純蓮編④

「うわー。こりゃ、派手にやったなぁ。」

 

 先に足を止めた冷月は、やれやれと頭を掻いた。そして、眉間に皺を寄せ、埃と煙の匂いを嗅ぎながら、どうしたものかと考えている。じっと瓦礫の山を眺めていた冷月は、急に顔つきを変えると、一目散に山へ駆けつけて行った。


「あいつ足はや。」


 遅れて到着した桃子も現場を目にして、うわっと声を漏らした。


「え、なに、あれ……。」

 

 一番最後にやってきた純蓮が驚いたのは、崩れた店でも、空高く立ち上る煙でもなかった。


 黒く大きな体、低く唸る声、足先から覗く白銀の爪。


「魔よ。魂が負の感情や欲に染まることで生まれるの。この世界じゃ、魂を宿す肉体がない分、此岸より魔が生まれやすいの。」


 彼女が目にしたのは、今まで見たことのない大きな獣だった。ほとんどが黒い霧に覆われているその体を、獣と判断したのは、そのシルエットがオオカミのようだったから。瓦礫の山に跨る四本の大きな足についた鋭い爪がギラリと輝いた。触るだけで怪我をしてしまいそうなくらい尖った爪を見て、背中に嫌な汗をかいた。

 襲われれば確実に殺される。本能がそう訴えかける。心臓は早鐘を打ち、危険信号を送るが、純蓮はそこから動くことができなかった。蛇に睨まれた蛙のように、敵から目を離せないでいた。


「……俺なんて、何やってもダメだな。死んでも上手くいかない。」


 純蓮の耳にはグルルルルと唸る獣の声の他に、住人たちの甲高い悲鳴の他に、もう一つ、トーンの違う男の声が聞こえてきた。

 よく見ると獣の傍らで膝をつき、肩を落とした人影が見える。

 

「商売なんてしなくたっていいのに、死んでもやりたかった夢を叶えたくて、店開いたらこれだよ……。なんで生きてても死んでても上手くいかないんだ。」

 

 獣から発せられる霧によって男の顔の表情まではわからないが、自嘲するような独白に、純蓮はなんだか悲しくなった。きっと彼もどこか寂しい顔をしているんじゃないかと、切なさを覚えた。


「みんなみんな、俺以外はなんで成功するんだ……。悔しい、羨ましい、妬ましい……‼︎」


 その瞬間、黒いもやを纏う獣が瓦礫を蹴って、純蓮の元へ一目散に駆け寄ってくる。

 

「やだ、こない、で!」


 純蓮は思わず目を背けた、次に来る痛みを想像して、拳にギュッと力を入れて、頭を守るように覆った。

 鋭い爪が体を刺す熱い痛みが

 

 ——来なかった。


「あれ?」


 目を開き、ゆっくり顔を上げると、


「なにしてんのよ、さっさと離れなさい。」


 純蓮の前には爪を金棒で食い止める桃子の姿があった。桃子の体の半分くらいある金棒は、持ち手が鮮やかなピンク色の布で巻かれていた。

 両者一歩も譲らぬ攻防に見惚れていた純蓮は、


「はやく!」


 桃子の怒号でやっと我に返った。

 獣に背を向けるように立ち上がり、転びそうになりながらも前へ前へと走った。


 ——かっこよかった、頼もしかった。純蓮は走りながらそんなことを考えていた。後ろからは爪と金棒がぶつかる金属音が聞こえる。肺に入ってくる空気の量が少なくなるのを感じて後ろを振り返ると、両者とも火花を散らしながら、お互いの攻撃を相殺させていた。

 スピードを緩め、息を整えながら野次馬たちに混ざると、離れた場所から様子を見守った。


————————————


 「——ああもう、邪魔。」


 桃子は魔獣の爪をかわしながら、舌打ちをした。鬼の身体能力は高く、体の半分ほどある鉄の棒さえ軽々と振り回せるが、相手もそれに匹敵する強靭な爪を持っている。いつもなら思い切り力を込めて一振りすれば、水気を失った泥人形のように簡単に崩れていくが、今回はなかなか魔獣の本体に当てることができず、短気な桃子は苛立っていた。

 おまけに、辺りにはまだ野次馬が大勢残っている。あまり武器を振り回しすぎると、関係のない人間を巻き込んでしまう。桃子は自他共に認める人間嫌いだが、わざわざ傷つけたいわけでもなかった。


「動きは速いし、爪は硬いし、周りも鬱陶しいし、なんなのよもう‼︎」


 この状況に不満しかない桃子は、駄々をこねる子供のように金棒を上下に振った。


「こうなったら、いっそのことみんな巻き込んで——」

 

「グオオオオオオオオオオオオオオオ。」


 禁断の最終手段を口にしかけたところで、突然の魔獣の咆哮に顔を上げた。


「は。」


 自分でもびっくりするくらい情けない声が出た。金棒を構えることすら忘れ、目の前の光景をただ呆然と見つめている。


「お待たせ。」


 先程まで対峙していた魔獣の頭は、一本の刀身によって貫かれていた。

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