第2話 小さな世界のエレンデル

 王立学園の卒業パーティーで婚約破棄をされてから、約四年——。

 両親はすでに彼女に婿を取らせることを諦め、二年前に分家の子弟の中から優秀な者を養子に迎えていた。

 十八歳で出来損ないの烙印を押されたエレンデルは、実家という静かな世界の中だけで生きている。結婚適齢期を過ぎてなお独身、さらに社交もせず引きこもっているとなれば、貴族女性としては死んでいるも同然だった。

 

 バスタブに張られたぬるま湯の中に身を沈めると、当時受けた屈辱的な扱いのことが昨日のように蘇ってくる。

 ホーレスとポピーが多少の慰謝料を払っただけで大きなダメージを受けなかったのとは反対に、エレンデルには〝男を立てない女〟という悪評が付いて回るようになった。社交界から爪弾きにされ、幼い頃からの友人たちでさえもエレンデルから離れていく。


(わたしにはもう、ここしか居場所がないのよ)


 今は実家に置いてもらえるだけでありがたいのだと理解しているが、自分の味方など誰もいないように感じた時期もあった。


「ねえ、ニコール」

「はい」

「あの男、ドレスを選ぶセンスがないわけじゃなくて、単にわたしに労力を使いたくなかったのね」


 新たな発見というほどでもないが、改めてホーレスがどんなに自分を軽んじていたかを実感させられた。

 夢の中の彼は、エレンデルから見てもセンスのいい服装をしていた。ポピーが着る彼とお揃いのドレスも同様だ。


「そうですねぇ……実のところ、評判いいみたいですし……」

「ああ、もう! なんて腹立たしいの!」


 学院卒業の翌年に伯爵となったホーレスは、まさに人生薔薇色という感じだった。領地経営はすこぶる順調で、跡継ぎとなる息子もおり、歌劇俳優のパトロンとしての立場も確立している。

 客観的に見れば、向こうは社会的に成功している男で、こちらは社会的に死んでいる女だ。彼がした仕打ちを思えば逆であってほしいものだが、世間はそう甘くない。

 ため息をついてから、エレンデルは朝風呂を切り上げた。


「今日も一日描かれますか?」

「もちろん。それしかやることないもの」

「そんなことはないと思いますけど……」


 ニコールは優しいのでそんなことを言ってくれるが、エレンデルとしては事実だと思っている。


「いつもの、ですよね……?」

「あはは……」


 何やら含みのあるニュアンスで尋ねられ、思わず乾いた笑い声が口をついて出た。

 この家の人間はわりとエレンデルに好きさせてくれるが、彼女の服装にだけは度々苦言を呈してくるのだ。

 

「そろそろ新しいものに買い換えませんか?」

「どうせ汚れるのに?」

「それはそうなんですけど……」


 不満そうなニコールの手を借りて愛用のドレスを身にまとい、髪も低い位置でシニヨンにしてもらう。


「この服、こういう模様だと思えばおしゃれに見えてこない?」

「こないですね。お嬢様がなんと思おうと、これは絵の具が飛び散った汚い服です」


 悪あがきで同意を求めてみたものの、ニコールからはいつものように一刀両断された。


(別にこれで人前に出るわけじゃないし、家の中なんだからどうでいいのに……)


 むしろ、綺麗な色や柄の服を汚すなど、美への冒涜ではないだろうか。汚くなるとわかっているのなら、そうなってもいい服を着るべきだと思う。

 エレンデルはこの美学を幾度となく両親やニコールに力説してきたのだが、誰にも同意を得られた試しがない。

 

「今着ていらっしゃるドレスなんて端金で買えるんですから、せめて毎月買い換えるくらいでいいと思いますけどね。仮に一日一枚を使い捨てにしたとしても大したことはありませんし」

「……別に貧乏性で言ってるわけじゃないのだけれど?」

「はあ、まあそういうことにしておいて差し上げますよ」


 絶対納得していないであろう適当な答えに苦笑いしながら、エレンデルは朝の身繕いを終えた。毎度このような感じなので、慣れきっていて特に傷つくようなことはない。


(人間なんて、所詮は完全に分かり合える生き物ではないのよ。折り合いがつくだけでも万々歳なんだから)

 

 さくっと気持ちを切り替えると、一人で食堂に向かう道すがら、今日は何を描こうかと思案する。

 昨日の続きを描くのもいいし、新しい作品のラフスケッチに取り組むのも悪くない。絵のことを考えていると、エレンデルの気持ちはどんどん上向いていく。

 

 作品を仕上げる楽しさはもちろん、彼女の絵を好きだと言ってくれる人々の喜ぶ顔が何よりの醍醐味だ。

 両親や義弟、ニコールを始めとした使用人たちや、時折顔を出してくれる分家の人々は、いつもエレンデルの絵を見ては温かい言葉をかけてくれる。

 女性が芸術に携わることがタブーとされる世の中では、実に恵まれた境遇だ。

 

 絵を描きたいと父オリヴァーに申し出た時、エレンデルは容易く許してもらえるとは思っていなかった。だからこそ、何が何でも食い下がるための言葉を考え、入念にシミュレーションをしてから本番に挑んだ。

 ところが、当の本人はあっさりと許可を出してしまった。いいよ、と言われたエレンデルは、まず最初に自分の耳を疑ったのを覚えている。

 それだけではない。少し考えるそぶりを見せてから、父親はエレンデルにこう言った。

 

「本当は、お前がドレスを自分で手配していることも知っていたよ。頼ってもらえないのは寂しかったが、途中からはすごく楽しそうにやっているように見えたからね。邪魔をするのは野暮だと思って黙っておいたんだ」


 この上なく穏やかな口調で放り込まれた爆弾に、エレンデルは目を見開いて固まった。念入りに隠していたつもりだったので、まさかばれているは思わなかったのである。

 父親は混乱真っ只中の彼女をそっと抱き寄せ、小さな子供にするように頭を撫でてくれた。


「先代の約束など無視して、もっとお前の個性を愛してくれる人間をじっくり探すべきだったんだ。あのような男と婚約させてしまって本当に申し訳なかった」

「……そんな、でも、わたしが上手くできなかったから……」


 思いもよらず謝られ、エレンデルはどうしたらいいかわからなかった。

 女性は男性の付属品であるという常識を叩き込まれて育ったエレンデルには、男性から女性に謝罪するという概念すらなかったからだ。

 

「そんなことはないだろう。よく頑張っていたじゃないか」

「本当に?」

「もちろん。だから、これからはお前の好きにやりなさい」


 どうしても疑ってしまう彼女の心に、父親からの言葉は少しずつ染み込んでくる。

 

「知ってるかい? 親という生き物は、子供が元気に生きてくれるだけで幸せなんだよ。子爵家の評判がどうだとか、そんなことは気にしなくていい。うちは変人の一族で通っているからね。絵を描く女性がいるくらい、どうということはないさ」


 言われたことをきちんと理解したと同時に、目から涙があふれて止まらなくなった。

 こんなに優しくて、自分を想ってくれる人間がいたのに、エレンデルは自分が一人きりで戦っているのだと勘違いしていたのだ。

 その日を境に、彼女は家族や使用人たちともっと話してみることにした。相変わらず実家の外に出る勇気はないが、自分の小さな世界のことは好きになれた。


(それにちょっとは進歩もしたのよ)


 最近、親バカだった父親の勧めで一日だけ個展を開いた。

 分家が所有する画廊を使い、二年前から取り組んできた空想画——その中でも圧倒的に枚数の多い架空のジュエリーの絵を展示したのだ。

 

 今回の個展の最も得意な点は、全ての作品がエレンデル自身の名義で発表されたことだろう。

 結果として来場者は極めて少なく、彼女の代わりに作品の説明をした義弟・クインシーは冷やかしに来た人々からの散々な言いように憤慨していた。

 しかし、何もいいことがなかったわけではない。むしろ大成功と思える出来事があった。彼女の絵を目を輝かせ、齧り付くように見て回った客が一人おり、その場で全ての作品を買い取っていったらしい。


(誰かは存じ上げないけど、一族の人間以外でも認めてくれる人はいるんだわ! 次もその方に喜んでもらえるように気合を入れなくちゃ!)


 エレンデルにとって、その客は身内の欲目がない初めてのファンだ。彼のおかげで、今日も創作意欲がむくむくと湧いてくる。

 とりあえず、まずは絵を描く前に腹ごしらえだ。腹が減っては戦はできぬ、などという諺がある通り、食事も一種の自己投資である。


「ねえ、ニコール。今日の朝食って何か聞いてる?」

「お嬢様の大好きなスクランブルエッグですよ。チーズも多めです!」


 答えを聞いた瞬間にきゅるりと鳴ったお腹をひと撫でしてから、エレンデルは食堂の扉をくぐった。

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