第5話 慎ましやかで豪華な結婚式

 王侯貴族の結婚式というものは、少なくとも一年間、下手をすれば五年以上の婚約期間を経て行われるのが常識だ。婚約から一ヶ月で結婚した例などほとんとない。

 しかし、ケスターはどうしても一ヶ月後に結婚したいと言い張り、ただでさえ女王の結婚相手選びに苦慮していた父親——バートレッド公爵ヴィクターの胃をさらに痛めつけたという。

 父子の話し合いは平行線をたどるかと思われたが、今後忙しくなる前に兄の結婚式に出ておきたいと女王が主張し、身内のみのささやかな結婚式を本当に一ヶ月後に行うことになった。

 

 日取りが決まると、ケスターはエレンデルが持っているウェディングドレスに手を加えたいと言ってきた。

 このドレスを仕立てる際に元婚約者は関与しておらず、エレンデルとしてはそのまま着てもよかったが、ケスターはそのことを知らないはずだ。前の男の趣味のドレスをそのまま、というのは不快に違いない。

 エレンデルは快く承知し、むしろ彼がどんなアレンジを加えるのかを想像して楽しみにしていたのだが——。


(意外にデザイン自体は同じだったのよね)

 

 戻ってきたドレスはシルエットも色も同じ。生地を足されていたり、胸元の形が変えられていたりするわけでもなかった。

 変わった点は縫い付けられているものの質だ。エレンデルが仕立て屋に縫い付けてもらった水晶のビーズが、驚くほどに光り輝くダイヤモンドに変わっていた。よく見れば真珠のテリも違う。

 

(お金に糸目を付けなければここまで輝きが変わるんだ……)

 

 結婚式当日、鏡の前で自分の姿を眺めてしみじみとそう思った。


(何より、この三点セットが問題だわ。落として割ったら絶対に弁償できないもの)


 希少なピンクダイヤが贅沢に使われたティアラ、イヤリング、ネックレスのセットは、三代前の女王が隣国出身の王配から贈られた品らしい。亡き持ち主の遺言により、現在はケスターが受け継いでいる。

 エレンデルはこれらを使うことを躊躇していたが、ケスターから「私の瞳と同じ色のものを身に付けてほしい」と請われて折れたのだった。


「お嬢様、時間です。旦那様がエスコートにいらしてますよ」

「……っ! わ、わかったわ!」


 会場に入場する時間になり、控室を出て父親のエスコートで歩いて行く。

 今回はニコールもドレスアップしており、エレンデルのブライズメイドの一人として付き添うことを許されていた。


(緊張して吐きそう……)

 

 会場の大きな扉を前に、もうすでに帰りたい気持ちになる。

 親族だけの結婚式といえば響きはいいが、新郎側の参列者があまりにも豪華すぎるのだ。昨年即位したばかりの女王・ユージェニーを筆頭に、先々代女王の王配であった宰相・ヴィクター、ケスターの母方のはとこたちなどが顔を揃えている。

 一ヶ月前まで実家から出ず、来客ともほとんど顔を合わせてこなかったエレンデルにとって、この結婚式は荒療治にも等しい挑戦だった。


(お、おおおおお落ち着くのよ、エレンデル! やればできる! やればできる子なんだから、わたしは!)


 右足を前に、次は左足を前に——と、ただひたすら歩くことに意識を集中させる。


(周りは見ない。前だけ見る。歩くだけなら子供でもできるでしょう?)


 自分を鼓舞しながら、どうにか目的地にたどり着いた。彼女を待っていた麗しの新郎の隣に並び、背筋を伸ばして立つ。

 一つの段階をやり遂げたと思った途端、背中に視線を感じて恐ろしくなった。別にそれ自体はおかしくない。自分だって結婚式に参列したら新郎新婦を見るだろう。それでも、誰に見られているかを考えるだけで恐ろしくて仕方がなかった。


(みっともないと思われていたらどうしよう? 実はトレーンがねじれてたりとか……)

 

 足が勝手に動いて式場から脱兎のごとく逃亡する——そんな妄想が頭をよぎる。何重にも重なったパニエの下の足は、彼女の心を表すかのように小刻みに震えた。

 そんな状態が続くと、緊張と恐ろしさに支配され、視野がどんどん狭まっていく。


「エレンデル」


 小さく聞こえた声に、ふと我に帰った。

 呼ばれているのだから横を向けばいいのか、それともきちんと前を見続けるべきなのかで迷った末、極力頭を動かさずに横目でケスターのほうを見る。


「綺麗だね。そのドレス、リメイクして正解だったよ」

 

 耳元で囁かれ、一瞬ぶわっと顔が熱くなったが、きっとドレスが美しいだけだと自分に言い聞かせる。


(もう! 殿下の小悪魔!)

 

 落ち着かないのでこっそりと深呼吸し、目線をしっかりと上げた。


(こ、こんなことで惑わされたりしないんだから!)


 だいたい、この後にはエレンデルにとっての最大の試練である、誓いのキスが待っているのだ。こんな所でたじろいでいる場合ではない。

 ケスターなら気を遣ってフリだけしてくれそうな気もする。が、意外とがっつり唇を奪われる可能性も否定できない。一ヶ月という短い期間の中、片手で数えるほどしか会っていない相手だ。知っていることよりも未知数のことのほうが多い。

 そうしてどっちなのかとやきもきしているうちに、その瞬間はやってきた。


 二人で向かい合い、目の前に垂らされていたベールが上げられる。

 愛だの恋だの、ロマンチックなものは何もない結婚式だが、布越しではない視界に映るケスターは見るからに嬉しそうだ。微塵も緊張しているように見えず、子供っぽい表情とは裏腹な大人の余裕を感じる。

 エレンデルもこれを見て諦めがつき、もうどうにでもなれとばかりに目を閉じた。無意識に息を止めて、来るべき瞬間を待つ。

 すると、ケスターの気配が静かに近づいて、柔らかいものが口の端にそっと触れた。


(あ、おお、回避のほうだった! なんか不思議!)


 これで終わりだと思って気を抜いた途端、一度離れたはずの感触が今度は唇の上に降ってくる。


(えええええええ?! 回避じゃなかった!)

 

 エレンデルは思わず飛び上がりそうになった。意地の悪いことに、さっきのキスもどきは本番前のフェイントだったらしい。

 読んだことのある恋愛小説に同じような表現があったような気がするが、ときめきに心を震わせていたヒロインとは違って、エレンデルの頭の中は驚きで埋め尽くされていた。


(え? え?? これがキス? キスってこんな感じなの?!)

 

 目を見開いて固まっていると、あっさりと唇が離れていく。エレンデルの思考が少し落ち着いた時には、ケスターは「してやったり!」とでも言いたげな表情で立っていた。

 初めてのキスはレモン味などと聞いたことがあるが、味など全くわからなかった。そもそも甘い口づけというより、幼い少年のいたずらと表現したほうが近いかもしれない。


(なんか……なんか違う気がするけど、いや、うーん……)


 思えば初めて会った日からずっと、ケスターには振り回され続けている。エレンデルの人生は、彼女が学生時代に考えていたものとも、実家に引きこもりながら想像していたものともかけ離れた方向に進み始めた。

 まあ、思うところがないわけではないが、意外と悪くないような気もする。やや面倒に巻き込まれた感はあるものの、あのホーレスと結婚するよりは幸せなはずだ。

 一人で納得して頷いていると、ケスターが「なあに?」という声が聞こえそうな顔でこちらを覗き込んできた。エレンデルよりもずっと大きな身体を折りたたみ、上目遣いで目を合わせてくる。


(わあ、あざとい……でも様になるわね。これがイケメン無罪か……)

 

 二十代後半の大人の男が、おそらくはわざとかわいこぶっているのだが——造形がすこぶる美しいせいで妙に様になっていた。ずるい男だ。


「さっきのキス、嫌だったらすまなかった」


 ちっとも悪いと思っていなさそうだが、一応はエレンデルに尋ねてみることにしたらしい。


「あ、いえ、別に嫌だったわけではないので」

「そう? よかった」


 エレンデルの返事を聞くなり、ケスターはまた満面の笑みを浮かべた。

 実を言うと、何年も前に夜会で見かけた彼は、もっと威厳ある表情をしていたように思う。笑ってはいるが、何を考えているのかわからない切れ者——それが国王だった頃の彼の印象なのだ。

 ところが個人的に関わってみれば、ケスターは王族に生まれ育ったとは思えないほど表情が豊かで、嬉しいことがあればすぐに笑う。


(人間って、ちゃんと向き合ってみないとわからないものね)


 ふたりの結婚はもう成立している。せっかく家族になったのだから、これからゆっくり、無理のないペースで彼のことを知っていけばいい。

 まずは自分のことをもっと知ってもらうことから始めよう——と、エレンデルは密かに決意した。やるからには全力あるのみだ。


「ケスター殿下」

「どうした?」

「よろしくお願いいたします」


 エレンデルはケスターとしっかりと目を合わせ、今の彼女に精一杯の一言を絞り出した。

 本当は何かもっと気の利いたことを言えたらいいのだが、再び押し寄せた緊張のせいで、ろくなフレーズが思い浮かばない。けれど、エレンデルなりに彼と家族としてやっていく意気込みのようなものを見せたかった。


「こちらこそ、改めてよろしく頼む。良き夫、良きビジネスパートナーであれるよう、最善を尽くさせてもらうよ」

「はい! わ、わたしも頑張ります!」


 ケスターが意外にきっちりと返してくれたので、慌ててエレンデルも言葉を付け足すのだが――。


「そんなに緊張しないでいい……と言いたいところだが、そこは私の腕の見せ所かな」

「いえ、その、わたしが! わたしが頑張ります!」


 なんというか、会話を続ければ続けるほど墓穴を掘っている気がする。

 恥ずかしいやら、情けないやら、申し訳ないやらで、エレンデルの顔は真っ赤に染まって熱を帯び始めた。温度の感覚がわからなくなり、冷や汗まで吹き出してくる。どうにかこの状況を打開したいのだが、何を言ってもすでにある墓穴を掘り進める自信しかない。

 そんな彼女の状態を見かねてか、ケスターが背中をそっと撫でて、こう言い添えてくれた。


「それでは二人で頑張ろうか。夫婦は二人で一つだからね」


 エレンデルが男なら、こんな面倒な女とは結婚しないし、したとしてもここまでフォローできるかはわからない。さすがは十年間、国王として立ち回ってきた男だ。


(やっぱり、なんだかんだでいい人だなぁ……)

 

 素直に彼の優しさに感心していると、パニックでごちゃごちゃになっていた心が少し落ち着いてきた。

 そしてこうも思った。不甲斐ない女が持つべきものは、自分よりも人間性の優れた夫である——と。

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