竜也編⑨ 最後の試練


 * * *


「が、は。」


 馬乗りのように跨る過去の自分は首にかける手を緩めなかった。


「大丈夫だよ。あの日足りなかったのは、勇気だけだから。」


 抵抗しようと首を絞める手に爪を食い込ませる。が、どれだけ力を込めても、びくとも表情を変えなかった。


 死にたくない。そう思った竜也は、


「なんで、まだ、サッカー、続けてるの?」


 力を振り絞って問いかけた言葉に、微力ながら手が緩んだ気がした。


「比較されて、苦しかったのに、どうして?」


「それは……。」


 何となく、成り行きで、退部届けを出すのが面倒だから。中学生の時点でそう思っていたら、高校に進学してもサッカー部に入ろうとは思わない。


「好きだったんだ。僕は、下手でも好きだったから、だから、やめられなかったんだ。」


 目の前の自分は唖然としていた。目が泳いだ瞬間に、竜也は苦し紛れに相手の鳩尾を殴った。


「いッ——。」


 痛みで相手がバランスを崩した瞬間に、今度は竜也が上になるように形成逆転した。

 地面に背中をつけた過去の自分は全てを悟ったように大人しくなった。

 咳き込みながら呼吸を整えると竜也は目を見て優しく語りかけた。


「さっき見せられた過去を作りものだって言ったよね。僕だって最初はそう思ったし、信じたくなかった。でも、でも……あれを見て、『周りが悪い』って言い訳して、自分の居場所なんかないって卑屈になったら前に進めないんだよ。」


「進まなくていいよ。」


「よくない。」


 どうして、と問いかける目は水分を多く含んでいた。表面張力で今にも溢れそうな涙が、呼吸をするたびに揺れた。


「だって、僕がそう思ってるから。」


 地面に押し付けられている相手より先に涙が溢れた。ぽつ、ぽつと相手の頬を濡らしていく。


「本当は家族とも仲良くしたいし、サッカーだって続けたいし、死にたくなんてない。だからあの日、死ぬ勇気がなかったんじゃない、生きたいって迷いがあったから、だから踏み出さなかったんだよ。」


 鼻を啜りながら制服の袖で涙を拭う。

 呆気に取られた影は瞬きをすると目尻に溜まった雫をこぼした。そっか、と小さく呟くと、原型を留められなくなった指先が黒い靄になり、だんだんと崩れていった。


「え、なに。」


「死ななくていいんだね。」


 目を腫らしながら驚く竜也をよそに、安心したような過去は跡形もなく消えていった。

 竜也はその場から動くことができなかった。





「——やっぱ、俺は俺だな。あえて急所外したろ。」


 右の横腹から血がどくどくと流れる。シミは次第に大きくなり、純白の制服を真紅が染めていく。

 左手で傷口を覆うと、緊張が解けたように表情が緩んだ。


「最後の最後に情けをかけるのは、昔から変わんないんだな。まあ、それが俺のいいところなんだけど……。」


 冷月は刀を落とした。そのままおぼつかない足取りで、着流しの自分に近づく。

 相手は刀に血がついたままじっと立っていた。刀を交わらせていたときの殺気は感じられなかった。

 そのままつまづくように前のめりになると、冷月は相手の腕ごと抱きしめた。


「は?」


 驚いた青年は、刀を持ったまま抵抗しようとするが、さらに強い力で行動を制限される。


「俺は、全部受け入れるよ。受け入れた上で、前に進むんだ。」


「カッコつけてんなよ、俺は本気で殺すつもりで斬った。服になんか入れてんだろ。」


「あーバレた? おかげで命拾いしたわ。」


 冷月は左手で懐から拳銃を取り出すと、ぼとりと床に落とした。


「でも、おまえそういうの好きだろ?」


「……ああ。」


 そっぽを向いたまま答える着流しの自分は、上がりそうになる口角を必死に抑えるように口を横に結んだ。

 その様子を見てくしゃくしゃと頭を撫でた。


「な、なんだよ。」


「まだ若いなーと思って。」


「見た目ほぼ変わらんだろ。」


「そうだなー。強いていうなら今の俺の方がかっこいい。」


 着流しの彼は舌打ちと共に、傷口に手刀を食らわせた。「いっでぇっ!」としゃがみ込み、唸る冷月を見て、


「さっき言ったこと、忘れんなよ。」


「へ? 俺の方がかっこいいってやつ?」


「違う、前話のセリフ。一生背負えよ。」


「……ああ。」


 人殺しの罪は死んで魂だけになったとしても消えることはない。それはあの岩が証明していた。

 傷口に手を当てたまま、ゆっくりと立ち上がる。先ほどとは打って変わって、冷月な表情で過去の自分を見つめた。

 そのままじっと見つめていると、だんだんと相手の輪郭が黒くぼやけていった。指先からだんだんと黒い粒子になると、


忘れんなおもいだせ。」


「へ。」


 声が重なって聞こえたような気がした。聞き質そうにも、影は既にそこにはいなかった。





「——なんでよ。」

 

 壁にめり込んだ黒い靄を纏う獄卒は桃子を睨んだ。


「さっきも言ったでしょ、悪くないと思っちゃったのよ。あとは、」


 桃子の脳内に爽やかに笑う冷月の姿が映し出される。


「なんでかしら。」


 あのカッコつけのことなんて、考えの合わない鬱陶しいやつとしか思っていないはずなのに。桃子は首を傾げた。


「フン、えらく人間、らしくなったわね。」


 それは影が吐いた最大限の皮肉だった。

 人間は悪だと教わり、嫌いと言い聞かせて地獄に落ちる亡者を痛めつけてきた。そんな唾棄すべき人間に染まっていると言われて心の底からは喜べなかった。

 それでも、


「上等よ。昔の私と違って、今は人を救う側なんだもの。」


 胸を張って、消えゆく影に吠えた。



 


「——みんな無事かー。」


 冷月の呼びかけに桃子も竜也も答えた。


「もちろん。」


「な、なんとか。」


「そりゃよかった。」


 三人とも服はボロボロになり、冷月に関しては血で赤茶色く汚れていた。


「見たところあんたが一番重症なんですけど。」


 呆れた声で桃子はため息をついた。「俺は平気。」と胸を逸らす冷月は、息を吸い込むと「いてて、」と横腹をさすった。

 そうこうしている間に、袋小路になっていた壁には、再び赤い扉が現れていた。前回現れた扉と違うのは、比べ物にならないくらい大きく、両開きの扉だった。


「これが最後の扉……?」


「この魔宮のボスみたいなのも出てきたし、そうなんじゃないか?」


 竜也は唾を飲み込み、深呼吸すると、扉を思い切り押し開けた。

 目の前には、よく見慣れた狭い廊下が続いていた。ジュワジュワとした音が絶えず聞こえ、土埃の匂いが充満した玄関に香ばしい匂いが漂ってくる。竜也は靴を脱いで導かれるように、一番手前にある半開きのドアに手をかけた。

 そっとドアを開けて中を覗くと、台所に1人の女性が立っていた。髪を一つに束ね、ベージュのプルオーバーの袖を肘まで捲っている。

 ジュワジュワした音が止むと、女性はニコニコしながらさらに盛り付けた唐揚げを食卓に運んだ。


「できたわよー。」


 その声を皮切りに二階からドタドタと、転がる勢いで二人の男児が降りてきた。勢いよく扉を引くと、竜也をすり抜けて席についた。

 当たり前だったはずの懐かしい光景に、吸い寄せられるように近づいた。


「「「いただきます。」」」


 傷の多く残る茶色い机も、重心の掛け方でガタガタ動く椅子も、自分のよく知っているものだった。

 唐揚げを頬張る男児も女性も、切っても切り離せない縁で繋がった、家族だった。


「今日お父さんはー?」


「出張よ。」


「明日は?」


「明日も。」


 竜也は自分の父親が仕事柄なかなか家にいなかったのを思い出した。毎日家にいるようになったのは、大規模な感染症が流行した四年前からだった。


「だからいっぱい食べなさい。」


 わーい、と弾んだ声が聞こえると、さらに食べるスピードが速くなった。


「母さんの唐揚げ美味しかったな。」


 三人は満面の笑みを浮かべながら食事を楽しんでいた。そんな日常も、自分が期待に応えられないゆえに壊してしまったのだろう。そんな考えがうっすらと、雲のかかった空のように脳内に張り付いた。

 瞬きをすると、机の上の唐揚げどころか皿もなくなり、窓からは陽が差していた。また、椅子に座っているのは母親だけだった。


「え?」


「ただいまー! みてみて母さん、俺百点満点だった!」


 自信満々な笑顔で、竜樹は黒いランドセルから答案用紙を取り出した。


「あらすごいじゃない!」


「う。」


 竜也はなんとなくその場にいるのが苦しくなった。胸騒ぎを覚え、思わず手を当てると、


「大丈夫か?」


 冷月が優しく声をかけた。


「は、はい。平気です。」


 足元に視線を落とすと、冷月も桃子も靴を脱いでいた。


「た、ただ、いま。」


「竜也はどうだった? もちろん満点よね。」


 リビングの入り口の前で、小さな竜也は足をもじもじとさせている。


「……うーん、なんでできないのかな。」


 耳を塞ぎたかった。椅子に座る小学生の竜也は今にも泣きそうな顔をしている。その様子がどうにも哀れで、代わりに答案用紙を破いてやりたいと思った。


「竜樹はできるのにね。」


 息が詰まった。こんな時から比較され続けて死にたいと思わない方がおかしい、竜也はギュッと拳を握った。


「同じ教育をしてるのにね。」

「ゲーム? そんなのする暇あるなら勉強しなさい。」

「なんで竜樹みたいにできないの?」


 シーンが切り替わるたびに母親の呪いが蘇った。竜也は目眩の後にガクンと膝をついた。


「おい、マジで大丈夫か?」


「ちょっと比較されただけだと思ってたけど、相当ね、これ。」


 当時は劣等感の次に孤独に感じたが、今は味方をしてくれる人(?)が二人もいる。それだけで、竜也は吐かずに済んだ。

 一発殴っとく? と、提案する桃子に思わず吹き出した。気持ちだけで結構ですと断ると、冷月の肩を借りながらゆっくりと立ち上がった。


 次に映し出された光景は、竜也も竜樹もいなかった。

 リビングで頭を抱える母親の隣には、白いシャツを身につけた気の弱そうな男性が、母親の背中をさすっていた。


「どうしよう、私は、どうすればいいの。竜也にも頑張ってほしいだけなのに。私だって劣等生だったから、両親に比較され続けて努力してきたの。私の育て方が悪いの?」


 わんわんと泣きながら、母親は思いのままに言葉を吐き出した。


「いや、君は間違ってないと思うよ。」


「あなた、いつも家にいないじゃない、何がわかるのよ。」


 バツが悪そうに男性は眉をひそめると、


「えっと、まあ、父さんに任せておけ。」


 と、泣きじゃくる母親を後に、竜也の自室がある二階に続く階段を登った。

 三人は父親の背中を追った。


「おーい竜也ー。俺は竜也ならできると思ってるぞー。」


「マジかぁ。」

「うわ。」


 と、後ろで嘆く声が聞こえた。

 見に来たはいいものの、背中がむずむずするように恥ずかしくて、竜也はその場から早急に立ち去りたかった。


「俺は十分優秀だと思うけどなぁ。」


 振り返るといつのまにか、冷月が八〇点の答案用紙を手にしていた。名前の欄には竜也の名前が記されていた。


「小学生でこれは低いよ。」


「んなこたないだろ。」


 扇子のように広げられた答案用紙は、八〇点の他に八六点や中には九〇点のものまであった。


「……それ、どこで?」


「リビングにある収納ケースん中に入ってたぞ。全部ファイルに閉じてあった。」


 一応止めたんだけど、ね。と桃子は申し訳なさそうな顔をした。

 茫然と立ち尽くす竜也に、冷月は声をかける。


「お前の母親、点数のいいテストは全部残してんだな。見ろよこれ。」


 答案用紙には様々な色の付箋が貼ってあった。そこには手書きで間違えたところの考察がなされていた。


『ここは前も間違えていた。』

『こっちはあってるから解き方の問題?』

『どこがわからないかわからない。』

 

「不器用なんだろうな。こういう見直し、母親とやったか?」


「初めて見たし、やってない。」


「だろうな。まあやってたとしても、この書き方は嫌味みたいに感じるけど。」


 冷月は首を傾げて苦笑いをした。


「なあ竜也、お前嫌なこと嫌って言ってきたか?」


「ううん。」


「なんで?」


「それは。」


 うまく言葉にできなかった。なんでだろう。


「竜也も母親と同じように不器用なんだよ。だからこうしなきゃああしなきゃって、言われたこと全部答えようとして結局何も手につかないんじゃないか?」


 さらに冷月は言葉を続けた。


「それでも失望させたくなくて、できない、無理だ、って心の中では思っていても、伝えられないんだ。」


 核心を突かれた竜也は、目を逸らした。


「素直になればいいと思うぞ。兄貴と話したいと思ったように、ちゃんと思いを伝えたらどうだ? 今の竜也なら、できるだろ?」


 そんな竜也に目を合わせに行く冷月は柔らかな表情をしていた。


「帰ろうぜ。」


 竜也は差し伸べられた手を取った。


「ほんで、嫌だったってガツンと言ってやれ!」


「うん。」


 そう朗らかに笑う冷月に釣られて、竜也も表情を緩めた。


 ————————————


「しゃあー、たーだいま。」


 扉を開けると、元来た扉の空間に繋がっていた。が、先ほどの埃っぽい匂いとは別に、血の匂いが混じっていた。


「やあ、おかえり。」


 扉のすぐ手前で、黒いフードを被った悪魔がアウラを抱えている。床に転がる短剣の上には悪魔の手が乗せられていた。アウラの胸元には血が滲み、足元を見ると大きな血溜まりができていた。

 一気に空気が冷たくなるように感じ、冷月は背中に嫌な汗をかいた。


「お前、アウラに何した。」


「え?」


 月華、と唱え、影から再び武器を取り出すと、冷月は刀を構えた。

 

「ああ、そうなるか。」


 対して、悪魔は辺りを見回して状況を理解すると、大きなため息をついた。

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