第4話 都合のいい花嫁
(あっ、もしかして……!)
実際の時間としては数分程度、エレンデルの体感ではまるで数時間が過ぎ去るような感覚で考え続けた末に、一つの考えが降りてきた。
(わたしって、殿下の境遇からすると、意外に都合が良かったりするのかしら)
アーリフティア王国の歴代君主は女王だが、それは女性が政治的な頂点に立っていることを意味しているわけではない。彼女たちはあくまでも象徴としてのみ存在を許され、国家の舵取りはそれぞれの王配に委ねられてきた。
この制度は政治が不得手な女王を助けるという名目で使われているが、実情は全く違う。真の目的は王家に生まれたというだけの愚か者に権力を握らせず、本当に有能な人物に国家の舵取りを行わせることだ。
ところが、建国から長い歳月を経て、ケスター・エムリス・フェアベインは現れた。現れて
「あの、少しお聞きしたいのですが」
「構わないよ」
エレンデルが意を決して話しかけると、ケスターは快く頷いてくれる。
「無礼でしたら申し訳ございません。殿下は今、ご自身の影響力を御削ぎになりたいとお考えですか?」
「…………なるほど、面白いことを言うね」
にこやかな顔からスッと表情が消える様を見て、エレンデルの背筋に悪寒が走った。
やはり聞くべきではなかったか、と今更ながら後悔する。
「そういう打算があることは否定しないよ。父は私を脅威だとは思っていないが、妹の夫になる者にとっては邪魔だろうからね」
ケスターは先ほどの無表情が嘘のように、ややおどけたような態度で言った。
「私が公爵家や侯爵家の娘と結婚して、子供ができたとしよう。それが男だったらどうなると思う?」
「えっ?! いや、それはその……」
「何を言っても咎めはしない」
「……い、いつかお生まれになる王太女殿下の地位を脅かすことになるかと」
自分が蒔いた種なので求められるままに答えるが、視界の端では父親が顔色をなくして慌てているのが見えた。
芸術と同様、こういった事柄を女性が語るのは、決して褒められるようなことではない。口を開けば開くほど、より深く、より広く墓穴を掘り進めているような気がする。
しかし、そんな彼女の様子を特に気にした様子もなく、ケスターは彼女との会話を続けた。
「その通り。私は女王制を揺るがすつもりはない。強力な外戚を得ることはあってはならないんだ。この点、リタニンガス子爵家を選ぶことには大きな価値がある」
「そう、ですよね」
「ああ。建国六家の一角を担う名家でありながら、領地もなく、爵位は下から数えたほうが早い。表向きは人畜無害な学者の一族だし、歴代の当主が揃って陞爵を拒むほど野心がない」
事実を列挙され、納得できるような、寂しいような複雑な思いが湧き上がってきた。
自分の価値や立ち位置は、自分が一番わかっている。エレンデルが描いた絵を気に入ったと言われるよりも、政治的に都合がいい相手だから選んだと言われたほうが腑に落ちた。
(どうせわたしなんて、所詮は家のおまけでしかないんだもの。わかってたわよ。でも、なんだか——)
なまじ感情があるせいで、頭では理解していることが割り切れない。
この四年間、貴族令嬢としては異常なまでに自由に過ごしてしまったから、心が変なふうに鈍ってしまったのだろうか。
(わたしは殿下に何を求めていたの? まさか『そんなことないよ』なんて言ってもらえるとでも? そんなわけないじゃない!)
勝手に落胆しているのを知られたくなくて、エレンデルは表情を必死に取り繕った。気を遣われでもしたら、もっと惨めになる。
「——ただし、君の絵に惚れ込んだことも事実だから、そこは絶対に疑わないでくれ」
「…………へ?」
想像もしていなかった不意打ちに、エレンデルは目を見開いた。
「そもそも、君と結婚するよりずっとふさわしい生き方があるだろう? 本当に憂いをなくしたければ独身でいればいい。一生ね」
それは、確かにそうだ。
不意に希望のようなものが胸の奥から湧き上がってきて、押さえ込まなければと必死になる。
「君の絵と出会ったからこそ、しなくてもいい結婚をしようと決めたんだ。純粋な政略結婚なら、今日のように直接求婚することもなかったと思うよ」
「…………そう、なんですかね?」
「君、私が言ったことを覚えているかい?」
ケスターはエレンデルの目をまっすぐに見て、先ほどあれこれと説明していたときよりも優しい声で尋ねた。
突如として変わった空気に戸惑いながら、エレンデルは一生懸命に会話を振り返る。
しかし、ケスターはこの度は彼女の答えを待つことなく、改めてこう告げた。
「まだ君を愛しているわけではないが、君にとって良い夫になると約束しよう」
「………………っ!」
「わたしが君について知っているのは、絵が上手なことと、聡明なこと。今はこの二つぐらいだが、もうこの時点でうまくやっていけることはだと確信しているよ」
聡明とは、一体どのような言葉だっただろうか。
あまりにも自己評価とはかけ離れた言葉が聞こえ、咄嗟に意味が頭に入ってこなかった。
世辞の可能性は大いにある。というか、エレンデルは自分の聞き間違いでなければ、残された選択肢は世辞しかないと思っている。しかし、ケスターが心にもないことを言ったのだとしても、親類以外の男性で女性のことを〝聡明〟と表現する人間は見たことがない。
(ぜ、絶対に変な人だ!)
エレンデルは結局ずっと彼女の手を握り続けている相手に対し、なかなかに不敬で身も蓋もない評価を下した。
(すごい人のはずなのに、感覚がどこかずれてるみたい)
しかしこれを口に出すのはばかられるし、どのような返事をするのが正解なのかわからない。
間が保たずに愛想笑いを浮かべると、彼女と目が合ったケスターは「なあに?」という声が聞こえそうな表情で首を傾げた。先ほどの風格を感じさせる姿からは想像もできない、あざとくて子供っぽい仕草だ。
エレンデルはそれを見てチャーミングだと思うより先に、底の知れない恐ろしさを感じた。
(どれが本当の殿下なのかしら? 見れば見るほどわからないわ)
だが、これ以上はもう食い下がれる自信がない。表向きは命令ではなく、懇願の形で求婚されているものの、おそらくケスターは承諾以外の選択肢を想定していない。
エレンデルはごくりと唾を飲み込むと、静かに覚悟を決めた。
「——わかりました。殿下と結婚します」
答えを声に乗せた瞬間、ケスターのピンクダイヤの瞳がきらきらと輝くのが見えた。向日葵のような満面の笑みにうっかり見惚れているうちに、筋肉質な腕の中に閉じ込められる。
「ありがとう、エレンデル! 君を世界一幸せな女性にしてみせるよ!」
感極まった声が耳元で響き、状況を理解すると同時に顔が真っ赤になった。
(はわわわわわわ?! えっ、嘘! えええ?!)
色っぽさのかけらもない、まるで家族や友人にするような抱擁。しかしそのありふれた抱擁のせいで、エレンデルの心臓は忙しなく脈打っている。
身体を鍛えている人間が身近にいなかった彼女にとって、鍛え上げたれた胸板や太い腕に包まれるのは初めての感覚だ。しかも、相手は曲がりなりにも本物の王子様である。
(そんな雰囲気なかったじゃない! 手を握ってたのだって様式美でしょう?!)
テンションの上がったケスターにぎゅうぎゅうと抱き締められ続け、エレンデルのキャパシティは限界に近づいていた。——が、実はこんなものはまだ序の口であり、やがて最後の爆弾が落とされることになる。
ややあって彼女を解放したケスターは、あたかも「明日はピクニックに行こう」と言うかのようなノリでこう宣ったのだ。
「結婚式は早いほうがいいだろう? 一ヶ月後にどうかな? ウェデングドレスは——」
彼の言葉を最後まで聞くことなく、エレンデルは気を失った。
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