第3話 招かれざる大物

 食事を終えたエレンデルは、木炭を手にキャンバスと向き合っていた。

 イーゼルの横のサイドテーブルには、父親がプレゼントしてくれたおしゃれな砂時計が二個置かれている。大きい方は三十分、小さい方は十分が測れるようになっており、絵を描くときには欠かせないアイテムだ。

 エレンデルは砂時計を使うことで、作業時間と休憩時間をテンポよく繰り返せるようにしていた。作業を続け過ぎれば無駄に疲れるし、長々と休憩しすぎては絵を描き終えられない。何事もバランスというものが大切なのである。


 彼女の描く空想画は、頭の中に薄ぼんやりと浮かんだイメージをざっくりと書き起こすことから始める。

 まずは大きいシルエットを描き、徐々に細かく描き込んでいく。手を動かせば動かすほど、輪郭がはっきりして鮮やかさを増し、やがてこの上なく美しいイヤリングやネックレスや指輪が姿を現すのだ。


 もう少しで輪郭が固まりそうだと思った瞬間、アトリエのドアをノックする音が聞こえた。砂時計に目をやれば、まだ全部は落ち切っていない。

 いっそ週中しすぎて聞こえない体を装おうとも考えたが、何度も何度も激しく叩かれるので、さすがのエレンデルも諦めて返事をすることにした。


「……なに?」


 少しムッとした気持ちを隠しきれずにそう言うと、焦った様子の執事が顔を出す。


「ブラウリー大公ケスター殿下がいらっしゃいました。お嬢様もご挨拶を」

「………………え?」


 普通に暮らしていれば聞くことのないだろう言葉に、エレンデルは一瞬固まった。聞こえはしたが、意味がわからない。


「あ、えっと、誰?」

「ブラウリー大公ケスター殿下です」


 聞き間違えている可能性に思い至り、たどたどしく聞いてみたが、改めて現実を突き付けられる。


(え? なんで? 殿下がわたしを訪ねてくる理由が思い浮かばないんだけど?)


 意味がわからなすぎて、エレンデルは反射的に拒否しようとしたが——。


「む、無理です!」

「いいえ、会わないという選択肢はお嬢様にはありません」


 けんもほろろにお断りをお断りされ、アトリエから引っ張り出される。


「さあさあ、早急にお支度をお願いいたしますね」

 

 逃げ道を塞がれたエレンデルは、声にならない叫びを上げるしかなかった。


(どうしよう……もしかして個展? 個展のせいなの? 女が絵を描くなんて万死に値する的な!? わたし殺されるの!?)


 パニック状態になった彼女に、ニコールがてきぱきと着付けをしていく。

 エレンデルがまともなドレスに袖を通したのは、いとこの一人がおすすめの本を持ってきてくれた日以来、約三ヶ月ぶりだった。いつもは感じないコルセットの締め付けにげんなりしたところで、ようやく少し正気が戻ってきた。

 

 客間に行くまでの間、目上の人間の前に出るときのマナーを思い出して頭の中で反復する。

 なにせ彼女に会いにくるのは身内ばかり。王族のような大物とはこの四年間で一度も会っていない。何かやらかしてしまわないかを考えると気が気でなかった。

 もう少し時間が欲しいところだが、実は客間とエレンデルのアトリエはそれほど離れていない。あっという間に目的地に到着し、ドアの前に立っていた騎士に一礼すると、すぐに扉が開かれて中へ通された。


(——ほ、本物だぁあああああ!!)

 

 子爵家で最も高価なソファに、はっとするほど美しい男性が腰掛けている。

 肩を越すほどの銀糸よりも眩い白銀の髪に、ピンクダイヤモンドの瞳。辣腕で知られた彼に相応しく、顔立ちからはどこかインテリらしさを感じさせる。

 本物の王族の姿に、エレンデルは足が震えそうになるのを感じた。

 

 先王ケスターは、代々女王が治めるアーリフティア王国において、唯一王位に就いた男性として知られている。

 彼は先々代の女王——つまり彼の母親が崩御すると、まだ幼かった王女が成人するまでの間、中継ぎの国王としてこの国を守り続けた。彼は傑物でありながら分をよく弁えた人物で、昨年に妹のスピネリアに譲位した際、自身の尊称を陛下から殿下に改めている。


「お初にお目にかかります。リタニンガス子爵家長女、エレンデル・ポートマンと申します」


 どうにか声が震えないように挨拶をすると、ケスターは優しく目を合わせて微笑んでくれた。


「ブラウリー大公、ケスター・エムリス・フェアベインだ。前触れもなく来てしまって申し訳ない」

「い、いえ……光栄です!」

「そうか。ならばよかった。……ああ、立たせたままではよくないな。私の向かいに座ってくれ」


 ケスターから流れるように勧められ、恐る恐る指定された場所に座る。

 幼い頃から見慣れたはずの質実剛健な客間が、今日はあたかも王宮の一室かのように見えた。部屋の四隅に静かに佇む騎士はもちろん、目の前で足を組んで座る美青年の存在感が大きすぎるのだ。


「先日の個展は実に素晴らしかった。君も知っているかもしれないが、私は宝石やジュエリーに目がないからね。隅から隅まで楽しませてもらったよ」


 にこやかにそう言われ、エレンデルは飛び上がりそうになった。


(個展! やっぱり個展の話だったー! こ、これって嫌味だったりする? 王族語的には『なんだあのゴミカスは!』って意味とか?!)

 

「——み、みみみ身に余るお言葉、恐悦至極に存じます」

「確認するが、あれは君が一から全て考えたジュエリーの絵で合っているんだね?」

「はい、そうですぅ……」


 最後のほうはもはや消え入りそうな声で答えると、ケスターは満足げにうんうんと頷いた。


「そうか。ならば問題ないな。エレンデル・ポートマン、君には私と結婚し、私が立ち上げるジュエリーブランドの専属デザイナーになってほしい」


 予想だにしない提案に、エレンデルはぴしりと固まった。

 

(は? えっ?! 何? ケッコン? ……け、結婚んんんん?!)

 

 救いを求めて近くに座っていた父親を見やるが、珍しく向こうも目を丸くしておろおろとするばかり。騎士たちにも目を逸らされ、エレンデルはたった一人で魔王に立ち向かう勇者のような心地になった。


「……申し訳ありません。その……差し支えないようでしたらもう一度おっしゃってくださいませんか?」


 勇気を出して尋ねると、ケスターは一瞬きょとんとしてから再度口を開く。


「私と結婚し、私が立ち上げるジュエリーブランドの専属デザイナーになってほしい。悪い話ではないと思うが、どうだろうか?」


(どうだろうかって何?! どうもこうも、そんなことある?)


 エレンデルは自分の耳ではなく、今度はケスターの正気を疑った。

 聞き間違いではなく、彼が本当にエレンデルに求婚していることはわかったのだが、どうしてその提案をするに至ったのかが理解できない。

 自分で言うのもなんだが、エレンデルは絵を描く以外に能のない、嫁き遅れて実家に引きこもっている女だ。到底釣り合うとは思えなかった。

 そうして思い悩んでいるのが顔に出てしまったらしく、ケスターが苦笑しながら肩を竦めるのが見えた。彼はそのまま椅子から腰を浮かすと、緊張状態で冷え切ったエレンデルの手をそっと握って跪く。


(ひょえええええええ?!)


 目の前で王族に膝を突かれるという恐ろしい光景を見て、エレンデルは自分の顔から血の気が引くのを感じた。


「で、殿下! お立ちください!」


 エレンデルは慌てて彼を立たせようとしたが、近くで見ると意外に鍛え上げている体はびくともしない。


「エレンデル、私は求婚に来たんだよ。先ほどはすっかり忘れていたが、結婚を申し込むのなら跪かなくてはね」

「い、いや……あの、でもですね……」

「まだ君を愛しているわけではないが、君にとって良い夫になると約束しよう。君が一日中絵を描きたければそうしていいし、誰にも会いたくないのなら社交の場に引きずり出すこともない。子供を作るかどうかも、君の意思を優先する」


 逃げられない距離でしっかりと目を合わされ、たたみかけられる。


「王位を降りて何をしようか考えていた時に、君の描いた素晴らしい絵を見つけたんだ。これだと思ったよ。全部買って次の日も一日中眺め回していたんだが、ふとこれは現実に顕現させねばならぬという天啓が降って来た気がしてね」

「え、あ、ありがとうございます。でも別に結婚しなくても……」

「いいや、必要ある。君が別の人間と結婚してしまったら? その男は君の絵を燃やしてしまうかもしれないよ? そうでなくとも女の君ではなく、男である自分の名義で出したいと言ったらどうするんだ!」


 ケスターが間髪を入れずに早口でしゃべるものだから、エレンデルは目を白黒させて聞いているしかなかった。

 もはや彼に握られている手の感触すらなく、背中を流れ落ちる冷や汗の不快さばかりが生々しくまとわりついてくる。


(か、考えよう! 何か裏があるはず! 脳みそ! 脳みそよ、動け!)


 古今東西、王族というのは、子爵家などという身分の低い家から妻を迎えないはずなのだ。

 加えてエレンデルときたら、婚約破棄により貴族女性として失格の烙印を押され、婚期を過ぎても実家に引きこもり続けている上、女性の身で芸術に手を出すという愚行まで犯している。どうあがいてもケスターとは釣り合いが取れない。

 十年間も立派に国王の責務を果たしてきた傑物が、そんな単純なことを理解していないとは思えない。

 強い圧に押し負けそうになりながら、エレンデルは必死に思考を巡らせた。

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