竜也編
竜也編①
——僕はこの先どう生きたらいいんだろう。
期待されない僕なんて、死んでよかったとさえ思ってしまう。
昼下がり、天界にある小さな事務所には、三人の姿があった。一人はキャラメル色の髪の毛に黒縁の四角い眼鏡をかけた青年。彼は白い軍服のような制服を着て黒いソファに腰掛けている。もう一人、青年の机を挟んで座る学ランを着た背の高い少年は、ずっと俯いている。部屋の隅のコンロでお湯を沸かすピンク色の髪と頭に生えた二本のツノが特徴的な女性も、メガネの青年と似たような服を着ている。冷蔵庫や電子レンジ、ファックス、テレビなどの電化製品が所狭しと並ぶ七畳半の部屋では三人もいると少し窮屈だ。
「で、生きていてもいいことないから死にたいと。」
「はい……。」
メガネの青年——冷月は大きな溜息を吐いた。溶けるようにソファの背もたれに体を預けると、揺れた肩章のフリンジがキラリと反射した。対する学ランの少年——竜也は申し訳なさそうに顔をしかめて、膝の上に置いてある拳をきゅっと握る。
「あんた担当が男子だと態度悪いのね。」
トレーに淹れたての紅茶を三つ乗せたピンク髪の桃子がやってくる。カップに注がれた琥珀色からは、華やかな桃の香りが漂う。
「違ッ、みんな平等に扱ってるって。でも、こいつナヨナヨしてるし。男ならもっと男らしくだな。」
言いながら竜也を指差すと流れるように腕を組み、瞼の下に下半月を作った。
「確かに女々しいのは私も嫌いだけど。」
桃子は目線を紅茶に向けたまましゃがみ、それをトレーから机に並べると、冷月の隣に座った。
「嫌いって……。お前もっと言葉選べよ。」
「あんたは態度を改めるべき。」
冷月と桃子のやりとりを聞きながら、竜也は自分が死のうとしたときのことを思い出していた。
* * *
「竜樹はすごいわね!! 竜也とは大違い!!」
午後六時。リビングで響く母親の声は嬉々としていた。制服姿でまだ鞄を背負ったままの竜也は、なんとなくリビングの扉を開けたくなくてそのまま自分の部屋に篭った。食欲も湧かず、このまま寝てしまおうかとベッドに横たわると、
『メシ、いらないの?』
リビングにいた兄の竜樹からLINEがきた。竜也はなぜ帰宅したことがわかったのだろうと疑問を浮かべるも、いちいち聞く気も起こらず赤いバッジのついたメッセージアプリのアイコンをタップした。
『いらない。今日は寝る。』
竜也の文字を打ち込むスピードは光のように速く、確認もせずメッセージを送信するとすぐにスリープボタンを押した。
その後二、三度通知が鳴ったが竜也は枕に顔を埋め、見向きもしなかった。
できる兄、できない弟。そのレッテルは両親から貼られたものだった。成績優秀、運動神経抜群、そして性格のいい竜樹は、友達も多く周りの大人たちからの評価も良かった。対して竜也は成績も平均以下、運動はどちらかといえば苦手で、はつらつとした性格でもないため友達も少なかった。小学生の頃から続けていたサッカーも、兄との力量の差は歴然だった。クラブチームのエースとして活躍する兄とは対照的に、ある日を境に万年補欠になった竜也はサッカーコートに入ることも躊躇うくらいに、劣等感が心を蝕んでいた。
そんな竜也が死にたいと思ったのは、中学二年生の時、竜樹の大学進学が決まった時だ。高校の推薦で国公立に受かったと報せが来た日の夜は、誕生日にすら出てこないような豪勢な料理が並んだ。
ただぼんやりとした不安。自分はそんなにすごくない、兄のようにはなれない。考え出すとこの先の未来が暗くて仕方がなかった。
「死のう。」
そう思い立って、次の日「いってきます。」と返事の返ってこない挨拶をして家を出た。鉄の靴を履いているように重い足取りでホームに続く階段を登る。いつも乗る電車の黄色い線を越えてみても、
「あっ。」
いざ目の前にしてみるとその先を踏み出すことはできなかった。
「死ぬ勇気さえ、僕にはないのか。」
その場に膝をついて泣き崩れた竜也に声をかける人はいなかった。
* * *
「なんだよ、現代の日本人病んでないか? もっと生きたいと思えよ。」
桃子との口論は終わったのか、冷月は竜也に向き合う。
「でも、家族のためでもあるから。兄さえいれば僕はいなくたって、いや、いない方が。お金もかからないし。」
最後の方はよく聞き取れないほど自信のない小さな声だった。
「あのなぁ、人を養ったことない奴がお金の話するなよ。それを死にたい理由にしたいだけだろ。」
「まあ、でも話を聞く限り、別にあなたの家族は嫌ってるようには思えないけれど。ちょっと比較しただけじゃない。」
竜也は二人に否定された気がして少し胸がちくりとした。それが正論であるゆえ、言葉を返すこともできなかった。
「……全て、だから。」
絞り出した声は生活音に紛れて消えてしまうほど細かった。
少しの沈黙が流れたあと、
「居場所は自分で作るもんだろ。」
冷月は先ほどの気怠げな態度から、体を前のめりにして竜也に向き合った。
「家族なんて切っても切り離せないんだから、それなら折り合いつけて、自分で居心地のいい環境作るしかないだろ。」
先ほどとは違う真剣な眼差しを向けられた竜也は思わず唾を飲んだ。
「でも、どうやって。」
この環境が変わる方法があるなら、聞いてみたい。竜也は答えを求めて青空が閉じ込められているような冷月の瞳を見つめた。
「それは自分で考えろ。」
「え、教えないの?」
横で紅茶を飲んでいた桃子が驚いてティーカップから口を離した。驚いた勢いでソーサーとカップがガチャリと音を立てた。
「だって絶対言っても否定から入りそうだし。」
救いたいのか救いたくないのかよくわからない態度に桃子はため息を吐いた。
「すんません、困らせてばっかりで。」
竜也の自虐癖や自己肯定感の低さは、生まれつきではなかった。浄玻璃の鏡で竜也の過去を見た冷月も桃子もそれを知っている。
「別に困ってねぇよ、仕事だし。」
冷月は桃子の淹れた紅茶を飲み干すと、
「んじゃ、行きますか。」
冷月は立ち上がって、出口へ向かった。両手を高く上げて伸びをすると、気を引き締めるように背筋を伸ばした。
「どこに?」
竜也は歩いて行く冷月を目で追った。初めての場所に連れてこられた不安より、何が起きるんだろうという胸の高鳴りで鼓動が早くなるのを感じた。
「竜也の考えを改められそうな場所。」
冷月は振り返って悪戯っぽく笑った。
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