第7話 いざ新婚旅行へ
夫とともに二度寝を決め込み、昼頃にようやく本格的に起きてきたエレンデルは、養子縁組を終えて男爵令嬢となったニコールを迎えていた。
これから夫婦は数人の侍従と護衛の騎士たちを連れ、海路で新婚旅行に出かける。荷物などは事前にまとめてもらっているので、あとは自分自身の身なりを整えるだけだ。
「ごめんね、ニコール。離宮に移ってもらって早々に船旅だなんて……」
「おじょ……こほんっ、妃殿下だってお忙しかったでしょう? 大して変わりませんよ」
新しい実家が揃えてくれたという上品なドレスをまとい、ニコールはあっけらかんと笑った。
(やっぱり楽だわ。このさっぱりとした感じ。すごく安心する)
もちろんマイナや他の侍女たちが嫌いなわけではない。けれども幼い頃からお互いのことを知っている相手がそばにいてくれるだけでも、エレンデルにとっては心強かった。
「そういえば、ここって温泉があるんですよね」
「ええ、ございますよ」
ニコールが興味津々で言うと、マイナがエレンデルの顔に化粧を施しながら答える。
「殿下方とは別ですが、使用人向けの浴室もありますからね」
「そうなんですか!?」
「温泉は誰もが楽しめるものだから、と大公殿下がおっしゃって、別棟をわざわざ作ってくださったんです。わたくしも二日に一度は使っております」
「なるほど! だからマイナさんのお肌はとっても綺麗なんですね!」
温泉は疲れを取り、身体を元気にしてくれる上、入り続ければ美肌も期待できる。目の前の生きた見本をまじまじと眺めてから、エレンデルとニコールは目を輝かせた。
「……言われてみれば、妃殿下のお肌も寝不足のわりにはつやつやかもしれませんね」
「えっ? 本当に?!」
髪を結う手を一度止めたニコールが興味深そうに呟くので、エレンデルも鏡の前の自分をじっと見てみる。
(おお! 意外と綺麗かも!)
意外な発見に胸を躍らせる。
……もしかしたら、夜中まで絵を描くのに熱中していても、温泉に入りさえすればある程度リセットされるのではないだろうか。
「妃殿下、今よからぬことをお考えになったでしょう? だめですよ」
彼女のうきうきした様子に何かを察したのか、ニコールから釘を刺される。
「そ、そんなことはないわよ?」
「ありますよね。お当てしましょうか? 夜遅くまで絵をお描きになられても、温泉に入りさえすれば問題ないとか思っていらっしゃいませんか?」
実にその通りだ。ぐうの音も出ず、エレンデルは乾いた笑みを浮かべた。
「マイナさんも、妃殿下を甘やかさないでくださいね。すぐ適当な生活をしようとなさるんだから!」
「では、わたくしも気をつけますね」
この件に関して、エレンデルの味方になる人間はいないらしい。
一応、実家よりはきちんとした生活を送る気はある。けれど、昨日の時点で夫婦して絵に熱中してぐだぐだになったので、もう少し好きにやってもいいのではないかとも思い始めていたのだが——。
「昨夜の件については、執事のロードリックから大公殿下に苦言を申し上げたそうです」
「……えっ、でもあれはわたしも楽しかったので」
「いいえ。初夜だというのに、花嫁を巻き込んで夜明け直前まで絵をお描きになるなんて……」
おっとりした印象のマイナから意外と手厳しい発言が飛び出したので、エレンデルは目を丸くした。
「そ、それはわたしもその……覚悟があったかと言われたらちょっと……」
一般的な初夜が過ごせなかったからといって、蔑ろにされたとは思っていない。ケスターのことは素敵な男性だと思っているが、だからといって出会って一ヶ月の相手と
まさかケスターが責められているとは思わなかったので、エレンデルは少々どころでなく慌てた。
「本当ですか? 殿下が王族だからと甘やかしてはいらっしゃいませんか? とても善いお方ですが、夫としては問題ですからね?」
マイナからそう尋ねられ、大きく首を振って否定する。
「お、お互い様なので! むしろわたしに気を遣ってくださったのかもしれないし」
「……承知いたしました。そういうことにしておきます」
すました顔で頷きつつも、なんとなく解せないという雰囲気の彼女を見て、エレンデルは逆に少し安心した。
勘違いでなければ、マイナは花嫁である自分が尊重されるべきだと思ってくれている。優しげながら何を考えているかわからないと思っていたが、こうやって少しでも感情を垣間見られたことで、彼女ともそれなりにやっていけそうな気がしてきた。
「でも、心配してくれて嬉しかったわ。ありがとう、マイナ」
「……いえ、恐れ入ります」
エレンデルが感謝の言葉を付け足すと、マイナは一瞬だけ手を止める。ほのかに微笑むと、またエレンデルの肌にブラシを滑らせた。
(あらあらまあまあ的な系統の人だと思ってたけど、すごく生真面目というか、仕事は仕事で分けてるって感じね)
いい意味でビジネスライクだ。ニコールの気安い関係だからの手厳しさとは毛色が違うが、これはこれで悪くない。
考えてみれば、リタニンガス子爵邸にも同じようなスタンスの使用人は少なくなかった。踏み込みすぎない適度な距離感というのは、割り切ってしまえば案外気楽だと思う。
「妃殿下、お支度が済みましたので、あとは大公殿下がいらっしゃるのをお待ちくださいませ」
少し思考に浸っていると、マイナから声をかけられた。
いつの間にか伏せていた目線を上げ、鏡の中の自分を眺める。
「マイナは化粧を施すのが上手なのね」
エレンデルが素直な感想を述べると、ニコールも何度も頷きながら同意した。
「本当ですね。妃殿下がますますお美しくなりました」
「元々美しいかはわからないけど、さっきまであったくまも最初からなかったみたい。素晴らしいわ!」
不健康そうな顔で起きてきたはずだが、化粧を施された後の顔はまるで別人のようになっている。
健康的で艶やかな白肌に、自然に血色が良くなったかのようなピンクの頬。目が大きく、美しく見えるように塗られたアイシャドウはいい塩梅で、紫がかった赤で彩られた唇もまるで赤子のそれのようだ。
「お褒めいただけて光栄に存じますが、妃殿下は元々お美しくていらっしゃいますから」
マイナは隙なく謙遜するが、エレンデルは純粋に彼女の手腕に感心していた。
「あら、わたしはあなたの腕がすごいからだと思うけど。これからは化粧をマイナにお願いしようかしら」
思いついたことを口にすると、ニコールもエレンデルの意見に乗っかる。
「それがいいと思いますよ。わたしは髪結いのほうが得意ですし。これからも妃殿下を輝かせましょう!」
「ふふっ、ニコールもこう言っていることだし、お願いしてもいい?」
「そう言っていただけるのでしたら、謹んで承ります」
二人から強く勧められ、マイナは少し困ったような笑みを浮かべて承諾してくれた。嫌がっているというよりは、照れているように見える。
(ストイックだけど隙はある、と。可愛らしい方ね)
やはり人間とは接してみないとわからないものだ。
エレンデルは少し警戒心を抱いていた昨日の自分を反省した。婚約破棄される前の自分も、かつての友人たちとはとにかく会って、互いを知ることで関係を深めていたのを思い出す。
(あの人たちには結局裏切られたけど、誰もが同じわけじゃないわ)
マイナや他の侍女たちのこともちゃんと知り、ちゃんと関係を築くことを新しい目標にするのもいいかもしれない。いや、そうすべきだろう。
パウダールームを出て、夫婦の共用の部屋の一つに向かいながら、エレンデルは心の中のやることリストに項目を加えた。こうしていると、もう一度人生をちゃんと歩き始めた実感が湧いてくる。
程なくして到着した部屋では、先に支度を終わらせたケスターが優雅に紅茶を嗜んでいた。
ピンクダイヤをはめ込んだかのような双眸がエレンデルの姿を捉えると、彼の顔は結婚式の時に見たような、少年のような溌剌とした笑顔に変わる。
「私の妻はとても美しいな!」
「マ、マイナのお化粧が上手いので……! わたしの顔は別に普通というか」
直球で褒められて、エレンデルの顔は真っ赤になった。
頭の中が真っ白になり、咄嗟に卑屈っぽい言葉が飛び出してしまう。
「確かに彼女の腕前は一級品だが、元の素材がいいからこそ引き立つということも忘れないでくれ。私が美しいと思っている君のことを、君自身も美しいと思ってほしいんだ」
ケスターはマイナのことも誉めつつ、真剣な顔でエレンデルに言い聞かせた。
確かに対象が自分とはいえ、相手が褒めたものを貶すことは良い反応とはいえない。正直むず痒くてたまらないが、彼がそのほうが嬉しいならばと、エランデルはおずおずと頷いた。
「……ありがとうございます。すぐにはできないと思いますが、その……善処します」
「そうしてくれると助かるよ」
彼女が今できる返事を口にすると、ケスターは再び顔を綻ばせる。
「では、そろそろ私たちの旅に出かけるとしようか」
「……っ! はい!」
立ち上がった彼から手を差し伸べられ、エレンデルもはにかみながらそれを握った。
初めての船旅——それも実家から出るどころか、祖国の外に出て異国を訪れることになる。期待と不安が入り混る中、彼女と夫の新婚旅行は始まった。
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