竜也編⑥ アウラ

 * * *


「お願いします。」


 ヴィセが言うように、アウラは弱くなかった。一人で百年もこの扉の間を守ってきた門番が、一匹の妖異に物怖じなどするはずもなかった。

 本来であれば。

 それなのに彼女が悪魔を頼ろうとしたのは、その妖異の放つオーラが通常とは比にならないほど禍々しく、ただならない雰囲気を感じ取ったためであった。

 妖異は二人の様子を伺うように、ギロリと真っ赤な目を光らせている。

 その目に圧倒されて、アウラも身構えた。ケープの内側から赤いルビーの嵌め込まれたダガーを取り出す。金属でできた鞘を抜き取るとテーブルの上に置いた。

 低い声で唸る妖異は腹を空かせたように、鋭い牙の隙間から絶えず涎を垂らしている。二歩、三歩と近づいてくるとその全貌が明らかになった。

 頭は獅子、山羊の胴体、蛇の尻尾を持つその異質な存在は、妖異の中でもトップクラスの邪悪さを誇り、そこにいるだけで嫌悪感を抱かせる。


「シメールみたいだ。よくあそこまで大きくなったね。」


「シメール?」


「ああ、こっちではキメラって言うんだっけ。」


 妖異にしても、キメラにしても、天国や地獄のように宗教や国によって呼び方は異なる。

 同じように、人に災いをもたらす悪の存在にも、鬼や悪魔など様々な呼び方があり、場所によって見た目も異なる。


「なんにせよ、あの獣を祓わなければならないんだろう。どう叩く?」


「そうですね。脳天を突き刺すか、胸の辺りを狙うか、致命傷になればきっと——」


 言い終わらないうちに魔獣はアウラ達の元へ駆けてくる。五メートル手前で勢いよく飛び上がると、迷うことなくアウラに爪を立てて襲いかかった。


「躾がなってないな。人の話は最後まで聞かなきゃ。」


 金属がぶつかる音が鳴り響く。妖異の爪をヴィセのクレイドルが受け止めると、そのまま衝撃を逃すように鎌を振り下ろした。


「おっと、」


 バランスを崩したヴィセは、体制を立て直すように一歩後ろへ下がった。

 その間にアウラはダガーと同じようなルビーのついた小さな鍵を取り出して、空に向かって鍵を開ける素振りをした。

 ガチャリと、開錠される音を確認すると、目の前に開かれた空間に飛び込んだ。側から見たらアウラが一瞬で姿を消したように見えるが、本人にしか認識することのできない特殊な扉がそこには存在していた。


「へー。空間と空間を繋ぐ役割もあるなんて便利だね、ほんと。」


 次に姿を現したアウラは、獣の真上から出現し、漆黒の背中にナイフを突き立てる。

 激しく身を捩り、咆哮する獣に振り落とされまいと必死にしがみつくが、


「きゃっ。」


 遠心力に逆らえなかったアウラは後方に吹き飛ばされた。不安定な体勢のままでは扉を開けて逃げ込むことができない。硬い地面と接触する衝撃に備えてアウラはギュッと目を閉じるが、


「そんなんで百年もここを守ってこられたの?」


 柔らかく包み込まれるような感覚がして顔を上げると、鎌を持ったまま、ヴィセがアウラの背中を左手で支えていた。悪魔の手は死者を思わせるほど冷たかったが、抱き止められた優しさがそれを上回る温かさだった。羽織っているコートがオーバーサイズのため着痩せして見えるが、見た目の割には頼もしいと感心した。


「ごめんなさい、不覚を取りました。」


 ヴィセに預けていた体重を自分に戻し、スカートの埃を払うとアウラはもう一度ダガーを構え直した。


「次はないからね。」


 はい、と返事をすると妖異との距離を詰めた。コツコツと響き渡る靴音は、だんだんテンポを上げていく。

 妖異は相変わらず背筋を凍らせるような威圧感を放っている。しっかりと背中に刃を突き立てたはずなのに、弱っている様子は微塵もなかった。

 迫り来る少女に、妖異は蛇の頭がついた尻尾を振り回し、薙ぎ払うような攻撃を仕掛ける。それらを器用に避けると、アウラはまた扉の中に飛び込んだ。


 ——先ほどの攻撃が通らなかった。このダガーを持ってしても、全然堪えていない。


 アウラはどうやって致命傷を与えるか、考えを巡らせていた。

 人の負の感情から生まれる妖異は普通の攻撃を当てることはできない。その曖昧な存在は、それに対応した武器を使わなければ、傷一つつけられない。アウラの持つ短剣は悪魔すら一撃で祓えてしまうほど強力なまじないが施されている。それなのに、妖異は未だ変わらぬ威圧感に身を包んでいた。

 次から次へと扉を潜り抜け、隙をついて何度も何度も攻撃を当てるが、敵が怯む様子は感じられなかった。

 アウラに代わってヴィセが正面から攻撃を当てようとしても、結果は同じだった。

 やがて脅威にならないと理解したのか、妖異は二人を無視して冷月達のいる扉に近づいた。

 

「だめ、その扉は……!」


 アウラはもう一度透明な扉を開けると、空間を移動して追憶の魔宮へと続く扉と獣の間に割って入った。

 自分の三倍近くある大きさの魔獣の前に立って、恐怖を感じないはずはなかった。魔獣の鼻息でスカートの裾が揺れる。一歩下がると、冷たいドアに背中が触れた。


「へえ、勘がいいね。やっぱりいい魂がどこにあるかって本能でわかるんだ。」


 こんな状況でも余裕そうに笑う悪魔の顔が、その声から容易に想像できた。アウラとヴィセは、魔獣の前後に立ち、逃がさないように挟んだ。

 この扉は絶対に傷付けさせない。帰ってきた冷月に心配をかけさせたくない。死ぬ気でここを守る。

 覚悟を決めたアウラは獣を睨み返すとダガーを握る手にグッと力を込めた。


 * * *


「ご挨拶、ですか。」


 一年前、アウラの元にかかってきた電話は、彼岸省にて新設された部署に所属することになった、一人の青年からのものだった。


『そうそう、俺も一応そっちに続く鍵をもらってる人間だから、顔知っといた方がいいかなって思って。』


 電話の向こうの声はなんとも風船のように軽そうに聞こえ、自分と正反対の話し方に快く思わなかった。アウラは心のこもらない声で、必要最低限の会話を済ませると受話器を置いた。

 棚の上に置かれた黒電話は少し埃が被っていて曇っていた。アウラの元に客人なんてそうそう来ない。この電話を使う機会も少なく、人と話をしたのはいつぶりだろうか、と考えていると、


「うわああああああああああああああ……。」


 遠くの方で男性の叫ぶ声が聞こえた。自身の呼吸音しかしないこの空間では、その声はアウラの耳に異常を知らせる信号として届いた。

 声のする方へ歩いて行く。無数の扉一つ一つに目をやっても、特に変わったところは見られなかった。聞き間違うことはないと確信のあったアウラはそのままゆっくりと歩みを進めると、


「ちょっ、聞いてないってこれ、あああああ。」


 薔薇の棘の装飾が施された古い鉄の扉が開いていた。その内側から、情けない声が漏れている。アウラは表情一つ変えないでその扉に近づいた。


「大丈夫ですか。」


 スカートをはためかせながらも、扉の枠を持ち、両足に力を入れたアウラは吸い込まれることなく右手を伸ばした。

 吸い込まれる直前でアウラの手を掴んだ青年は、その勢いのまま少女に覆い被さった。

 反動で扉が閉じると、またあたりは静寂に包まれた。


「わ、悪い。かっこいい扉があったからつい……。」


 覆い被さったまま青年は答えた。黒縁のメガネから覗く青空のような瞳に、アウラは圧倒された。

 目の前の顔はどこを切り取っても整っていて、ふわっと笑う笑顔に花のような魅力を感じた。


「気をつけてください。ここの扉はどこか別の地獄へ繋がっているものもありますので、無闇に開けると帰ってこられませんよ。」


 澄ました顔のままアウラは声をかけた。二人は立ち上がるとパンパンと服についた埃を払った。


「すまん、気をつける。ありがとうな、えっと、」


 何と呼べばいいか困ったように、メガネの彼は眉をひそめた。


「申し遅れました。門番のアウラです。百年ほどここを一人で守ってきました。」


「百年⁉︎ すごいなアウラ!」


 当たり前のように使命を果たしてきただけで、そんなふうに褒められたのは初めてだった。物心ついたときから門番としてここで暮らしていた。

 アウラの前に門番としての役割を担ってきた先代から、引き継ぎを受けながらも、その先代がいなくなってからはずっと一人だった。顔には出さなかったが、少しの嬉しさに心が弾んだ。


「俺は冷月。彼岸省『更生』課に配属されることになった職員だ、よろしく。」


 「ああ、ちなみに更生課っていうのは、」と続ける冷月の話を半分聞き流しながら、彼の頭のてっぺんから足の先まで一通り見ると、また顔に視線を戻した。

 ずっと一方的に話している様子は、電話越しに聞こえた声から想像した人物像とほとんど相違なかった。しかし、強いて違うところを挙げるならば、軽薄な人間だと決めつけていた猜疑心を打ち消すような、明るさと人柄の良さを持ち合わせている、優しい人だった。


「そんな組織なんだけど……、」

 

 アウラが黙っている様子を見て冷月は、そっと口を閉じた。

 「ごめん、話しすぎた。」と、申し訳なさそうに謝ると、にこりと太陽のように微笑んだ。その笑顔はこの場所に似つかわしくないと感じた。そのくらい、眩しく輝かしいものだった。


「んじゃ、また来るわ。」


 空気を読むように一歩引いた冷月は、扉の間を後にした。


「あ、」


 その白い背中を見つめながら、一つため息を吐いた。

 人の話も聞かず、分析するだけして気を使わせてしまったとアウラは後悔した。しかし、「また。」と、冷月の言葉を反芻すると、少し心が温かくなった気がした。

 廊下に響く足音が軽快なステップを奏でた。


 それから冷月は二ヶ月から三ヶ月に一度、アウラの元に訪れるようになった。冷月は訪問前に必ず電話をくれる。埃被っていた黒電話はテーブルの上に置かれ、綺麗に磨かれていた。ひとりぼっちの空間に、楽しそうな鼻歌が響くようになった。


 * * *

 

「冷月くんは、私の毎日に華をくれたんです。セピア色の世界を彩ってくれたんです。絶対に、失望させるようなことはしたくないんです。」


 短剣の刃先を魔獣の眉間に向けて構える。冷月への思いを独白するようにこぼした。

 そんなアウラに水を差すような声が届いた。


「どうしたらそんな痛いセリフが出てくるんだい? 恋愛小説の読みすぎじゃないか?」


 悪魔の言葉を無視して、アウラは正面から魔獣に切り掛かった。

 爪の攻撃をダガーで捌くには分が悪かった。おまけに扉と魔獣との間に十分な広さもなく、押されたアウラは目の前の攻撃を躱すのに精一杯だった。


「仕方ないなぁ。これ疲れるから嫌なんだけど。」


 悪魔は右目を手で覆った。


「君の熱弁に感動したから、一つ、僕からのプレゼントだ。」


 独りごつ暇があるなら一刻も早く手を貸して欲しいところではあったが、ヴィセを信じてアウラは魔獣の攻撃に耐えた。

 不意に魔獣の攻撃が止むと、魔獣より高く飛び上がったヴィセが、巨体に鎌の刃先を突き立てていた。


「まず一つ。」


「へ?」


「アウラ、僕が今から言う場所を攻撃してくれるかい。弱点の核は六つ存在している。」


 ヴィセがクレイドルを引き抜くと、初めて魔獣は苦渋の声を漏らした。獣の上に立つ悪魔の目は、緋色に輝いていた。


「ヴィセくん、その目。」


 アウラの問いかけに答えることなく悪魔は続けた。


「一つはここ、アウラが刺した部分のもう少し後ろ。もう一つは首の後ろから頸椎を狙ったところ、あとは、」


 背中の違和感を不快に思った魔獣は、尻尾でヴィセを薙ぎ払う。そのままバランスを崩した悪魔を尻尾で縛り上げると、力を強めた。


「ぐっ、あとはこの尻尾の蛇頭ッ。」


 魔獣の視線は完全にヴィセに注がれている。アウラは金色の鍵で扉を開け、ヴィセの近くに移動すると、短剣で尻尾を切り落とした。

 そのまま地面に落下したヴィセが蛇の頭を潰すと、体から既に切り離されているにも関わらず、魔獣はより一層大きな声で咆哮した。

 ようやく扉の前から離れた魔獣の瞳には、門番と悪魔の姿がくっきりと映っていた。


「さて、あとは左後ろ足の甲と、鳩尾、そして眉間に一つずつ。やれるかい?」


「はい、弱点が分かればこちらのものですから。」


 二人は各々武器を構えると、目の前の魔獣に切り掛かった。

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