純連編⑧ 自分の気持ち
「なんて話せばいいんだろう。」
息巻いたものの、あれだけ拒絶した相手にどう話しかけたらいいかわからず、純蓮は商店街を
そもそも、冷月が未だに同じ場所で純蓮のことを待っているとも限らない。なんなら、その可能性の方が低いように思えた。
「はぁ。」と、大きなため息を吐いた純蓮は肩を落とした。
「やあ、また会ったね。儚いお嬢さん。」
不意に後ろから声をかけられて、体が一瞬こわばった。
「あ。」
振り返ると、カニクリームコロッケを大量に買っていった作家先生が立っていた。購入した際に手に提げていた袋は見当たらなかった。
「さっきはひどく泣いていたけれど、もう平気みたいだね。」
「は、はい。え、泣いて?」
純蓮は自分の行動を順を追って思い出すが、作家先生に涙は見せていないはずだった。
「ものすごい勢いで駆けて行ったから。怪我はなかったかい?」
そこでやっと桃子と会う前にぶつかった通行人だとわかった。まさか同一人物だとは毛ほども思わなかった。
「あ、はい、今はもう……。」
「死のうとしてたの?」
純蓮の言葉を切るように、淡々と先生は質問する。表情は変えないまま。
「えっと。」
そんな話を厚生課の二人以外にはしたことがなかった。し、あんまり言いふらすものでもない気がした。正直この気持ちはそっとしまっておきたかった。これ以上他の人にバレるのは忍びなかった。作家先生は「思い詰めたような顔をしていたから。」と、補足した。
純蓮は今までの自分を振り返った。死のうとはしていた。というより、生きる希望を見出せないせいで、死ぬという選択しかないと思っていた。しかし、桃子の話を聞いたり、冷月が真剣に向き合ってくれていたことを自覚すると、もうそんなことは言えないような気がした。
「でも、もう、たぶん、平気なので。」
「そう。」
「……あ、あの、私そろそろ行きます、ね。」
なんとなく沈黙が続く予感のした純蓮は、その場を後にしようと一歩踏み出した。
「本当に、もう平気なのかい?」
含みのある言い方だった。そう聞かれると、何かまだやり残したことや忘れていることがあるのではないかと、進もうとする足が止まった。
「まだ心残りがあるんじゃない? たとえば……友達のこととか。」
「……。」
純蓮にとっての友達はあやめ一人しかいなかった。コミュニケーション云々の問題が解決したところで、あやめに対する後悔や罪悪感が消えることはない。
「君の友達は、本当に君のこと友達って思ってたのかな。」
純蓮は先生が少し怖くなった。自分の何を知っていて、誰なのか。何一つわからないのに、純蓮の記憶を全て知っているような態度が不安を煽った。
「君がそう思いたいだけなんじゃない?」
胸騒ぎを増長させるようにあたりに風が吹いた。最初に会った際の先生と雰囲気が少し違う気がした。
「彼女には、君と違って、明日なんて来ないのにね。」
純蓮の中で何かが壊れる音がした。ガラスでできた愛しい思い出たちに、ヒビが入って粉々に砕けた。
ただ脳内には、あやめが死んだときの空と、大衆と、前方がひしゃげたボックス車と、その影から覗いた細腕が映し出されている。
だんだんと思い出して、純蓮の呼吸が浅くなった。
「やっぱり、私のせい……?」
力が抜けるように純蓮は膝をついて項垂れた。枯れたと思った涙は、新しい悲しみを背負って目から溢れた。
「やっぱり死んだ方がいいんじゃない?」
肩を並べるように純蓮の隣に先生はしゃがんだ。こんなに砕けた言い方だったろうか。
「なんなら、僕が手伝ってあげようか。」
青年の手が純蓮に触れようとした瞬間、
「純蓮!」
思わず顔をあげた。数メートル先に純蓮の探していた人物が手を振っていた。
「冷月……さん。」
「おや。」
先生はゆっくりと立ち上がると、やれやれと頭を掻いた。
「あ、先生まだこっちにいたのかよ。」
冷月は純蓮の元まで駆けてくると、先生に一礼した。先生は微笑を浮かべながら冷月に「やあ。」と声をかけた。
「ごめん純蓮。俺ちょっと無神経だったわ。もう大丈夫か?」
先ほども作家先生に同じようなことを言われた。みんな純蓮心配してくれている嬉しさと、少しの申し訳なさを感じた。ただ——。
作家先生をチラリと見やると、朗らかな顔をしていた。目が合うとにこりと純蓮に微笑みかけた。
「あれ? 元気ない?」
「やっぱり、私が、殺したんですかね。」
——あ。こんなことを言いたかったわけじゃないのに。
これじゃあまだ冷月に怒っているみたいだった。
また心臓がキュッと締め付けられるような感覚がして、胸に手を当てた。ホロリと、一筋涙が流れた。
「純蓮……?」
そして、涙とは別に黒い感情が抑えられなくなる。ぼやける視界の端に、制服の紺とは違う黒い影が映った。
「え?」
目を擦っていた手を退け、純蓮は瞬きをして影の正体を探すと、純蓮の胸の辺り、ちょうど赤いリボンが結ばれている部分から黒い霧が滲み出ていた。
「なに、これ。」
呟いたところで、先ほど目にした妖異が纏っていた
助けを求めるように冷月に視線を向けると、驚いた顔をしていた。
「あはは。」
こうなれば笑うしかなかった。最低だ、と思った。堕ち切った純蓮の心には、冷月に当たることしかできなかった。
「……殺せばいいじゃん。」
「……。」
冷月の反応を伺ってみるが、ただ、黙っているだけだった。しかし、焦る様子もなく、ただ少しだけ悲しそうな表情で、純蓮から視線を外さないでいた。驚くほど落ち着いた様子に、彼女はもっと言葉をぶつけたくなった。
「ここにだって居場所なんかないから、さっきみたいに、刀、抜けばいいじゃん。ねぇ、はやく!」
それ以上は言葉を出せないくらいに、嗚咽が混じった泣き声しか発することができなかった。抑えようにも、自分の意思とは関係なく痙攣する横隔膜が、それを許してくれなかった。
冷月はゆっくりと純蓮に向き合った。最初からそうしてくれたら良かったんだ、自分なんてもっと早いうちに死ぬべきだったんだ。純蓮はどこか言い訳をするように死を願い望んだ。妖異が襲ってきたときのように、桃子に怒られたときのように、キュッと肩に力を入れる。自暴自棄になった純蓮は、何を言われても、どんな痛みにも耐えられる自信があった。
「気は済んだか?」
しかし、冷月のかける言葉はどこまでも温かくて、優しかった。初めて会ったときのように、純蓮に目線を合わせるようにしゃがんだ。
「なん、で、わたし。」
ようやく顔を上げると、先ほどの悲しそうな顔とはまた違う、柔らかい表情をしていた。青い瞳がどうにも綺麗で、純蓮の意識が冷月に傾いた。心なしか、純蓮から絶えず流れ続けていた黒い
「刀は抜かないし、純蓮を殺すこともない。だって、俺は更生課だぞ? 純蓮を必ず此岸に返すって約束したからな。」
純蓮の左頬に触れた冷月は、そのまま親指を動かして涙を拭った。細くて長くて綺麗な指だった。温かいその手に縋るように、純蓮は顔を傾けた。
純蓮の心が和らぐのを感じて、冷月は自分の膝を抱えるような姿勢を取った。安心したように目尻を下げると、静かに、けれども聞き取りやすい声でさらに声を掛ける。
「それに、死んだあやめが、純蓮に友達じゃない方がよかったなんて言ったのか?」
「それは。」
死んだ人間と話すことなんかできない。全て純蓮の妄想にすぎない。
「純蓮のせいで死んだって言ったのか?」
違う、けれども死ぬ原因を作ったのは私だ。事故の日からずっと後悔している。友達にならなければ死ぬことはなかったと、何度悔やんだかわからない。純蓮は罪悪感に押しつぶされ、眠れなかった日々を思い出した。
「そうだ、会いに行くか。」
京都に行くようなテンションで、ふと思いついたように提案した。
「……へ?」
「死んだんならこっちにいるだろう。あやめに直接聞いてみよう。」
待って、と、立ち上がって歩き出す冷月の足首を慌ててつかむ。レザー素材のブーツはつるりと滑りやすいが、逃さないように足首に両腕を回す。
「こんな私が会う資格なんてない、会わせる顔がないの。」
「でも、このままでいいのか? 変わるって決めたんじゃないのか?」
——だってそれは不可抗力だから、冷月たちの危機的状況を察して空気を読んだだけ。
そう返そうと思ったのに、一瞬
「自分の限界を自分で作んなよ。変わりたいって気持ちは嘘じゃないだろ?」
純蓮は何も言えなかった。あのとき、本当は何かが変わるような予感がしたときのことを思い出す。冷月が手を差し伸べたあの瞬間、変わりたいと思った。それは嘘なんかじゃなかった。
さらに桃子の話を聞いて、わだかまりが一つ減ったように、息がしやすくなった。もしかしたら自分もあんなふうになれると、少しだけ期待した。
ブーツを掴んでいた体から力が抜けた。重力が強くなったように感じて、腹部を地面につけた。制服が汚れることを気にする余裕はなかった。
「そりゃ、自分を変えろって言われて変えられる人間なんて少ないさ。特に日本人は普遍を好む傾向にある。他人に言われて自分を変えるなんて、俺でもできるかどうか。カッコつけるな、なんて言われたら生きていけないしな。」
もう死んでるけど。と、付け加えた冷月は自分でもおかしかったのか、吹き出していた。彼は立ったまま話を続ける。
「……でも、もしこのままじゃダメだと思ってるなら、もう少し自分に正直になってみてもいいんじゃないか。」
「正直に?」
ずっとずっと自分の気持ちに嘘をついてきた。本当はやりたくもないクラスの風紀委員も、日直がサボった黒板を消すのも、心では違うって思ってても言われるがままに噂を受け流した。大丈夫、平気、なんでもないと嘘をつく度に心が痛むのも、いつの間にかそういうものだと甘受して慣れてしまった。
「改めて聞くぞ。純蓮はどうしたい?」
——もう自分に嘘はつきたくない、苦しい思いはしたくない。
純蓮は地面に手をついてゆっくりと立ち上がった。いつの間にか、体から溢れていた影も消えている。
純蓮の肩に力が入っているのが冷月からも分かった。しかし、今回は怯えるでも耐えるでもなく、覚悟を決めたようにぎゅっと拳を握った。
「変わりたい……! 人と話せるようになりたい! 明るくなりたい! 自分を好きになりたい‼︎」
震えているが芯のある声だった。その言葉が聞きたかったと言わんばかりに冷月はニヤリと笑った。
「全部叶えよう。大丈夫、きっとできるさ。俺たち更生課がついてるしな。なんでも頼れ!」
今度は差し伸べられた冷月の右手を力強く掴もうと——
「そんなことできると思う?」
「え。」
ずっと様子を見守っていた先生が、ポツリと冷たい言葉を投げかけた。
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