えがある。相手に心配をかけないように、無理に楽し気に見せているんだろう。
(ダメだなぁ。境界は僕の方が先輩なのに、気をつかわせるなんて)
ぱん、ぱんっ! 気合を入れる為に、自分の頬を強く叩く。
どうしたのとおどろく漆原さんに、「やる気を出した」と僕は答えた。
「行こう、漆原さん。僕から離れないでね」
僕の失敗は、あとで思いっきり反省すればいい。
今はただ、漆原さんを不安にさせないようにがんばるべき時だ。
「分かった。秋目君にまかせる」
漆原さんはそう言って、しっかりと僕のあとについて来てくれた。
足元は石畳だけど、ところどころ濡れていたり、コケやカビが生えていて、歩き辛い。
廊下は曲がり角がやけに多くて、歩いた先がどうなっているのかも判断し辛かった。
まさしくここは迷宮だ。入り込んだ命知らずを、カンタンには逃がしてくれない。
そんな中を、僕らは慎重に少しずつ進む。しばらくは、しみ落ちる水の音と、僕らの靴の音だけが迷宮に響いていた。
けれどやがて……ずるんっ。
天井のすき間から、ゼリー状の何かが僕らの前へと落ちて来た。
六体ほどいるゼリー状のそいつらは、明らかに僕らを認識して、近付こうとしている。
スライムだ、と漆原さんがつぶやいた。ファンタジーゲームとかで見る敵。あまり強いイメージは無いんだけど、数が多いし、プールの臭いを濃くしたみたいな変な臭いもする。
「塩素かな。触ると危ないかも。秋目君、口もおおった方がいいよ」
「そうだね……でも、このままじゃ進めないから」
ふぅと息を吐き、僕は自分の右腕に意識を集中した。
このスライムを蹴散らしていく。その為に、力を借りないと。
「お願い、<黒い空のきみ>」
仮の名前を呼んで、腕を夜空色に変える。
ぶおんっ! そして爪を大きく横なぎに振るい、熱を放った。
じゅお、とスライムの表面が沸騰し、弾けてただの水になる。相変わらず臭いはひどいけど、駆け抜ければ問題ないハズだ。
「今のうち、急ごう!」
「う、うん」
転写していない左の手で漆原さんの手を取り、僕らは走った。
かっ、かっ、かっ、かっ。しばらくすればスライムの臭いは無くなり、僕らはようやくマトモに呼吸ができる。……カビ臭いのは相変わらずだけど。
進んでいくと、他にもいろいろなモンスターが僕らの前に立ちふさがった。
骨の騎士。これは足の転写で蹴り飛ばした。
猿のような獣。これは両腕への転写で殴り倒す。
巨大な花みたいな怪物。これはスライムと同じで熱を使って焼いた。
どれもあいつの力を借りたら大したことのない敵だけど、気になることが一つ。
(なんでこんなに色んな敵が出てくるんだろう……?)
ふつう、境界に界獣は一体だけだ。
僕らはそれが魔術師だと思って来たし、道中のモンスターは、いくら倒したって境界に影響を与えない。こいつらは界獣ではないのだ。だったら、どうしている?
(……なんかちょっと、違和感だ)
そういうモノだと呑み込んでしまう事も出来るけど、このあいまいな引っ掛かりを、僕は見逃したくないと思う。漆原さんの意見も聞いてみようかと顔をむけると、彼女は彼女で、なにやら難しい顔をしていた。
「ね、秋目君」
「どうしたの? なにか問題でも起きた!?」
「そうじゃなくて、その……怖く、ないの?」
漆原さんの問いに、「えっ」と僕はうろたえてしまった。
僕の態度に、不安が表れてしまっていたんだろうか。迷いながら、僕は答える。
「怖いよ、漆原さんに何かあったらと思うと。でも僕は大丈夫だから――」
「――じゃなくて。さっきから使ってる、『境界紋』の力のことだよ」
漆原さんはそう言って、僕のわき腹を指差した。
彼女には、すでに僕の力の事も伝えてある。こうした境界を生み出す『境界紋』を僕も持っていて、その力の一部を使って、界獣と戦い世界を守るのだ、と。
でも、あいつの力が『破滅の力』と呼ばれたことはしゃべっていない。上手く使いこなせなかったら、名桐さんに殺されてしまうのだ、ということも。
だから僕には……どうして漆原さんがそんなことを問うのか、分からなかった。
「確かにふつうじゃないかもしれないけど、怖くはないよ。暴走もしてないし」
「そうかな。だって秋目君が使ってるのって、私たちとはちがう世界の力なんでしょ?」
僕らの世界とちがう世界。そこから流れる力なんて、本当に扱えるものかと漆原さんは問う。更に言えば、仮に扱えたとしても――
「元の世界からはなれちゃうって、感じない?」
「……っ、や、なんだろう、それは……」
混乱した。漆原さんの言っていることが、分かるようで分からない。
上手く説明をしようとして、言葉につまった。理屈が、理由が、僕の中で明確じゃない。
「私は感じるよ。……秋目君のやってることはすごいし、大事なことだとも分かるけど、それって、小学生がやらなきゃいけないことじゃ、ないよね?」
「それは……でも、現に使えるんだから、慣れないと」
「分かってる。止めてって言ってるんじゃない。でも秋目君、それをすごく当然みたいに使ってるから、なんか……」
ちがう世界の人になったみたいだと、漆原さんは言った。
本当の意味でちがう世界と言ったんじゃない。比喩的な、遠い存在という意味での言葉だ。僕だったら出てこない言い回しだなぁと思いながら、僕は漆原さんから目を背ける。
(いや、なんで背けた?)
なにかが後ろめたかった? 悪いことはしてないのに?
僕は自分の考えで、自分が好きなように動いて……必要だとも、思って。
あの日見たあいつに、もう一度会いたいと思って。
「………………とりあえず、先に進もうか」
考えるのをいったん止めて、僕は歩くことを提案した。
漆原さんは小さくうなずいて、それから僕らは、静かに歩む。
時折ジャマな敵は現れたけれど、転写すれば倒すことは出来た。
そうやってしばらくの間、迷宮を進んでいくと……僕らは、大きな扉の前に出る。
「この扉、なんか雰囲気ちがうね」
「大ボスが待ってる、って感じするね。……漆原さん、気を付けてね」
「うん。秋目君も、無理しないでね」
漆原さんの言葉に、僕はうすく笑って応えた。
無理するな、か。名桐さんがいる場ならまだしも、今はそうはいかないだろう。
『境界紋』を解決しなければ、漆原さんを無事に帰すことが出来ないんだから。
扉には、金で装飾がほどこされていた。
といっても、ほとんどはすすけて汚れて、輝く場所など一つもない。
メッキと大差のないその扉を、僕は力を込めて押し開く。
ぎぎぎ、ぎ。建付けが悪いのか、扉はひどい音を立てる。
なんとか半分開けて中へと入ると、その部屋には、一人の男が立っていた。
ボロきれのようなローブを身にまとった、もじゃもじゃした白髪の男。赤くすり切れた絨毯の上、部屋の三方を囲む大きな本棚の前で、革張りの本を読んでいる。
『……思うに』
男は突然に口を開いた。その言葉は、最初から僕に通じた。
けれど僕の背後の漆原さんには、彼の言葉は分からなかったらしい。何語だろうという彼女に、静かにと言い含める。
『君が悩み惑う必要など、本来何処にも無いのではないだろうか』
男は続け、パタンと本を閉じて、そのまま離す。落下するかと思われた本は、ひとりでに浮き上がって、勝手に本棚のすき間へと入って行った。
一連の動作を見届けてから、あ、と思う。これ、僕にむけて言ってるのか?
『自身の能力と周囲の価値観との乖離など、そう珍しい事ではない。持ち得る力を制限し脆弱な衆愚に媚び諂うなど、馬鹿馬鹿しいとは思わんかね?』
「……言い回しが難しくて、全然意味が分かりませんけど」
『境界紋』の性質を通して、男の言葉は翻訳されている……ハズなんだけど、僕にとって彼の言葉は、聞き慣れない単語でしか届かない。
僕の返答に、男はチラとこちらをむいた。男の眼は紅く、僕にはそれが血で出来た宝石のように見える。
『この空間の現状は、君たちの会話を通して理解している』
疑問に答える代わりに、男はそう言い放った。
僕と漆原さんの会話を、どこかで聞いていたのだろうか?
なら話は早い、と僕は考える。お互いの世界の為に、まずは協力を求めるべきだ。
「分かっているなら……すみませんが、消させていただけませんか。そうでなければ僕らの世界も、元の世界のあなたも……最後には消えてしまうと思うので」
『道理だな。最大数を生かす為には、ここの我は切り捨てるべきだと。念のために訊いておくが、君は理解しているのかね? その問いかけは、』
自分たちの為に死ねと言っているに等しいのだぞ、と男は僕に問うた。
僕は目を伏せる。それは確かに、その通りだ。いくら境界の存在が写し絵のようなものと言われても、僕らの目にも本人にも、本物と偽物の区別なんてつかない。
というより、同じなのだ。ごく一部に切り取られて、僕らの世界の影響も受けていたとしても……境界に写された界獣は、元の世界のそれと全く変わりない。
そのことを、僕はアスドゴルドとの会話で理解していた。彼は元の世界の森と境界の森を同じ価値だと考えて、元の世界の自分がそうするであろう、同じ意志の元に戦った。
「納得できないのも、分かります。その場合は、戦わなくちゃいけません」
『どうかな。試してみる、という手もあるだろうが』
「試すって、何をですか?」
『世界が壊れるかどうかだよ。君たちの理論には確かに説得力があり、ここが境界であるという実感もある。だが……実際に壊した場面を観測した事は、無いのでは?』
「はっ……? いや、なに言って……?」
「秋目君、この人なんて言ってるの?」
僕がおどろき後ずさると、心配した漆原さんが聞いてくる。
男は「ふむ」とアゴをなで、ああ、ううと喉を鳴らしてから言い直す。
「境界は本当に世界を壊すのか、試したいと言ったんだよ、お嬢さん」
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