第8話 南の果てだった場所
「——私はキット、君はエリー。この扉を出たら、私たちは物見遊山中の浮かれた新婚夫婦になる。いいね?」
髪をコテで巻いてから赤く染め、顔にそばかすを描いたケスターが、ドアの前で胸を張った。服装のコンセプトは〝背伸びをした成金〟で、あえて少し悪趣味に見えるようにしている。
エレンデルもこれに倣い、あえて派手な刺繍の入ったドレスを身にまとい、イヤリングやネックレス、指輪にバングルまで、色石の暴力という表現が似合いそうなデザインのものを選んだ。化粧はややけばけばしく、香水もいつもの三倍は振りかけてもらった。
(ううっ、わたし、香水の香りが強すぎる方って苦手なのよね。自分の付けた香水の匂いで息が詰まりそう……)
何か理由があるならば、悪趣味な格好をするのは構わない。が、この匂いだけはすでにうんざりしている。
(女性向けの香水って、甘ったるい香りばかりよね。男性向けみたいにすっきりした感じのものがあってもいいのに……)
まあ、今は考えたところで不毛でしかない。エレンデルはゆっくりと深呼吸をし、夫とともに部屋の外に出た。
船に揺られ、北大陸の南西に位置するヴィリディス王国までたどり着いてから一日半。最高級のホテルを貸し切り、初日はそこで身体を休めたが、限られた日数を思えばのんびりしてばかりはいられない。
とはいえ、宝石の買い付けを行うにあたり、アーリフティア王国の前国王夫妻という身分は邪魔になる。そこでケスターが提案したのは、到底王族とは思えない扮装で宝石街を訪れるという作戦だ。
(どんなに変装しても美形は美形……ずるいわ)
腰を抱く夫を横目で見上げ、心の中で溜め息をつく。
その視線に気付いたのか、ケスターがきょとんと首を傾げてきた。
「……もしかして似合ってない?」
小声で尋ねられ、エレンデルは瞬時に否定する。
「い、いえ! 逆にものすごく似合うというか、違和感がないというか……」
「高祖母が他国から婿を迎える前は、我が家も高地人らしい赤毛だったからね。しっくりくる顔立ちなんだと思うよ」
美形だからという理由も否定はできないが、大公妃教育で見た歴代君主の肖像画を思い出せば腑に落ちた。
親世代が生まれた頃には、すでに赤毛の王族は一人もいなかったと聞いている。エレンデル自身も今の王族しか見たことがなく、どうしても銀髪の印象が強くなってしまうのだが、本来、アーリフティア王国の歴史全体で見れば赤毛の王族がいた時代のほうが長い。
「逆にエリーはわかりやすいよね」
一瞬、愛称で呼ばれて思考が止まりそうになった。
ケスターは演技を徹底しているだけなのに、エレンデルの側だけが妙に意識してしまっている。
(しっかりしないと! わたしだってそれっぽく見えるように演技しなきゃ!)
平常心、平常心——と心の中で唱えながら言葉のやり取りを繋げる。
「そうですね。金髪ですし、目も寒色なので。子供の頃から北部人らしいと言われることは多かったかもしれません」
「だろうと思った」
ケスターは「ふうむ……」と急に呟いてから、ふと無邪気な笑顔を浮かべた。
「私たちが並ぶと金銀でいい感じだね」
「……っ?! え、えっとそう、ですね……?」
エレンデルには、その発想はなかった。が、ふと隣に並んだ自分たちのことを思い浮かべてみると、確かに髪色の相性はいいかもしれない。
(あれ? 金髪が銀髪と並んでいい感じ、か。地金だったらどうなるのかしら? 金と銀をどちらも使ったジュエリーとか……)
頭の中に新たなアイデアが降ってくる。ぼんやりとしたそれをより鮮明にしようとしていると、ぽんっと優しく肩を叩かれた。
「大丈夫?」
「……へ?!」
「香水の匂いを気にしているようだったから、もしや気持ちが悪くなったのかと思ってね」
「あ、いえ、そういうわけではないんです……」
心配そうな顔で言われて、あまりの恥ずかしさに顔が真っ赤になる。
(ま、まずいわ! 隣に夫がいるのに空想し始めちゃうなんて! もしかして一人時間が長かった弊害が出てる?!)
エレンデルは慌てて否定した。
一晩じっくり眠ったので体調は悪くないし、そもそも香水の匂いに関しては、室外に出たことで少しましになっている。
「えっと、その……殿下が」
「今の私はキットだぞ?」
「すみません。キ……キットが金銀でいい感じだとおっしゃったので、地金に金と銀を両方使ったジュエリーのことを考えてしまって……」
正直に白状すると、ケスターの目がキラキラと輝きだした。
「おお! つまり私は今、世紀の瞬間に立ち会えたということだね!」
「えっ……そ、そんなご大層なものではないですよ?!」
「いいや、十分大層なものだよ! 素晴らしい! さすがは君だ!」
会話中に別のことを考えていたことを責められるでなく、むしろ喜ばれてしまうとは——。
エレンデルは考えていたのと全く違う反応に驚かされる。彼が女性を見下した態度を取らないのはわかっているが、ここまで寛大だとは思っていなかった。
「……怒らないんですね」
「私は君の才能に惚れているからね。君が才能を発揮するところをすぐ隣で見守るために結婚したんだ。これぞまさに本望だよ!」
「…………っ」
うっとりした顔で誉めそやされ、エレンデルはどんな言葉を返したらいいのかわからなくなる。
(こ、この人たらしが!)
かねがね打算だけの結婚ではないと言い聞かせられてきたが、逆に好意的すぎるのもやりにくい。さすがに恋愛的な意味で好かれているとは思っていないが、いつか自分の脳みそがおかしくなって勘違いしてしまいそうだ。
エレンデルは深呼吸を繰り返し、どうにか「ありがとうございます。でも気をつけます」という言葉を頭からひねり出した。
(絵のアイデアより言葉を思いつくほうが難しいこともあるのね)
先ほどまでの話題を続けるなり、別の話に切り替えるなりしたいが、ぽんこつと化した思考回路がまともに働いてくれない。
「そういえば、この街の名前の由来は知っているかい?」
困り果てた彼女に気を遣ってか、ケスターのほうから新しい話題が提供された。
「一応ざっくりとは。昔はここが世界の端っこだったんですよね」
「ああ。南大陸が見つかる前は人間の住む
大陸の南端にあるヴィリディス王国のさらに南端にある貿易都市——フィン・デル・スールは、古くから要衝として栄えてきた。
その中でも極めて有名なのが、ルタ・デ・ラス・ホヤス——ヴィリディス語で〝宝石の道〟を意味する大通りだ。石畳を挟んでいくつもの宝石店や宝飾品店が並び、ごろっとした原石やカッティングを施された裸石、それらを使って仕上げられたジュエリーも買うことができる。
「宝石がフィン・デル・スールに集まるのは、ヴィリディス王国が主な原産地であるサマナラヤー王国と直接契約しているからだ。他の国の商人は買い付けに行っても相手にされない」
「どうしてヴィリディスだけは大丈夫なんでしょうか?」
「それがわかれば苦労はしないよ。かくいう我が国も関係は築けていないからね」
そう続けたケスターは、先ほどまでのうきうきした様子とは打って変わり、苦虫を潰したような顔になった。一瞬で元のにこやかな表情に戻るが、何やら苦い思い出があるらしい。
エレンデルは触れるべきか、触れないべきか迷ったが、とりあえず婉曲に聞いてみることにした。
「アーリフティアの商会で契約を試みたところはないんですか?」
「外交関係とは関係ないところで?」
はい、と答えると、ケスターは首を横に振った。
「何せ遠い場所だからね。国交もない場所、しかも行っても骨折り損になる確率のほうが高いとなれば、尻込みしてしまうのも無理もない。私の治世中になんとかしたかったのだが、どうにもな……」
宝石好きを公言している彼のことだ。きっとかなり手を尽くしたに違いない。これまでのケスターの言動を踏まえれば、上手くいかなかったことはさぞかし悔しかっただろう。
「ヴィリディスの王族にさりげなくコツを聞くとかは……無理ですよね」
話している途中でケスターの笑顔に影が差し始め、エレンデルはこれ以上聞くことを断念した。
「ほら、着いたよ。ここが君と来たかった場所だ」
彼女の心配をよそに、ケスターはいつもの調子を取り戻し、目の前の大きな通りを指差した。
「ホテルを近くにして成功だった」
ケスターは透かし彫りのされた金色の大きなアーチを見上げ、満足そうにガッツポーズをした。やや俗っぽい仕草にも見えるが、可愛らしい少年が喜んでいるようで微笑ましい。
「前に来た時は馬車で潜ったんだが、一度生身で見上げながら通りたくてね」
確かにそう思うのもわかる気がして、エレンデルも彼と一緒になって眺める。
「なんというか、壮観ですね」
「ああ! 上のほうにある色入りが見えるだろう? ガラスではなく本物の宝石だそうだ」
てっきりイミテーションだと思っていたエレンデルは目を丸くした。
(す、すごいわ! さすがは宝石貿易の国・ヴィリディス!)
貴重な宝石を市街地のアーチにはめ込むなど聞いたことがない。
「わたしなら盗まれるのが怖くてできないです」
「実際、二度ほど盗難があったと聞いているが、宝石を使うこと自体はやめないらしい。盗まれたら色の替え時とかなんとか」
「なんというか、すごいという言葉しか出てきませんね……」
二人はしばらくアーチを眺め回してから、ルタ・デ・ラス・ホヤスに足を踏み入れた。大公夫妻としては品のない行動だが、物見遊山中の成金夫婦なら問題ない。
(これ、すごく楽しいかも!)
エレンデルはケスターの横に並んで歩きながら、胸が今までになく高鳴るのを感じた。
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