第6話 大公殿下とスケッチブック
時刻は夜の十時を回ろうという頃。結婚式と両家の晩餐会を終え、エレンデルはようやく一息つくことができた。
どうなるかと思ったが、意外になんとかなるものだ。そして——現在、彼女の姿は巨大な浴槽の中にあった。
(王都にも温泉が出る場所があるって噂だったけど、まさかここだったなんて……)
疲れが湯に溶けていくような感覚が実に心地いい。控えめに言っても最高だ。
(ケスター殿下って、好きなのは宝石だけじゃなかったのね)
近年はアーリフティア王国でも湯治の概念が広がり始めたが、温泉に興味がない人間のほうがまだ多い。二年前に浴室が増築されるまでは、離宮の温泉も使われずに放置されていたという。
これを整備したのが、外遊先で湯治の魅力を知ったケスターだ。単に湯が噴き出す池でしかなった場所は屋根のある浴場に変わり、離宮から渡り廊下で行き来できるようになった。
(これなら嫁いできた甲斐があるかも。本当にありがとうございます、殿下!)
エレンデルはうっとりと深呼吸をしつつ、心の中でケスターに感謝を述べておいた。
ところが次の瞬間、背後から「妃殿下」と声をかけられ、反射的に身体に力が入る。
「温度の熱い、ぬるいなどはございますか?」
「だ、大丈夫よ。すごくいいと思うわ」
かろうじて声が裏返ることなく答えると、彼女に話しかけた人物——ケスターから付けてもらった新しい侍女の一人・マイナはにこやかに微笑んでくれた。
「喜んでいただけて何よりでございます。妃殿下はこの離宮の女主人公でいらっしゃいますので、これからは毎日でもお入りになれますよ」
「ありがとう。きっとその言葉に甘えさせてもらうわ」
それっぽい返事をして、エレンデルは強張った身体を落ち着かせる。
正直なところ、だらしがないだとか、早く出たほうがいいとか、何か注意されるようなことしたのかと身構えてしまった。結局は差し支えのない質問だったので少し安心したが、引きこもり歴が四年にもなると、馴染みのない相手との会話はどうしても緊張するのだ。
(ううっ……優しそうな方なんだけど、まだ未知数の部分が多くて慣れない……)
見知らぬ人間に世話をされるというのは、今のエレンデルにとってはなかなかにハードルが高い。
(ニコールもそのまま付いてきてくれればよかったのに……)
彼女は今日のところはリタニンガス子爵邸に戻ったが、明日の昼過ぎから離宮に移ってきてくれると聞いている。
ニコールはポートマン家の傍系の子女だが、戸籍上の身分はあくまでも平民なので、大公妃の侍女となるには身分が足りない。最低でも男爵位を持つ家と養子縁組をする必要があり、その手続きが先方の都合で明日までずれ込んでしまったのだ。
(とにかく、今日は耐えてみせるわ)
何よりも、夫になったとはいえ、いまだに家族というよりは雲の相手の相手との初夜が待っている。
何をするべきかの知識はあるが、なかなか覚悟が決まらない。長湯でのぼせて倒れれば回避できるのではないかとも思ったが、初夜が正しく行われなければケスターに恥をかかせることになる。
(はぁ……頑張らなきゃ……)
エレンデルは震える心を叱咤しつつ、マイナに風呂を切り上げることを伝えた。
湯船から出て寝支度をし、夫婦の寝室に向かう。身体は温泉の余韻でほかほかしているが、不安で指先が冷たくなってきた。
(うううぅ、やっぱり体調不良ってことにならないかな……)
いっそ今登っている階段を踏み外して転げ落ちたいくらいだが、現実逃避をしている間に寝室に着いてしまった。
マイナがドアを代わりにノックすると、中に入るよう促される。さながら屠殺場に向かう家畜のような気持ちで足を踏み入れると、そこには意外な光景が広がっていた。
確かに豪華な寝室である。エレンデルの自室にあったものより二回りほど大きいベッドに、王族の離宮に相応しい調度品の数々。足元には絹のカーペットが敷き詰められている。
しかし何よりも目を引いたのは、その部屋の中では異質としか思えない一角だった。
一片が二メートルほどの正方形で、その部分だけカーペットが切り取られているらしく、フローリング部分が露出している。区画の中にはイーゼルと椅子が一つずつあり、近くには絵の具などを載せたサイドテーブルが置かれていた。
「すまない。これだけは今日中に描き上げなくてはと思ってね」
椅子に座り、膝にスケッチブックを乗せているのは、晴れてエレンデルの夫になったばかりのケスターだ。
「これ、わたしの絵……」
イーゼルに立てかけられた絵は、先日の個展で彼が買ってくれた空想絵の中の一枚だった。緑や黄色の宝石が散りばめられたイヤリングを題材としている。
手招きされて近寄ってみると、ケスターのスケッチブックにはこの絵の模写と思われるものが描かれていた。大きさは違うが、色が塗られている部分はそっくりそのままだ。
「明日から新婚旅行に行くだろう?」
「えっと、南のヴィリディス王国に行くのですよね?」
「ああ。あの国には西部随一の宝石街があるから、浮かれた新婚夫婦が宝石を見に来た——という建前で、君が考えたジュエリーの材料を買い付けようと思っているんだ」
そういえば求婚の際、彼が空想絵に描かれたジュエリーを再現したいと言っていたのを思い出した。
(あれって本気だったんだ!)
嬉しい誤算のおかげで、不安な気持ちが少し和らぐのを感じる。
「本当は君の絵をそのまま持って歩きたいところだが、そういうわけにもいかない。というわけで、このスケッチブックだ。一般的なジュエリーと同じくらいの大きさで模写すれば、この上に宝石を置きながら検討できるだろう?
「……っ! 確かにそうですね!」
「ほとんどは昨日までに模写できたんだが、この絵だけが間に合っていないんだ」
他のページを見せてもらうと、確かに自分の描いた絵が上手に写し取られていた。
「とっても綺麗……! わたし、殿下がこんなにお上手に絵を描かれるなんて存じ上げませんでした!」
「君に比べれば大したことはないよ。私は見ているものを写すことしかできないからね」
エレンデルの口から素直な賞賛が飛び出ると、ケスターは照れくさそうに謙遜する。
(さりげなくわたしまで褒めるなんて、やっぱり変わってるわ。普通の男性なら、逆に『まあ、君よりは上手いよ』とか言いそうだもの)
人によっては男らしくないと思うのかもしれないが、エレンデルはこの返事にとても好感を持った。貶してくる男性より、こうやって褒めてくれる男性のほうがずっといい。
「君だけ眠ってくれてもいいんだが、もしよかったら色についてアドバイスをもらってもいいかな?」
「わたしでよろしければぜひ!」
ケスターからにこやかに尋ねられ、喜んで承諾する。
それからすぐ、立ちっぱなしにならないよう、すぐにマイナが椅子を持ってきてくれた。エレンデルは右利きのケスターの邪魔にならないよう、左側に座って彼の絵を覗き込んだ。
(綺麗な色。アドバイスなんかしなくても、わたしの頭の中に浮かんだそのままの色を出せそうだけど……)
ケスターは真剣な目で絵の具を混ぜ、試し書き用の紙にそれを乗せてから、エレンデルの絵と見比べた。今回は少し違ったらしく、パレットの上の明るい黄緑に青が付け足される。
「この色はどう? 合っているかい?」
できた色について尋ねられたエレンデルは、少し思案してから、自分がこの絵を描いたときに使った色の配合を伝えた。他の男性の画家と違い、彼ならば怒ることなく意見を聞いてくれると思えたからだ。
彼女が思った通り、ケスターは一言「なるほど」と呟き、より近い色を出すためにパレットと向き合った。
(なんか初夜って感じじゃなくなったけど、殿下がいいならこっちのほうがいいわ!)
横で口を出すだけの立場だが、先ほどまで心細くて仕方がなかったのが嘘のように楽しい。
本来、初夜のあれこれをすっ飛ばされた女性は悲しむものだ。しかしエレンデルは無理にベッドを共にするよりも、こうやって芸術を楽しむ時間を共にしてくれるほうが嬉しかった。疎んじられているわけではないし、ケスターが自分を尊重してくれていることを強く感じられる。
「エレンデル、この光の部分はこれでいいかな?」
「いいと思います。でももっと——」
結局、二人のやり取りは空が明るくなり始める直前まで続いた。
絵が仕上がるなり泥のように眠り、翌日にはお揃いのくまが目の下に鎮座している始末だ。夜着には絵の具の匂いが染み付き、寝不足のせいで頭痛すらしてくる。
それでも、エレンデルにとっては驚くほど清々しい朝だった。
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