純連編⑩ 明るい未来

「あの、桃子さん。」

 

「なに?」

 

 七畳半の厚生課の事務所には、低めに設置されたテーブルと、それを挟むように置かれたソファが二つ。他には灰色の事務机や冷蔵庫、そこから茶色い扉が出入り口を含めて四つ取り付けてある。

 事務所にしては寝泊まりできそうな部屋だった。

 足を組んでソファに座る桃子と立ったまま話を切り出す純蓮の間に緊張が走る。純蓮は大きく深呼吸をすると、

 

「ありがとうございました。」


 腰を九十度に曲げ、深々と頭を下げた。

 予想外の言葉に桃子は口をつけようとしたティーカップから、顔を上げた。そんな桃子を見向きもせず、純蓮は続ける。

 

「私、桃子さんの言葉で色々気づかされたんです。なかなか周りでそういうことを叱ってくれる人っていなかったので、本当に助かりました!」

 

「え、私は別に……。」


 純蓮の激変ぶりに、桃子はただ茫然として言葉を紡いだ。組んでいた足も解いて、自然と姿勢も伸びた。

 

「桃子さんにどうしてもお礼が言いたかったんです。」


 誰かに感謝されるような経験なんて、少なくとも厚生課に配属されてからはなかった。棘のある性格だと自負している分、わざと冷たい態度をとってしまう。不器用な桃子は、最後まで嫌われ役を買うことに慣れていた。

 今回も、純蓮のような控えめな性格の人間とは総じて相性が悪いため、自分の知らないところで冷月が勝手に解決しているのだろうと、事務所の扉を開けて帰ってくるのもメガネをかけた彼一人だと予想していた。

 

「そう。」

 

 純蓮から目線を逸らす桃子だが、尖った耳の先がほんのり赤い。慣れない感謝に背中がむずむずと痒くなるのを感じた。

 そして、おもむろに応接テーブルにあるガラスの灰皿を手に取ると、事務机に向かって投げた。灰皿はゴッという鈍い音を立てて転がった。そこから短い呻き声と共に白い影が倒れた。


「いっっってぇ。」


 頭をさする人影は、二人がよく知る人物だった。

 

「冷月さん⁉︎」

 

「あんたどっから入ってきたの。盗み聞きとか、悪趣味にも程があるわよ。」

 

「窓からこっそり。だって、心配で。桃子意地悪だから純蓮の事許さないんじゃないかと思って。」

 

 桃子はもう一撃喰らわせたい気持ちを必死に抑えた。震える拳を膝の上に置くと、

 

「私の方こそ、感情的になって悪かったわね。」

 

「え?」

 

「うお! 桃子が謝った! 明日槍でも振るんじゃないか——」

 

 結局抑えられなかった右拳が冷月の左頬にめり込んだ。


 * * *


「おはよう、ございます。」

 

 クラスメイトたちの視線は、入院する前と大差ないように思われた。冷たくて、痛くて、ゴミを見る目。しかし純蓮には、視線なんてどうでもいいように思えた。なぜだかわからないが、少しだけ自信があった。自分の席に着くと、隣に座る女子生徒に声をかける。

 

「ごめん、私入院してたから、その間のノート、写させて欲しいんだけど、いい、かな?」

 

 恐る恐る聞く様子は、まだ心に不安を残しながらも、はっきりとした自分の意思を伝えたい気持ちが込められている。

 

「いいけど……。頭大丈夫?」

 

「ひょ⁉︎」

 

 唐突な悪口に脳がフリーズする。今までで一番目を見開いたかもしれない。思わず何かを構えるように手刀を作った。

 

「あっごめんそういう意味じゃなくて! 結構大きな事故だったって聞いたから、心配で……。」

 

「ああ、そういう。」

 

 勘違いが解けて構えを解くと、

 

「ふっ。」

 

 先に笑ったのは向こうだった。

 

「考えたら頭大丈夫ってめっちゃ失礼だね。ごめんね。はい、これノート。」

 

 水色のキャンパスノートには「諏訪実乃梨」と書かれていた。


「ありがとう諏訪さん。」

 

「実乃梨でいいよー。純蓮ちゃんって呼んでいい? 馴れ馴れしいかな。」

 

「ううん、名前で呼んで欲しい! 私も実乃梨ちゃんって呼ぶね。」

 

「おっけ! いやさー私も人見知りだから、話しかけてくれて嬉しかったよ。」

 

 半年ほど同じクラスのはずなのに実乃梨のことは何も知らなかった。おとなしい優等生だと思っていた。

 純蓮は事故に遭う前なら考えられないほど早く実乃梨と打ち解けた。

 

「同じクラスになって話したことなかったけど、なんか雰囲気変わった? 前まで近寄らないでくださいってオーラが出てたけど、明るくなった? いや、私が純蓮ちゃんのこと知らなかっただけか。」

 

「変わった、と思う。自分に正直になった方がいいって言われたから。」

 

「へー誰に?」

 

「えっと……誰だっけ?」


 あやめにそんなことを言われた記憶はないし、言いそうなタイプではない。純蓮は必死に思い出そうと頭を悩ませるが、心当たりのある人物は思い浮かばなかった。

 

「えー覚えてないの?」

 

 目尻を下げた優しい顔だった。あやめとはまたちょっと違うなと感じた。

 

「夢で言われたのかな。」

 

「あー夢だとぼんやりするわ。でもさ、たとえ夢だとしても変わろうとしたのは純蓮ちゃんの意思だよ! 私も見習わなきゃな。実はずっとお兄ちゃんと喧嘩してて、もう三日も口聞いてなくてさ——」


 * * *


 鏡越しに純蓮の様子を見ていた冷月は、天界にある役所の小さな事務室で、そのやりとりを見て微笑んだ。

 

「なにニヤついてんのよきっしょい。」

 

「いーやなに、また人助けしちゃったなと。」

 

「それが仕事だから。まあでも良かったわね。厚生課存続だって。」

 

 冷月に目もくれず、頬杖をつきながら桃子は透き通った琥珀色の紅茶に砂糖を入れる。

 

「あっぶなかったわー、今度こそダメかと思った。」

 

 冷月は伸びをしたままソファに横になる。その反動で眼鏡がずれた。


「帰り、だいぶ遅かったけど何かあったの?」


「ん? 色々あったぞ。」


 そこで桃子は初めて悪魔と戦ったことや、純蓮を彼女の親友と会わせたことを知った。あとのことは冷月に任せっきりだったが、自分も同行すれば良かったかと、少しだけ後悔した。


「なんか、あのいけすかない先生、流石に災難ね。」


「なー。でも最後以外はずっと意識あったっぽいから、入り込んだ悪魔が低級なのは事実なんかも。」


 冷月の話によると、先生は最後に純蓮と会ったことは覚えていないようだった。買ったコロッケは全て食べていたそうだ。しかしその状況すら喜んでいるようで、新作のネタが思いついたと、結果喜んでいたようだった。

  

「……それにしても純蓮あの子をよく説得できたわね。」

 

「まあ色々あったけどなぁ。彼女の胸の奥に眠る本心をちょいと刺激しただけだよ。」

 

「そんなこと、あんたにできんの?」

 

「ああ、少なくとも桃子よりは上手だと思うぞ。……ついに無視ですか。」

 

「いやもう返事するのもめんどくさいわ。聞いたの私だけど。」

 

 冷月と桃子しかいない部屋に、ピピピ、と軽い電子音が合図のように鳴った。

 

「なにこれ?」

 

 ファックスから送られてきた紙を目の前に掲げた側から冷月が奪っていく。

 

「新しい依頼。」

 

「え、早くない? スパン短すぎるんですけど。」

 

「それだけ期待されてるってことだろう? 腕がなるな。」

 

 肩を回しながら事務室を出ていく冷月に続いて、慌てて桃子も立ち上がる。たまたま目に入った応接テーブルの上には先ほどまでにやにやと冷月が見つめていた手鏡が置いてあった。

 

「あれだけ胸張って出て行ったくせに、なに忘れてんのよポンコツ。」

 

 桃子は急いで身支度を整えると、ポンコツが忘れていった手鏡を拾った。そこには今も純蓮が朗らかに笑う様子が映し出されている。

 愚痴をこぼしてばかりだが、この仕事も悪くないと思う桃子だった。

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