背中

ユッピー

一話完結

その日、目の前にいるお父さんは僕に対してただ謝っていた。何をお願いするでもなく、ただごめんなと言っていた。頭を下げるわけではなかったし、こちらを見てもいなかったけど、たしかに父さんは謝っていた。

昔から父さんはよく僕や母さんに対してよく「ごめん」と謝っていた。けれど、いつもそれは何かを頼む時の掛け言葉みたいなもので、「ごめんけどこれを運んどいてくれ」だとか、「悪いけどご飯まだ?」みたいに言うもんだから、全く謝っているようには聞こえないで、母さんはよくその言葉遣いにイライラしていた。

「謝ってお願いしたら良いってもんでもなかよね。申し訳ないと思うんだったら自分でやれば」とは母さんの口癖で、たしかにそれはもっともだと僕も思ってた。父さんはだいたい、母さんのその言葉に対しては謝らないどころか、何も言わずに少しムスっとして結局手伝わないもんだから、母さんもムスっとして、僕が「まあまあ」と間に入って、なんとか空気を悪くしないようにしていた。

僕がこの家を出たら、父さんと母さんは仲良くやっていけるんだろうかとよく思っていた。そんな家で育った僕は高校を卒業後に、遠く離れた東京の大学に入学することになった。


大学に入学する年の三月の下旬、僕と父は東京行きの飛行機に乗った。飛行機の中で父さんはあまり喋ることもなく、僕もまた無口で、その雰囲気が妙に気まずかった。ふと考えてみれば、父さんと横並びに座って二人だけの空間にいることなんて、そうないことだった。気まずさからか何なのか、僕は未だに理由は分からないのだが、その時、父さんをなぜだか疎ましく感じてしまっていた。

普段は父さんに対してイライラすることさえ滅多になかったものだから、その時に限って意味も理由もわからないまま父さんに対してイラついていたのは、僕にとっても驚きだった。

『なんで自分は父さんにイライラしてるんだ。反抗期か? それにしてはえらく遅いな』と、そんなことを考えていた。

僕は父さんをそのように感じている自分のことを、器が小さいように思えてしまって、夢の東京に着いた時も暗い気持ちのままだった。僕のそんな気持ちとはお構いなしに、その年、春も近い三月下旬の東京には、あっと声をあげたくなるほど、季節外れの雪がはらはらと降っていた。

「雪が歓迎してくれるな」

父さんはそう言ったけれど、なにせ父さんに意味もなく苛立っていたから、その言葉はいまいちピンと来なかった。むしろ、『ああ、また父さんがなんか言ってるよ』くらいの気持ちになってしまった。

正直なところ、父さんにイライラしている、そんな自分が嫌だった。今になって考えてみると、僕が父さんに対してイライラしていた理由は、『これからやっと楽しみにしていた一人暮らしが始まるのになんで父さんがいるんだ』という感情になってしまっていたことだろうと思う。たぶん僕は一人を楽しみたかった。東京という未知の場所での一人暮らしが僕は相当楽しみだった。

とはいえ、父さんは引越しの手伝いのためにわざわざ東京まで来てくれたのだから、そんな僕の感情が筋違いなことは誰の目にも明らかだろうと今は思う。

モヤモヤした感情を持ちながら、アパートに着き、まだ何の家具もない8畳の部屋に入った。スーツケースに降り積もった雪を払いながら、雪が降るなんて最悪のスタートだなと感じた。しかしそれを父さんは雪が歓迎してくれていると言った、なんなんだよ、どう見たって最悪の天候だろ、父さんの言葉を思い出して心の中で苦苦とそう思った。

それからは続々と家具が運び込まれてきた。冷蔵庫に洗濯機、本棚、布団、そういったものが入ってくると、いよいよ東京生活が始まるんだと胸が踊るのを感じた。

けれど慌ただしく入ってくる家具とは対照的に、その時の父さんはどこかゆったりした様子と言うか、テキパキしていないように見えた。おいおい父さん早くそれ片付けてよ、それはそこに置くんじゃないって、来る前から積もっていたイライラがさらに大きくなるのを僕は感じた。

「父さんそれはそっちに置いといて」「それはこっちだって」

しかしどうもその手際は悪い。「おい、これはどこに置けばよかか?」とか「ちょっと来てくれ」とか、父さんは毎回僕に聞くものだから、僕はその度に手を止めて、あれやこれやと父さんに指示をした。

「もう、こっちに置いてよ」

つい大きな声で言ってしまった。

と、その時だった。父さんが言った。

「ごめんな」

小さい言葉だったし、僕の方を見てもいなかったけれど、たしかに父さんはそう言った。

え、と僕は思った。

今まで父さんが謝る意味で「ごめん」と言ったのを聞いたことがなかった。お願いをするときにしかそんな言葉は使っていなかった。まして僕に対して言うなんてことはただの一度もなかった。

けれど、今目の前にいる父さんは僕に対してただ謝っていた。何をお願いするでもなく、ただごめんなと言っていた。

父さんは僕のそんな動揺なんてつゆ知らない様子で、すぐに床掃除を始めていたが、僕は父さんの背中を黙って、立って見ていた。

そこでまた、あれ?と思った。

父さんの背中ってこんなに小さかったかな、と。

床に膝をついて四つん這いになって拭き掃除をしている父さんの背中は丸まっていて、僕が思っていたよりも痩せていて、昔よりもずっと小さく見えた。

お父さんが床掃除に使っていたタオルは、僕が台拭きに使おうと思っていたタオルだったけれど、僕は何も言わず、拭き掃除をするその小さな背中をじっと見ていた。

僕は昔、国語の先生が言った言葉を思い出していた。

「いつかな、親が小さく見える瞬間が来るんだよ。ああ自分が親を抜かしたんだなっていう時がな」そうか、今がそのときなのか、?

いや、もっとしっかりしてくれよ、まだまだだろ。まだ『大きな』父さんでいて欲しかった。僕にとってはあまりにも早かった。まだ、まだ、まだ僕の方が下でいたかった。まだダメだよ父さん。

僕は一瞬でも父さんを下に見てしまったことに、大げさではあるかもしれないけれどたしかに罪の意識を覚えた。意味もなく父さんに対してイライラしている自分が、そして父さんが小さく見えてしまった自分が心の底から嫌いだった。

父さんは黙々と床を拭き、そして家具を組み立てていた。僕は悶々とした気持ちになって少しの間、その小さくなった背中を見ていた。

しかし父さんは違った。荷入れが終わり、父さんは帰ろうとしたその時に言った。一生忘れることのないだろう言葉だ。

「お前も大きくなったな、しっかりしたな」

今度ははっきりとした声で、けれど今回も僕の目を見てはいなかったけれど、そう言った。

ああ、自分なんかが父さんに及ぶわけがない。こんなに器が小さい自分なんて父さんの足元にも及ばない。

父さん、ごめんなさい。

けれどそう言うこともできないまま父は帰ってしまった。

まだまだやれる、父にそう言ってほしかった一日だった。


大学に入ってから4年、久々に家に電話してみると、昔と変わらない少し耳に響くような元気な声で母さんが出た。母さんは最近、父さんの帰りを待たずに1人で先に夜ご飯を食べることが多いらしく、今日も1人でご飯を食べた後にドラマを見ながら父さんの帰りを待っているらしい。

「最近この俳優は全然かっこよくなかとかね。演技は上手かとかもしれんけど、なんか見たくなくなるとさ」と方言がバリバリに入った言葉で、母さんは久々に電話した僕のことをお構いなしに、気ままに話し続ける。僕が、うんうん、と相槌しか打てないでいる間に、「ただいや」と父さんが帰ってきた声がした。母さんもそれに応えておかえりと言う。

電話の向こう側では、母さんが電話をそこらへんに置いて、僕をそっちのけにしてカチャカチャと父さんの夜ご飯を準備する音が聞こえる。「おい、元気しとるか」と父さんがどうやら僕に向かって言ったらしい声が聞こえたから、僕も聞こえるように大きな声で返事をする。

「忙しかけど、元気ではあっけん、大丈夫よ」「そうか」と短く返事が返ってくる。その間に母さんはどうやら父さんの前にご飯を並べているらしい。そこで父さんの声が聞こえる。

「おい、ごめんけど、この味噌汁ちょっと冷たかけん、あっためてくれんか」「それを言うとやったら自分でやればよかたいね」いつも通り、それに対して父さんは何も言わない。たぶん今もちょっと不機嫌そうな顔をしているんだろう。そこで「まあまあ」といつも通り、僕は電話越しでも間に入る。

2人の声を聞きながら、次はいつ帰ろうかと僕は思う。次に会った時、父さんの背中はどのくらいの大きさに見えるだろうか。

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背中 ユッピー @yuppy_toishi

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