第12話 感情も整理整頓

 馬車に乗り込んでから、そこそこの時間が経過した。

 泣き疲れたエレンデルは、少しずつ正気を取り戻しつつある。宝石街とホテルはそれほど離れていないが、これほどの時間走り続けているということは、ケスターの手配で遠回りをしてくれたのだろう。

 彼女はますます申し訳なくなったが、まずは感謝を述べることにした。いつか読んだ本に、謝り文句を多用する人間は空気を悪くすると書いてあったからだ。


「あの、ありがとうございました。色々と」

「構わないよ。吐き出せるものは出しておいたほうがいい。部屋に戻っても大丈夫そうかな?」


 どこまでも気遣いの感じられる言葉に、エレンデルはこくりと頷いた。


「君はだいぶストイックなんだね」


 思いもよらぬことを言われて、下を向いたまま固まる。


「そんなことはない、と思っているだろう。本当に自分に甘い人間は、先ほどの君のように自分を責めたりしないんだよ」


 これにどうしたらいいかわからずに黙り込むと、大きな手に頭を撫でられた。


「君は辛い思いをしても死を選ぶことなく、絵を描くという自分にできることをやってきたね」

「……はい」

「生きるということは、場合によってはとても努力がいることだ。その努力をしてきた人間を、甘い人間だとか、情けないだとか思うことはないし、思いたくもない」


 耳に入る言葉を受け入れたいし、受け入れたくない。複雑な思いに心が揺れる。

 エレンデルは自分という人間を評価していないからこそ、こうやって認められてしまうとどうすればいいかわからなかった。

 返事に迷っているうちに、ホテルに着いてしまう。


「さあ、とりあえず部屋に帰ろう。人間の脳には情報を整理する時間が必要だから、あとは一晩寝てからだよ」


 先に出た彼の手を取り、エレンデルは馬車からロータリーへと降りた。


「夕食は部屋に持ってきてもらおうね」

「はい」


 エスコートされながらエントランスに入り、自分たちの部屋へと戻っていく。

 そういえば、昼食を軽く食べてから出かけたが、いつの間にか日が傾いていた。馬車の中からでも空の色は見えたはずだが、外のことを気にする余裕がなかったせいで気づかなかったらしい。


(なんか、綺麗だな。アーリフティアの空とはまたちょっと違う色)


 戻ってきた部屋の中から空を見て、エレンデルは身体の力が抜けるのを感じた。


「ちょっと妃殿下、目が腫れてるじゃないですか!」


 泣き腫らした彼女の顔を見てびっくりしたニコールが、大慌てで氷を持ってくるよう頼みに行く。

 それを呆然と見送ると、今度はマイナから声をかけられた。


「何か大変なことがあったのですね」

「どうかしら……大変、だったのかも……?」

「このホテルには温泉はありませんが、泡風呂くらいは作れますからね。少し気分転換をしませんか?」


 深く詮索してこない彼女の態度が、今はとてもありがたい。

 エレンデルは彼女の言う通り、身体を洗ってリフレッシュすることにした。

 服を脱いで泡に浸かっていると、従業員から冷たい氷嚢を受け取ったニコールも合流する。それを目に当ててもらいながら、エレンデルはケスターの言葉を頭の中で反芻した。


(わたしは、わたしを頑張ったと褒めてあげていいのかな。こんなにできないことばっかりなのに)


 努力をしている人とは、ケスターや義弟やスサニタのようなたくさんのことをしている人種のことだと思っていた。

 自分は社交界に復帰しようと奮闘したことはないし、絵は努力というより気晴らしの趣味に過ぎない。それなのに、ケスターはエレンデルが生きていること、絵を描いてきたことを努力だと言い切る。


「ねえ、ニコール」

「なんですか?」

「けっこうダメダメな人がいるとするじゃない。でも、その人には『君はこんなことを頑張っているよ』とか言ってくれる人がいるの。ダメダメな人は自分を許してもいいと思う?」


 エレンデルが唐突に尋ねると、ニコールは脈絡のなさに首を傾げつつも答えてくれた。


「そうですねぇ。人間は自分が見たいように見てしまいますから、そのダメダメな人は意外とダメじゃないかもしれませんね。何か頑張っていることがあるなら、許してあげてもいいんじゃないですか?」

「そういうもの?」


 適当なようで意外と真面目に返され、エレンデルは「ううん……」と考え込んだ。

 

「……というかこれ、妃殿下のことですよね」

「へ?!」

「このわたしがわからないとでも? 何年お支えしてると思ってるんですか? わたしですよ?」


 妃殿下は気を抜くとすぐ自分を殴ろうとなさるんだから、とおどけた顔で付け足される。


「バレてたのね」

「バレてましたね」


 にやりと笑うニコールの顔を見ていたら、なんだか少し馬鹿馬鹿しくなってきた。


「身内の優しい言葉はとりあえず受け取っておけばいいんですよ。そのほうが向こうも嬉しいと思いますし。今日いっぱい泣いた分、なおさらさくっと許しましょう?」

「……うん」


 あえて聞いてこないマイナも、ズバズバと切り込んでくれるニコールも、どちらもそばにいてくれてよかったと思う。そして、信じられないほど優しい言葉をくれる夫も、きっとエレンデルには必要なのだ。

 自分を誇れるかと問われれば素直に頷けないが、少なくとも身内には恵まれている。彼らが作ってくれた猶予を使って、もう少し自分のことを許したり、待ったりしてもいいかもしれない。


「ありがとう」


 ぽつりと口にすると、ニコールは「どういたしまして」と肩をすくめて見せた。

 マイナにも礼を言うと、彼女らしいビジネスライクな答えが返ってくる。


(ああ、帰ってきたなぁ。ホテルの部屋だけど、なんか〝帰ってきた〟って感じがする)


 外は楽しいけれど、やはりまだ思った以上に疲れる。

 マイナや他の新しい侍女たちに完全に慣れたわけではない。それでも、少しずつ自分の側にあるべき存在だと思えてきた。少なくとも今日初めて会った人々よりも、彼女たちと一緒にいるほうが安心する。


 少し落ち着くと、ケスターと過ごした時間が改めて思い出された。

 変装の一環とはいえ愛称で呼ばれ、こちらも愛称で呼んだこと。エスコートする際、彼がエレンデルの歩幅に合わせて歩いてくれたこと。何よりも、ポジティブな言葉をかけ続けてくれたことが心を温かくしてくれる。

 まだ互いに猫を被りがちな新婚期間とはいえ、素敵な男性との生活がこんなに素晴らしいなんて、以前のエレンデルにはあまり想像できなかったことだ。


(まだ持っていないものに心を乱されるよりも、自分の手元にある素晴らしいもののことを考えたほうがいいわ)


 自分に不足していることよりも、まずは与えられた環境、周りの人々の優しさ、そして今できていることを思い浮かべる。


(よし。これでリセットよ。これ以上は悪いことは考えちゃだめ)


 根っから楽天的になることはできないが、それに近づこうとすることはできるのだ。

 ネガティヴな人間だという自覚はある。何かと悪く考えたくなるし、不安にまとわり付かれることも多い。しかし自分を見失ったとき、ちゃんと引き留めてくれる人間がいることも忘れてはいけない。


 エレンデルは深呼吸をして、湯船から出た。侍女たちに身なりを整えてもらい、ケスターとの夕食の場に向かう。

 幸いなことに、ホテルの最上級の場所というだけあって、寝室も食堂もバスルームも何もかも、自分たちしかいない空間の中で済ませることができる。赤く膨れたまぶたのままでも、見ているのは身内だけだ。


(どうせもっとひどい顔も見られてるんだし、殿下は不細工だとか罵ってはこないもの)


 以前ならば理由をつけて一人で過ごしたが、今日はもはや吹っ切れている。


「エリー、もう大丈夫かい?」


 先に席に座っていたケスターから問われ、頷いてから違和感を覚えた。


「あの、もう変装では……」

「そうだね。だが、夫婦は愛称で呼び合ってもいいと思うんだ」


 ふんわりと微笑まれて、何も言えなくなる。


(つ、つまりはわたしも殿下のことをキットと呼べと? あはは、そんなまさか! 流石にないわよね)


 彼のほうが目上なのだから、こちらのことを愛称で呼んでもおかしくはない。


「かしこまりました、殿下」

「違うよ。私のこともキットと呼んで?」


 予想に反した要求をされて、エレンデルはぴしりと固まった。

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