竜也編⑧ 向き合う
「僕、もう一度兄と話がしたいです。」
自分でも信じられない発言をしていた。死にたいと思っていたのが嘘のように、今は一刻でも早く現世に帰らなければと焦燥に駆られる気持ちが、心を浮つかせた。
「じゃあ早く攻略して帰ろう。」
消えた扉の先は袋小路になっている。見渡す限り、扉が一つしかなかった。朽ちかけた木が貼り付けられた扉だった。
「ここが最後なのかしら。この扉を進むの?」
「いや、これアウラが言ってた脱出用の扉じゃないか?」
確かにそんなこと言っていたが、今まで気にしてこなかった。
そんなやりとりをする三人の耳に、バラバラと揃わない足音が聞こえた。
竜也たちが進んできた方向から、後を追ってくるように大きくなる足音には、それぞれ違う音が混ざっていた。すり足で歩く音、空間に響く硬い足音、ペタペタと裸足で歩く音だった。
最初に出てきた魔の類かと思い、少し身構えた。固唾を飲んで、近づく足跡の正体を見守った。
「桃子。」
「ええ。」
厚生課の二人は人影に警戒して武器を取り出す。緊張感が竜也にまで伝わり、自然と背筋が伸びた。
「え?」
竜也の瞳に映ったのは、金棒を背負う着物の女性と、刀を手に着流しを身につけた青年に、見たことのある学ランを着た少年——竜也だった。学ランを着た竜也はどの記憶に出てきた自分よりも歳上だった。
「いやー、昔の俺も結構かっこいいな。」
冷月がそう発言して初めて、着流しの青年が冷月だと気がついた。青年はメガネをかけておらず、髪色も今より暗かった。今のような多弁で明るい様子は微塵も感じられなかった。
と、なると伸ばしっぱなしの髪をまとめていない女性は、
「最悪。」
桃子も不快感を露わにした。
立ちはだかる一行は、今自分の両脇で武器を抱える二人より暗い表情をしていた。
「ねえ、」
真ん中にいる少年が話しかける。その顔も声も自分そのものだった。強いて言うならその声は、声変わりしきっていない未熟な高さだった。
「なんでまだ生きてるの。」
少年は心底不思議そうにこちらを見つめている。ゆっくりと近づいてくると、
「あんなに死にたがってたのに。作り物の過去見せられて、今までのこと許せるの?」
竜也を見上げるその目は冷たく、悲しい色をしていた。
冷月は刀を構えて、桃子は金棒を握りしめて竜也の様子を窺っている。
「それは、」
積み重なった劣等感はなかなか拭えなかった。
「——竜也とは大違い。」
そんなふうに親にずっと比較されてきたことを思い出す。竜也は言葉を詰まらせた。
それでも、サッカーコートでのあの光景を、自分の思い違いを認めたかった。竜也はすでに自分を取り巻く環境を変えようと、前を向こうとしていた。
何をするにしても、比較されたあの地獄のような日々はいい思い出とは言い難いが、それでも、今は死にたいとは思っていない。
「確かに、僕はずっと竜樹を羨んで妬んで、親にかけられる期待も気持ち悪いくらいに重くて、死にたいと何度も思った。結局そんな勇気はなかったけど。でも、でも、ちゃんと今は向き合いたいと思って——」
「そんなんで、そんなことくらいで、消えないだろ。僕自身の苦しみは、そんな簡単になくなるもんじゃない。」
「それでも、僕は会いたい。」
無事に現世に帰れたとしても、竜樹と改めて話すのは少し恥ずかしく、慣れないかもしれない。それでも、向き合うと決めた竜也はまっすぐな目をしていた。
そんな竜也を見て、冷月は満足そうに笑った。
「そう。」
「うん。だって、僕の勘違い、かもしれないから。」
パチンッ。乾いた音と共に竜也の左頬に衝撃が走った。
竜也、と名前を呼ぶ声が聞こえたが、それを皮切りにずっと黙っていた和装の
「冷月さん!」
「目、覚ませば? どうせ帰ったっていつもみたいに比較され続ける日々だよ。家族なんて、僕のことなんかろくに心配しちゃいない。」
それは、この魔宮に入る前にずっと考えていた。だから死にたかった。けれども、進むごとに鮮明になる記憶が竜也を改心させた。
「なんで死ななかったの? って。そうやって責められるんだよ。」
「違う。」
「死ねよ。」
「嫌だ。」
「なんで。サッカーだって才能ないし、竜樹がいれば十分なんだろ。家族にも嫌われてる自分なんて、」
目も前の竜也の言葉は正しいのかもしれない。それでも、
「違うよ。本当は大好きなのに、羨むようになって、それが嫉妬に変わって、僕は、僕が……。」
嫌いって自分に言い聞かせた。本当はもっと話したかった。愛されたかった。認められたかった。
気にかけてくれていた兄の言葉も、全部同情に聞こえて不愉快だった。
その一方で、もっと素直になりたかった。
「嫌ったのは、僕の方だよ。僕がそう決めつけたんだ。」
一番荒んでいた頃の竜也は眉間に皺を寄せて不快感を示す顔をしている。
「信じてみたいと思ったんだ、変わろうとしてるんだ、お願いだから止めないで。」
「だったら、」
重力が傾いた。手押し相撲のように胸部を両手で押されると、踏ん張りきれなかった足元から崩れた。
派手に尻餅をつくが、痛みに構う暇もなく、
「僕が殺してあげるから。」
過去の自分が竜也の気道を絞めていく。
あまりの苦しさに、視界がぼやけた。
——数分前、警戒しながら様子を見守っていた冷月は、学ランを着た竜也の平手打ちに目を見開いた。
なんとか間に入ろうとするが、自分に向けられた刀身がそれを許さなかった。
「チッ、邪魔すんなよ。」
着流しを着た冷月は光の宿らない目をしていた。
「人殺しが人助けして、報われるとでも思ってんのか。」
迫り来る刃を躱すように、冷月は自身の刀を交錯させた。金属が擦れる不快な音がする。
お互い一歩下がって距離を取ると、刀を構え直した。
「……お前いつの時代の俺だ?」
「さあな。お前が一番嫌いな自分じゃないか?」
「なんか、俺が言うのも変だけど、めんどくさいぞ。」
同じ顔をしているが、着流しを着た冷月は根暗で捻くれていた。我ながらめんどくさいと感じる。
「知るか。」
相手は一気に距離を詰めると、首元を狙って切り上げた。
攻撃を防ぐように刀を首元に構えると、耳に残る不快な音と共に火花が散った。
——こいつ、本気で殺しにかかってんな。
剣の腕は今の冷月よりも荒かった。しかし、自分自身に込められた殺意だけは、嫌というほど伝わってきた。
「殺した過去は消えない。そんなこと痛いほどわかってる。でも、今俺がすべきことは、生きてる人間を救うことだ!」
押し合いに勝ったのは厚生課の冷月だった。
「なんと言おうが、俺は俺を許せない。」
「許さなくていい。罪は、俺が一生背負うから。」
その覚悟は本物だった。
「だったら、これは罰だ。」
昔の冷月は体制を少し低くし、一足飛びで駆けてくる。躊躇わず
——同刻、桃子も過去の自分と対峙していた。
金属のぶつかる鈍い音が何度も鳴った。
「髪はまとめた方が動きやすいわよ。」
「うるさい。」
ボロボロの着物を着崩し、髪の手入れもせずに桃子を睨みつけ、金棒を担ぐ姿は鬼そのものだった。
「なんで人間なんかと一緒に行動してるの。」
「……。」
桃子は答えられなかった。
自分の犯した罪を思い返してみても、人間に加担する義理はなかった。
ただ死ぬ未来しか与えられなかった。自分を形成する魂を閻魔に抜き取られるのを待つだけ。
獄卒として地獄にいた桃子は、亡者に誑かされ、地獄に落とされたのを冤罪だと主張し、極楽へ逃がそうとした。そんな大罪を犯した桃子は、自身を騙した人間という種族が憎かった。それと同時に、自分の愚かさを呪った。
『——うち来いよ。』
そうやって冷月に手を引かれた処刑当日のことはよく覚えている。人間が鬼を助ける理由もわからず、同情されるのも腹立たしかった。それでも冷月は、振り払った手を何度も繋いできた。
それは、閻魔に殺されるよりも屈辱的だった。
『なんで、死なせてくれないの。何がしたいのよ。同情して楽しい?』
振り解いた手が冷血の顔面を直撃した。かけていたメガネが真っ直ぐ地面に落ちた。
真っ白の軍服には鼻から垂れた血が模様を作った。
『違うよ。』
冷月は落ちたメガネを拾うと、もう一度かけ直した。
『お前は優しい奴だと思ったから。』
後光が差すかのような慈愛に満ちた目を桃子に向ける。桃子は、彼が何を根拠にそう言ったのか、未だに理解できなかった。
「——ほんと、なんでなのかしらね。」
別に冷月に拘束されているわけでも、使えているわけでもない。逃げ出そうと思えばいくらでもチャンスはあり、地獄へ行って殺してくれと懇願することもできたはずだ。嫌いなはずの人間のすぐ側に身を置く必要はないのに、これといった行動には出なかった。
「そうね、強いて言うなら、悪くないと思ったからかしら。」
浄玻璃の手鏡で覗いた純蓮の様子を見て、そう感じてしまった。
嫌いだと言い聞かせてきた人間に情が湧いてしまった。
「そんな情けをかけたって、私は救われないのよ。」
「そうかもね。でも、それでいいわ。」
構わない、元々死ぬ命だ。それが少し伸びたくらいで救われたなんて思っていない。桃子は、金棒の先で相手の顔面を思いっきり突いた。
後方に吹っ飛んだ獄卒は、壁に体を強く打ち付けた。
* * *
魔宮の外、扉の間にて、門番と悪魔は未だに魔獣を相手にしていた。
「僕が惹きつけよう。君は隙をついて攻撃してくれ。」
「わかりました。」
悪魔が大鎌を振り上げると、装飾が光を反射してキラキラと輝いた。魔獣の瞳は、鎌に釘付けになっていた。
「やっぱこういうの好き? シメールってネコ科なんだね。」
悪魔は口角を上げると、ほらほらと煽るように鎌を自在に動かした。
その間にアウラは魔獣の左足に短剣を突き刺した。悲痛な叫びと共に、上半身を覆うほどの足の裏で蹴飛ばすと、少女は受け身を取りながら地面を転がった。
「うぅ。」
顔を上げると、魔獣はアウラの姿をはっきりと捉えていたが、
「君の相手は僕だろう?」
魔獣が振り向く暇も与えず、悪魔は鳩尾を掻き切った。
「さて、残りは眉間と首……。このくらいならなんとかなりそうだね。」
「そうですね。」
アウラは肩をさすりながら立ち上がると、ダガーを構え直した。
先に動き出したヴィセが獣の眉間を狙って大きく飛び上がった。それに続くようにアウラも駆け出すと透明な扉に飛び込んだ。
体の至る所に傷を負った魔獣の動きは鈍くなっていた。
悪魔は空中で大鎌に全体重を乗せると、急所に目掛けて振り下ろした。
勢いよく刃先が突き刺さると、魔獣の眉間から血の代わりに黒い靄が溢れ出した。
顔を上に向け抵抗する魔獣の動きに対応できなかった悪魔は、愛武器から手が離れた。
魔獣の頭上から顔を覗かせたアウラは、獣の首に刃を立てようと重力に身を任せ落下するが、
「えっ。」
予想外の動きに、背中にしがみつくことができず、地面へ転がり落ちた。
魔獣は鎌が刺さったまま二人に背を向け、先ほどの扉の前へ足を引きずらせながら近づいていく。
「まだ狙うか。」
武器を持って行かれたヴィセは立ち上がって跡を追うが、間に合いそうになかった。
魔獣は最後の力を振り絞り、右腕を高く上げた。
そんな背中を見ていたアウラは、鍵を握った。覚悟を決めたように目の前に出現させた扉をくぐると、
「がっ、あ。」
扉と爪に挟まれるように体を捩じ込んだ。
「アウラ!」
赤紫色のワンピースをさらに濃い真紅が染めていく。魔獣の爪はアウラの右胸を突き刺していた。
肺が破れて逆流した血液が口から溢れた。咳き込んで血を吐くと、魔獣を睨んだ。
「絶対、この扉は、守って、見せます。あなたなんかに、傷つけさせ、ま、せ……。」
扉の前に血溜まりができる。その上にポタポタと耐えることのない真っ赤な雫が落ちていく。
脱力したアウラの手からダガーが離れると、カランッと硬い音が空間に響いた。
魔獣は未だにアウラから目を離さないでいた。
アウラのぼやける視界の端に、黒い影が映った。その影に視線を移す気力はなく、ただぼうっと敵の瞳を見つめた。
しばらくして、金属が硬いものとぶつかる鈍い音がぼんやりと耳に届いた。
ふっと軽くなるような感覚と共に重力が傾くと、それを支えるように悪魔はアウラを抱き止めてしゃがみ込んだ。
「魔獣は倒したよ。」
「そう、ですか……扉は……?」
「特には。君の血がついたくらいかな。」
「よかっ、た。」
安心したアウラは目を閉じて微笑んだ。
「ちょっと、そういうのやめてくれないかい。君、冷月に会うんだろう。」
呼吸をするので精一杯のアウラは、悪魔の呼びかけに答えられなかった。
「魂は傷ついてなさそうだから、時期に穴は塞がるだろうけど。」
死後の世界においての「死」とは魂の喪失を表す。人格や肉体を形成する魂が破壊されてしまうと、存在そのものが消えてしまう。これは冷月たちのいる仏教界でも、ヴィセが拠点とするキリスト教界でも同じだった。
逆にそれ以外の外傷は時間と共に回復する。痛みを感じることはあれど、寝て起きたら体を起こせるくらいには楽になる。
すうすうと寝息を立てるアウラの呼吸は、先ほどと比べて穏やかになっていた。
「仕方ないな。」
悪魔は魔獣のトドメを刺した短剣を握ったまま、少女の寝顔を見守った。
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