I lost i
いぶせこう
「先生はさ、私のこと好き?」
あれほど大人をからかうなと言ってきたのにこいつときたら。返事に
「私はさ、先生のこと大好きだよ。...ねえ先生、私はさ、このまま高校を卒業したら大学に入学して、それから働くようになって。そしたら今みたいにキラキラした毎日を送るのが難しくなって」
彼女の顔には困惑と葛藤の色が浮かんでいる。
「...わかってる」
ぎゅっと硬く拳を握りしめる。
「もちろん日々の生活の中で幸せを見つけていくことも大事なんだろうけど、私にとっては辛いの。たとえそれが避けようのない現実だとしても。だからさ先生、これから先こんな世界で生きていかなければならないとして、私がこのまま生きていく理由はなんだろうって考えちゃうんだ」
彼女の
彼女と私はよく似ていると思う。かつての自分が通ってきた道の上を彼女が歩いているような、そんな錯覚をしてしまうくらいに。
しかし彼女の言葉を肯定してしまうことで、これからの彼女の人生において重要な何かを決定せしめてしまうような気がしてならなかった。
「先生はさ、いつから私の先生なんだろうね。中学生?高校生だっけ。もっと昔だったかな」
彼女は唇に人差し指を当てながら、こちらを一瞥した。スラリと細く伸びた指は夏の入道雲のように消えてしまいそうだ。
「さあ、あまりはっきり覚えてないな。今まで何人もの生徒を見てきたからな」
実のところ、鮮明に覚えている。だがその言葉を呑み込んで私は目線を逸らす。
「なーんだ。先生は相変わらずだね」
彼女は少しだけ唇を尖らせていたが、すぐに口元を
子どもみたいにまだ幼い部分は残っているが、いつの間にか大人のような上品さを纏っているように感じる。
「そういえば文化祭きてくれたよね先生。確か私が高校三年生の時だっけ。あの時は嬉しかったなー。でも先生、声かけてくれなかったよね。私、まだ根に持ってるから」
嬉しかった、その言葉に嘘の色はない。あの時の彼女を見れば一目瞭然だろう。幽霊を見たかのように狼狽する彼女を今でも思い出すことができる。しかし、私は彼女の言葉に拭いきれない違和感を感じた。
「そんなこともあったな」
文化祭の日、久しぶりに再会した彼女の少しだけ大きくなった姿に
少しだけ変わった髪型、ほんの少しだけ伸びた背丈、透き通るような白い手脚、綺麗な二重瞼。整った目鼻立ち、柔和な雰囲気。そこまで見違えるほどの変化こそなかったが、私の目には別人のように映った。
「先生は冗談だと思ってたかもしれないけど、大人になったら一緒にお酒飲むって約束覚えてる?」
覚えている気がする。
「次に会う時はその時だなって思ってたのに、まさかこんなところで会うなんてね。やっぱり運命かな」
浮き立つ彼女を尻目に私は足元に目を落とした。
「毎年、用事があってこの辺りを訪れるんだ」
「へえー、私と一緒だ!」
先生と一緒で私もここにくるんだよねー、そう言い放つ彼女は華やいでいる。
「...でもさ先生、どうして急に辞めちゃったの?私が卒業するまで面倒を見てやるって言ってたじゃん。私、私ね、悲しかった。何も言ってくれなかったから。お別れの言葉も、伝えきれない感謝も、何も言えなかった。学校も行かなくなった。毎日泣いた」
涙を溜めている彼女の瞳から一筋の光が頬を伝って、ぽつりと落ちた。ガラスのように飛散して涙は消えていった。
何も言えなかった。ただハンカチを渡すだけで慰めの言葉も、謝罪の言葉も、何も喉を伝って出てくることはなかった。なぜだか言っても無駄だと思っている自分がいた。
「ごめん先生。私、最近情緒不安定なんだ。夜も眠れないし。自分でもうまくコントロールできなくて」
君は十分強い人間だよ、そんな言葉を呑み込んで体の奥底に沈めていく。
「えへへ、ごめんね。まだまだ子どもみたい。まだ大人にはなれないや」
「そんなことはない。君は気づいていないだけで存外大人になっているよ」
どう声をかけるべきか分からなかった。苦し紛れのセリフに聞こえたかもしれない。目の前にいる彼女にどう声をかければ嫌味なく伝わるだろうか。そんな
「...先生、大丈夫?」
彼女の言葉の意味が解らない。
「大丈夫かって、それはこっちのセリフじゃないか」
「いや、だって...涙、出てるよ。先生も大丈夫じゃないよ」
涙が頬を濡らす感覚があった。涙のせいか彼女が滲んで見える。霞の中を歩いているような泡沫の夢。
『せーんせ!ここ教えてよー』
ふと思い出したことがある。
***
彼女との出会いはいつだっただろうか。そうだ、あれは中高一貫の私立学校への赴任が決まった春先のことだった。
私は新生活に向けて地元を離れ、異郷の地へ越してきた。地元で教鞭を執ることも考えたが、一度は古巣を離れてみたかった。
当時病気がちだった私は、知り合いもいないどこか遠くへ行きたいと、強迫観念にも似た何かに突き動かされていた。
赴任先の地域はお世辞にも利便性の高い土地とは言えず、市営バスはかろうじて一時間に一本という始末だった。最寄りの駅まで歩いても30分はかかる。私は車を買うことを余儀なくされた。
しかしそういった地域柄のおかげか、道路は綺麗に整備されており、運転する上で苦労することは何一つなかった。
私には知らない土地へ来ると、決まって散歩をする癖があった。自分自身にもそうしたくなる理由には見当がつかなかったが、おそらく気分転換とかそういった類のものではないことは確かだった。
その日も確か、携帯と財布を持って家を出た。
閑静な住宅街。無機質な色を携えて
辺り一帯を散策して家の付近まで戻ってくると、一つの赤いランドセルが一際目を引いた。
赤いランドセルを背負った少女こそが彼女であり、私たちの
その日のことはあまり鮮明に覚えていない。彼女は確か迷子だったと記憶している。
それから数年が経ち、その出来事も記憶から薄れていった頃、彼女が私の勤務する学校へ入学してきた。しかし入学してから一年間は授業担当を持つことはなく、高等部の担任を受け持っていたこともあってか、接点はほぼ皆無だった。
その翌年、彼女が進級すると同時に私がクラス担任を務めることとなった。迷子の少女だった彼女の名前を私は聞きそびれていたため、特段気づくこともなかった私は、クラス名簿を見ても迷子の少女の存在を思い出すことはなかった。
小さな子どもの成長は目まぐるしく、随分と中学生らしくなっていたこともあり、彼女の顔を見た時にその当時の少女であると気づくことはできなかった。
始業式の放課後、日誌を持ってきた彼女から当時のことを告白された時、私は豆鉄砲を喰らったような顔をしていただろう。青天の
その時初めて私は、あの時の少女を思い出し、目の前にいる女の子と同一人物であると認めることができた。
その日から彼女は私のいる準備室を度々尋ねるようになり、いつの間にか入り浸るようになっていた。
この準備室には私ともう一人の先生がいるのだが、産休に入っているため今は綺麗に整理されている机がある。もとより二人か三人ほどしか入れないであろうこの教室に、山積みになっているレポートや提出課題で押し潰されるようになる毎日だった。
彼女が高校生になってしばらく経ち、受験を視野に入れる時期が近づいてきた。
「せんせー、今日は数学ー。虚数とかまじ意味わかんない。二乗して−1とかややこしいことしないで欲しいよねー」
片手に教科書とノートを抱えて、ペン貸してと指で催促される。先ほど綺麗に整頓したばかりの机に彼女は勢いよく腰を下ろす。
「勉強するのはいいけど、俺は数学の先生じゃないからなー。質問するなら数学準備室にいる先生に聞きに行けよー」
「はいはーい」
聞いているんだか、聞いていないんだか生返事を食らう。試験が近づいてくるとこういった調子でやってくる。
少し席を外して戻ってくると、彼女は美味しそうにアイスを頬張っている。
「最近の夏はほんと暑いよねー」
この準備室には冷蔵庫が設置されており、アイスや飲み物を入れている。このことは誰にも、もちろん彼女にも口外していないのだが、毎日のように入り浸っている
自販機で飲み物を買って欲しいだの、メモ用紙に落書きをされていたり、こっそり名札を隠されていたりと、女の子らしい悪戯に手を焼くことも多かった。
閉鎖的な空間に閉じこもっている私にとって、彼女との会話は良い風通しになった。
この子が卒業する時にはどんな子になっているだろうかと、親心にも似た感情を抱くようになっていた。
彼女の長い人生の中に登場人物として出演できていることは、私にとって紛れもない
***
「...先生、聞こえてる?」
目の前では神妙な面持ちをした彼女がハンカチを差し出している。先ほど私が私たものではなく、彼女のものらしい。桜の花びらが刺繍されている。
「...ああ悪い。ぼうっとしてた。心配しなくても大丈夫だよ。よくある」
よくある、というのは嘘だった。
遠くで汽笛が鳴った。それに呼応するかのように烏たちも鳴き始める。
日が傾き始めたので、日が沈む前に目的地へ行って、用事を済ませなくてはならないことを思い出す。幸い、目的地は近い。
「私もついていってもいい?先生」
私が目的の方角へ目線を送ったことに気づいた彼女は怪訝そうに尋ねた。さっきまでの彼女とは違い、何か大事なものを踏んでしまわないような、そんな様相だ。
特段断る理由もなかった私はかぶりを振った。
「ありがと」
私たちは目的地に向けて歩き始めた。私の数歩後ろを彼女がついてくるが、足音をわざと被せてきているのか、彼女の足音は聞こえなかった。
学校の廊下でも同じことを何度もされて、驚かされたことを思い出す。今では良い思い出だ。
しかし先刻までの彼女の雰囲気とは打って変わって、あまりにも口数が少なかった。そんな彼女に対しての
「何か考え事か?」
「ううん、特に何もないんだけど、今日って何かの日だったような気がして」
「何か大事な日じゃないのか?」
「うーん、わかんない。まあ歩いてれば思い出すかも」
遠洋で汽笛を鳴らしていた漁船が気づけば近くまで来ている。フェリーのような風貌をしていて、文字が書かれていなければ誰もが客船だと勘違いをしてしまうだろう。
盛大で雄弁に何かを語ってくれそうな、そんな漁船。小さい頃絵本でよく見た光景とよく似ている。
もう一度汽笛が鳴る。その空気の振動は海上の水分を多く含んでいるせいか、重く体にのしかかってくるように感じられた。
夕方になるとこの辺りの地域は比較的清涼で、海岸沿いを歩いていると潮風がよく吹いてくる。
目的地付近の
時々、後ろを振り返りながらペースを調整する。成人男性の自分にだってこの荒れ道は結構堪える。
道中に踊り場くらいの広さのある休憩スペースがある。そこで休憩を挟んだ。綺麗に削られてできたであろう石椅子は当分利用されていないことを表している。
休憩場からは内海の穏やかな海を望むことができ、彼女はその光景に見入っていた。登ってきた道を振り返ると人一人分の
「私、やっぱりこの場所好きだな」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で呟いた彼女の横顔は西陽に照らされて、透明に透けているように見えた。その瞬間にこの世の全てが詰まっているような、自分にとっての人生とは何かを悟ったように思う。
途端に胸が苦しくなった。その正体に何となく気づいている自分がいる。
休憩を終え、そこから数分ほど整備されていない道を歩き続け、一つの看板を視界に捉える。
『海抜11メートル』
麓の鉄製の門とは違い、
間が悪そうに彼女は尋ねる。
「本当についてきて大丈夫だった?大切な人...だったんでしょ?」
「大丈夫。一緒に来てくれて心強かったよ」
足元悪いから気をつけて、と声をかけて墓苑の中を慣れた風に歩く。突き当たりに一つ墓石が佇んでいる。
彼女は黙り込んだまま、墓石に刻まれている文字を見つめている。これ以上尋ねることは
ここの墓苑はとにかくアクセスが悪く、人とすれ違う、遭遇するといったことはまずない。麓の門を潜ったところで何があるかも分からない。当然と言えば当然だ。
持ってきていた花を包装紙から取り出す。
「ねえ、せんせ。この人覚えてるかな」
彼女がそう言って
「もちろん覚えてるよ。だからここに来たんだ」
そう言い放って、持ってきていた
「あ、その花」
「ああ、この花お気に入りだって言ってただろ?」
「本当に覚えてくれてたんだね」
「忘れるわけないさ」
「...嬉しい。やっぱりせんせに頼んで、せんせと出会えてよかった」
そう言う彼女は涙を目元にいっぱい溜めている。頬を伝って落ちていくそれを私は目で追うばかりで、彼女を見ることができない。顎の先でまた集まって、支えきれなくなり、雫となって地面に落ちる。水晶のように跡形もなく飛散する。言葉や思い出のように実体のないそれは消えていく。
さらに傾いた西陽が彼女を照らしつける。涙のせいだろうか。半透明になった彼女の涙も、笑顔も、体躯も、言葉ですらも透過している。
「ここだったよね」
「ああ」
「ちょうど去年の今日だね。せんせにお願いをして、私の大好きな碧い海の見える場所で殺してもらったのは」
せんせは相変わらずだね、その言葉は雫ともに地面に消えていった。
私は長い夢を見ていた。
I lost i いぶせこう @kokkokko12
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