竜也編⑦ 思い出

 * * *


「このエリアは、ただ荷物を背負うだけでよかったんですか?」


 竜也と桃子は、先ほどより深みのある赤い扉の前に到着した。

 竜也は背中が軽くなり、持ち手の紐が無くなる感覚に驚いたときには、すでにリュックは消えていた。


「結構重かったわねー。」


 桃子はグッと両手を伸ばして伸びをすると首を鳴らした。彼女が背負っていた背負子もすっかりなくなっている。

 

「あれ、あいつ来ないじゃない。」


 肩を回しながら桃子は後ろを振り返った。

 冷月が背負うべき巨岩は簡単に動かせないように映った。そんな岩をどう背負ってくるのだろうか、そもそも背負えるのだろうか?

 来た道を振り返りながら竜也は冷月の身を案じた。

 先に扉を開けてしまう手もあったが、なんとなく進む気になれなかった。桃子一人では不安というわけではないが、人数は多い方がいいと思った。


「お、ま、た、せ……!」


 ゼェゼェと岩を背負う冷月が遠くの方で見えた。

 先刻見たときよりも、岩は明らかに小さくなっていた。


「待たせてばっかりね、あんた。」


「悪い悪い、ちょっと時間かかって、」


 背負っていた岩が消えると、バランスを崩した冷月はうつ伏せに倒れた。

 背中には灰色の汚れがついており、手のひらには赤い血が滲んでいた。


「ちょっと、しっかりしなさいよ。」


 倒れた冷月と目線を合わせるように桃子はしゃがむと、


「へーきへーき。」


 額から血が流れているにも関わらず、冷月は笑って見せた。


「どこが平気なのよ。」


 平気と言って膝を払う冷月の顔は笑顔なのに辛そうだった。

 本音を飲み込んで嘘をつく際の特有の顔のような気がした。竜也は放って置けず、思わず声をかけた。


「何か、あったんですか。」


 冷月は少し間を開けて、「大したことねーよ。」と、また太陽のような笑顔になった。

 でも血が、と言いかけるとパンパンと手を払い、ありがとな、と背中を叩いた。

 それ以上、冷月の身に何があったかを聞くことはできなかった。


 扉を開けた先に広がる光景は、竜也にとって懐かしく温かいものだった。柔らかな風が頬を撫でる昼下がりの公園には、無邪気な子供たちの笑い声が満ちている。

 先ほどの緊張感あふれるサッカーコートとは違い、穏やかな時間が流れていた。

 おもむろに歩き出すと、大きな木の影に座りかける二人の少年の姿があった。比較して大きい少年は、サッカーボールを手にしていた。


「竜也はサッカー好きか?」


「うん。楽しいから好き。」


「そうか。」


 優しく笑いかけるその顔は、この頃から変わっていなかった。


「竜樹……。」


 ずっと比較されてきた対象、劣等感を抱く元凶、非の打ち所がない兄が、幼い竜也に話しかけている。


「僕、お兄ちゃんみたいになりたい。」


「お、それは嬉しいな。竜也ならきっとなれるさ。」


 そう言ってぐしゃぐしゃと頭を撫でた。今では考えられない発言に、竜也は目眩を覚えた。お兄ちゃんと呼ばなくなったのはいつからだっただろう。仲良さそうに笑う二人を眺めながら、竜也は立ち尽くした。

 引き出しにしまったまま忘れた記憶が蘇り、目を潤ませた。それでも、今まで積もってきた負の感情を浄化させることはできなかった。

 鼻を鳴らしながら更に竜樹に近づくと、膝をついてやり場のない怒りをぶつけた。


「竜樹が、優秀過ぎるから、比較されて、ずっと苦しかった。僕に才能なんかないのに、そんなふうにできるだなんて、竜樹みたいになれるなんて、簡単に言うなよ。僕がどれだけ、どれだけ辛い思いをするのかも知らないくせに、」


 胸ぐらを掴もうにも、手は空を掴むばかりだった。ただの幻影に怒っても仕方がないと、諦めた竜也は両手を地面についた。手の甲に一つ、また一つと雫が溢れた。


「でもな、竜也は竜也のままでいいんだぜ。」


「へ。」


 目を腫らしたまま、顔を上げる。目の前にいる自分にかけられた言葉に感じて、ドキリとした。


「俺と比べなくたって、竜也は十分すごいと思う。まだ小さいけどな。」


 幼い竜也は口を尖らせた。それを揶揄うように竜樹は笑う。

 ひとしきり笑ったあと、竜樹は優しい眼差しを小さな竜也に向けた。


「……もし、期待とか劣等感でしんどくなったら、俺になんでも相談しろよ。」


 幼い竜也は、兄がどうしてそんなことを言うのか理解できない、といった表情をしている。対して目を腫らす竜也は、竜樹がどんな言葉を続けるかに注目している。


「竜也は真面目だからな。言われたこと真に受けそうだし、母さん、なんか俺たちにすごい期待してるし。その期待が重いと感じるようになったら、逃げちゃえばいいよ。」


 知らなかった。兄が自分の将来を心配する姿なんて、記憶から消えていた。

 いや、その心配さえも余計なお世話だと、兄よりできない弟を可哀想に思う偽善だと決めつけて、受け入れようとしなかった。『メシ、いらないの?』とメッセージをくれたのも、疎ましく感じてしまっていた。


「って、最近読んだ本の受け売りだけどな。」


 竜樹は陰鬱な雰囲気を吹き飛ばすように笑った。

 なんだよ、と呟いた竜也だったが、なぜか温かく感じて兄の顔を見つめた。


「お兄ちゃん、なんかあったの?」


 揶揄われてからずっと黙っていた幼い竜也が、兄の顔を覗き込んだ。

 その瞳はまっすぐで、曇りがなかった。


「いや、なんもないよ。」


 笑ってはいるものの、少し我慢しているように映った。


「あ。」


 怪我をした冷月が見せた表情によく似ていた。

 

 公園内に午後五時を告げるチャイムが鳴った。防災無線なら流れる夕焼け小焼けのメロディーはノイズがかかり、寂しさを煽った。

 

「帰るか、俺勉強しなきゃだし。」


 その言葉を聞いて、竜樹が中学受験を受けていたことを思い出した。のちに自分も受けることになるあの重たい過去を思い出して胸が痛んだ。


 ——竜樹は竜樹で苦労したんだろうか。


 立ち上がって歩いていく背中には哀愁が漂っていた。


「お兄ちゃん待ってー。」


 小さな背中が兄を小走りで追いかけていった。そのまま手を繋ぐと、二人は楽しそうに話しながら大木に背を向けて歩いていった。

 竜也は、そんな兄を見てもう一度会って話がしたいと思った。


「俺たちも、先に進むか。」


 後ろから急に声をかけられて驚いた竜也は、ハッとして振り返った。

 そこには厚生課の二人が立っていた。


「はい……!」


 冷月に差し伸べられた手を握ると、立ち上がった竜也も公園を後にした。

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