I lost i

いぶせこう

「先生はさ、私のこと好き?」

 あれほど大人を揶揄からかうなと注意してきたのにこの子は。返事に困っていると彼女は続けた。

「ねえ先生、私はさ、このまま高校を卒業したら大学に進学して、それから就職するでしょ?そうなったら楽しみもうんと減るわけ。もちろん、日々の生活の中で楽しみを見つけていくことも大事なんだろうけど、私にはそれが辛いんだ。だからそんな世界で生きていくことがこの先待ち受けているとして、私がこのまま生きていく理由はなんだろうってよく考えちゃうんだ」

 彼女の厭世家えんせいかともとれるその言葉には少なからず共感できるところもあった。かつての自分がそうであったように。しかし、それをこの場で、しかも彼女の目の前で肯定してしまっては、これからの彼女の人生に大きな枷をつけてしまう気がした。

「先生はさ、いつから私の先生なんだろうね。中学生?高校生?それとももっと昔から?」

「さあ、覚えてないな。これまでにたくさんの生徒を見てきたからな」

 実際のところは鮮明に覚えている。だからといって彼女の求めている答えを安易に提供してしまっては面白みに欠ける。時には揶揄からかいも必要だ。

「ふーん。まあそういうことにしといてあげる」

 彼女は少しだけ唇を尖らせていたが、すぐに口元を綻ばせた。

 その仕草には見覚えがあった。ジェットコースターのような振る舞いは以前の面影を残したままで、それでいてどこか品のようなものが身についたように思う。溌剌はつらつとした姿にこれまで何度も救われてきた。

「文化祭きてくれたときは嬉しかったなー。先生声かけてくれないんだもん。びっくりしちゃったよ」

 その嬉しかったという言葉に嘘はなかった。そのときの彼女の高揚ぶりは一目瞭然だった。

「そんなこともあったな」

 久しぶりに見た彼女の姿にかつての幼さと少しだけ大人な印象を受けたことを覚えている。少しだけ変わった髪型、ほんの少し伸びた背丈、白く細い腕と脚、綺麗な二重の瞳、整った目鼻立ち、柔和にゅうわな雰囲気。

 少し大人になった彼女に寂寥感せきりょうかんを覚えたが、教え子の成長を見れることはやはり喜ばしい。

「私が大きくなったらまた会ってくれるって約束したのに、まさかこんなところで会っちゃうなんてね。これって運命ってやつ?」

 浮き立つ彼女は相変わらずキラキラしている。

「でも先生ひどいよー。卒業するまで面倒見てやるって言ったのに辞めちゃうなんてさ」

 膨れ顔をして駄々をごねる幼児のように手やら足やらをばたつかせた。

「それは本当に悪いと思ってる。でも仕方なかったんだ。わかってくれ」

「うん、わかってる。冗談。でもまたこうして会えてよかった。先生、こんなことでもなきゃ絶対会ってくれないと思ってたから」

 少しだけ寂しく呟く彼女を見て、自分の知らぬ間にここまで大きく成長していたことに感心させられる。

「え、先生泣いてるの?大丈夫?」

 彼女に指摘されるまで気がつかなかった。昔のことを思い出したせいだろうか。

「あれ、なんでだろうな」

これまで人前で泣く経験をしたことは一度もなかった。大好きだった祖父母の別れに立ち会ったときも、愛猫の追悼にも、恋人の急逝きゅうせいにも、決して人前で泣かなかった。

「ご、ごめんね先生。きっと私、嫌なことを思い出させちゃったよね。ハンカチ、ハンカチどこに入れたっけ」

 目の前には慌てふためいているかつての教え子。最後に会ったときは一年前だったか。何も変わらない。



 彼女との出会いは新任で中高一貫の私立学校に赴任する春先のことだった。その当時彼女は小学校中学年くらいだっただろうか。

 私は新たな生活のために引っ越してきた。赴任先の地域はお世辞にも住みやすいとは言えず、どこへ行くにしても自家用車は必須だった。しかし、車通りは思っていたよりも多く、道路もきちんと舗装整備されていた。

 厄介なことに道と言っても複雑な分岐路や小道が多く、そういった環境に慣れるためにも心機一転を図って散歩をすることにした。

 閑静な住宅街、無機質な色をたずさえてそびえ立つ建物群に囲まれるようにして一際目を惹いたのは、赤いランドセルを背負った一人の女の子だった。

 時刻も日没間近の夕方だったこともあり、周囲に下校中の児童の気配はひとつもなく、違和感を感じ、そのことが気に掛かった私は声をかけた。

 話を聞いてみるとどうやら彼女も転校して引っ越してきたばかりらしく、道に迷ってしまったようだった。私自身もこの辺りの地理については明るくなかったため、どうしたものかと頭を悩ませた。

 幸い、女の子が自宅周辺の目印となるものを記憶していたので、それを手掛かりにしてなんとか家まで送り届けることができた。

 それから数年が経ち、彼女が私の勤務している学校へ入学してきた。しかし入学してからの一年間は授業担当を持つこともなく接点が皆無に等しかった私たちはお互いにお互いを認識することはなかった。

 翌年、彼女が進級したタイミングで私がクラス担任を務めることになった。私は彼女の名前を知らなかったのでクラス名簿を見たときに気づくことはなかった。その上、子どもの成長スピードは目まぐるしいもので、彼女の顔を見たときに私はその当時の女の子であると気がつけなかった。

 始業式の放課後、私は彼女にそのときの女の子は私であるという告白を受け、そのとき初めて私は彼女をそのときの女の子であると認識することができた。

 その日以降、彼女は私のいる準備室をたびたび訪れるようになり、いつの間にか入り浸るようになっていた。授業準備がある日にも関わらずお構いなしにやってくる。台風だ。

 雑談など他愛もない話やくだらない話、恋愛相談や進路相談などの真剣な話まで、彼女はマシンガンの如く話に花を咲かせた。時に感情がたかぶってしまい、涙を流すこともあった。その点私は若い女の子の扱いに関して不得手ふえてであったためその都度頭を悩ませたものだ。

 機嫌が良いときには「あのときの先生の困った顔」などと言って、当時の緊迫した状況、つまり私の置かれていた状況を小馬鹿にして揶揄やゆしてくるのである。その度「それはお互い様だろ」と何度思ったことか。

 こんな日もあった。私が普段いる準備室には冷蔵庫が設置されているのだが、夏場になるとアイスを買って隠すように保管している。なぜ隠す必要があるのか、その理由は明白。事実上の居候いそうろうがいるから食べられてしまわないようにだ。

 このアイスが私にとってはささやかな楽しみなのだが、毎日のように入り浸っている彼女には全て筒抜けで、楽しみにしていたアイスの抜け殻が屑入くずいれに入っている場面を度々目撃した。

 さらには自販機で飲み物を買うようにねだられたことや、机の上に置いてあるメモ用紙の半分以上をお絵描きに使われていたり、ネームプレートをこっそり隠されていたこともあり、女の子らしい悪戯いたずらに手を焼くことも多かった。

 長らく続いた平々凡々な日課ともいえる習慣は彼女が高校2年生になるまで続いた。月並みな表現だが、私は今でもその当時のことを昨日のことのように思い出すことができる。

 今までで一番面倒を見た生徒は誰かと聞かれれば、確実に彼女の名前が挙がるだろう。当然、どの生徒にも同じくらい愛情を注いできたつもりだ。その中でも特に懐いてくれていたのがこの子だった。

 彼女の長い人生ものがたりの中の登場人物になれること、この目で成長を見ることができることは紛れもなく私にとっての僥倖ぎょうこうだった。



「先生、先生?聞こえてる?ごめんなさい、私、悪気があって言ったんじゃないの」

 目の前には可愛らしい薔薇の刺繍が施された薄紅色のハンカチが差し出されていた。

 昔のことを思い出して少し呆然としていたらしい。

「ああ、すまない、少しぼうっとしていただけだ。心配しなくても君がそんな子じゃないことくらいよく理解ってるつもりさ」

 日が傾いてきたので、日が沈み切ってしまう前に目的の場所まで辿り着かなくてはならないという使命感に駆られ、目的の方向に足を向けた。

「私もついてっていい?」

 私がどこかへ行こうとしている空気を察したのか彼女は尋ねた。先とは違い、声が針のように震えている。特に断る理由も見当たらない。

「構わないよ」

「ありがと、先生」

そう返事はしつつも先ほどのことを余程気にしているらしかった。

「気にしてるな」

「へ?じゃなくて、え!なんのこと?何も気にしてないよ!ほら!」

 その元気な台詞と同時に彼女は変顔をしてみせた。

 ああ、端正な顔立ちが台無しだ。しかしこんなものを見せられて笑わずにはいられない。

「もう!なんで笑うの先生!可愛いんだからそんなことしないって言うもんでしょ!」

「まったく、どこからくるんだよその自信は」

数歩後ろを歩いてついてくる彼女が得意気にしているのが背中越しに伝わってくる。

「すごく今更なんだけどさ先生、今日は何しにここまできたの?」

「…墓参りだよ」

 少し間が空いてしまったかもしれない。誤魔化すように手に持っている鞄と包装紙に包まれた花をそれとなく見せる。

「それって私がいても大丈夫なの?」

 当然の反応だ。

「私は別に構わないよ。君さえ良ければ問題ない」

「わかった」

 それから彼女は何も言わず先ほどと同じ距離感で私の後に続いた。


 遠洋から漁船の汽笛が号哭ごうこくのように響いてくる。その空気の振動は水分を多く含んでいるせいか、重く体にのしかかってくるように感じられた。

 夕方になるとこの辺りは比較的清涼で、海沿いに位置しているためか潮風が吹くようになる。

 霊園のある山のふもとまで歩くと、長い間潮風にさらされて所々錆びている門がある。それを開門すると、成人男性の腰くらいまである草をかき分けて獣道にも見える細い道を進んでいく。

 その道中、踊り場くらいの広さがあるスペースで休憩を挟み、そこから見える景色に彼女は見入っていた。来た道を振り返ると人一人分のわだちができている。

「私、この場所好きだな」

 聞こえるか聞こえないか程の大きさで呟いた彼女の口元は微笑んでいた。私はなぜか彼女のその言葉と仕草に胸が締め付けられる感覚を覚えた。

 小休憩を挟み、再び足を進める。足元の悪い道を数分ほど登ると目的地が見えてきた。

 この墓地があるのは標高40メートル程の山だが、その麓にある脇道から登らなければこの場所に辿り着くことはできない。この山には墓地しかないため、専ら自分のように墓参りに来る人にしか利用されておらず、整備もほとんどされていない。

 麓にあった錆びた門とは違い、墓地の入口には『海抜11メートル』と書かれた看板が吊り下げられているが、蔓草つるくさや草木などが巻き付いており、長らく人の訪れがないことを伝えている。

 門を開けようとするとぎいと音を立てた。

「着いたよ」

 私が声をかけると、

「ねえ先生、誰のお墓か聞いてもいい?」

 彼女は少しばつが悪そうに聞いた。

「大切な人だよ。今日が命日なんだ」

「そっか」

 それ以上何も尋ねてこなかった。私もそれ以上言及することは避けた。

 墓石周辺を一通り綺麗にして、花立はなたてに挿さっている枯れた花を取り出す。以前ここを訪れたときに生けた献花だ。

「先生、この人覚えてるかな」

 彼女はそう言って墓誌ぼしに書かれている名前をなぞった。

「もちろん覚えてるよ」

そう言って枯れた花を綺麗に片付け、包装紙に包まれた花を取り出して花立に生けた。

「その花」

「ああ、この花好きだっただろ?」

「本当に覚えてくれてたんだね」

「忘れるわけがないだろ」

「嬉しい。やっぱり先生に頼んでよかった。ここだったよね」

「ああ」

「ちょうど去年の今日だね。先生にお願いをして、私の大好きなあおい海の見える場所で殺してもらったのは」





彼女の言葉で私は目が覚めた。



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I lost i いぶせこう @kokkokko12

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