純蓮編③ 妖異

 冷月に追いつくと、純蓮は肩で息をしながら上を見上げた。

 建物の窓ガラスは割れ、はりもズタズタに裂かれ地面に落ちていて半壊状態だった。真っ黒い外観の建物が他になかったためにギリギリ判断することができたその店は、来る途中に見た繁盛した店だった。先ほどまで列に並んで談笑していた人の姿はなく、逃げ惑う人の顔は恐怖に染まっていた。純蓮は思わず手で口を覆った。


「こりゃ、派手にやったなぁ。」

 

 純蓮の横で冷月はやれやれと頭を掻いた。眉間に皺を寄せ、どうしたものかと頭を悩ませている。じっと瓦礫の山を眺めていた冷月は、急に顔つきを変えると、一目散に駆けて行った。


「あ、ちょっと! 勝手な行動しないでよ。」


 冷月に桃子の呼びかけは届いていないようだった。

 煙の中に動く大きな影が一つ。

 

「え、なに、あれ……。」


 黒く大きな体、低く唸る声、足先から覗く白銀の爪。


「妖異よ。人の魂が負の感情や欲に染まることで生まれるの。肉体に魂が宿る此岸と違って、こっちじゃ魂を宿す肉体がない分、此岸より妖異が生まれやすいの。」


 純蓮が目にしたのは、今まで見たことのない大きな獣だった。ほとんどが黒い霧に覆われているその体を、獣と判断したのは、そのシルエットがオオカミのようだったから。瓦礫の山に跨る四本の大きな足についた鋭い爪がギラリと輝いた。触るだけで怪我をしてしまいそうなくらい尖った爪を見て、背中に嫌な汗をかいた。

 襲われれば確実に殺される。本能がそう訴えかける。心臓は早鐘を打ち、危険信号を送るが、純蓮はそこから動くことができなかった。蛇に睨まれた蛙のように、敵から目を離せないでいた。


「……俺なんて、何やってもダメだな。死んでも上手くいかない。」


 純蓮の耳にはグルルルルと唸る獣の声の他に、住人たちの甲高い悲鳴の他に、もう一つ、トーンの違う男の声が聞こえてきた。

 よく見ると獣の傍らで膝をつき、肩を落とした人影が見える。

 

「商売なんてしなくたっていいのに、死んでもやりたかった夢を叶えたくて、店開いたらこれだよ……。隣はあんなに繁盛してるってのによ。なんで生きてても死んでても上手くいかないんだ。」

 

 獣から発せられる霧によって男の顔の表情まではわからないが、自嘲するような独白に、純蓮はなんだか悲しくなった。きっと彼もどこか寂しい顔をしているんじゃないかと、切なさを覚えた。


「みんなみんな、俺以外はなんで成功するんだ……。悔しい、羨ましい、妬ましい……‼︎」


 その瞬間、黒いもやを纏う獣が瓦礫を蹴って、純蓮の元へ一目散に駆け寄ってくる。

 

「やだ、こない、で!」


 純蓮は思わず目を背けた、次に来る痛みを想像して、拳にギュッと力を入れて、頭を守るように覆った。右手に触れたヘアピンに願う。

 

「——助けて、あやめ。」


 脳裏に浮かんだのは親友の姿だった。彼女がいなければ自分は何もできないんだと、今まで何度も失望した。今回だって。

 体をこわばらせた純蓮に、鋭い爪が切り裂く熱い痛みが

 

 ……来なかった。


「あれ?」


 目を開き、ゆっくり顔を上げると、


「なにしてんのよ、さっさと離れなさい。」


 純蓮の前には爪を金棒で食い止める桃子の姿があった。桃子の体の半分くらいある金棒は、持ち手が鮮やかなピンク色の布で巻かれていた。

 両者一歩も譲らぬ攻防に見惚れていた純蓮は、


「はやく!」


 桃子の怒号でやっと我に返った。

 獣に背を向けるように立ち上がり、転びそうになりながらも前へ前へと走った。


 ——かっこよかった、頼もしかった。純蓮は走りながらそんなことを考えていた。後ろからは爪と金棒がぶつかる金属音が聞こえる。肺に入ってくる空気の量が少なくなるのを感じて後ろを振り返ると、両者とも火花を散らしながら、お互いの攻撃を相殺させていた。

 スピードを緩め、息を整えながら野次馬たちに混ざると、離れた場所から様子を見守った。


 * * *


「——ああもう、邪魔。」


 桃子は魔獣の爪をかわしながら、舌打ちをした。鬼の身体能力は高く、体の半分ほどある鉄の棒さえ軽々と振り回せるが、相手もそれに匹敵する強靭な爪を持っている。いつもなら思い切り力を込めて一振りすれば、水気を失った泥人形のように簡単に崩れていくが、今回はなかなか妖異の本体に当てることができず、短気な桃子は苛立っていた。

 おまけに、辺りにはまだ野次馬が大勢残っている。あまり武器を振り回しすぎると、関係のない人間を巻き込んでしまう。桃子は自他共に認める人間嫌いだが、わざわざ傷つけたいわけでもなかった。


「動きは速いし、爪は硬いし、周りも鬱陶しいし、なんなのよもう‼︎」


 この状況に不満しかない桃子は、駄々をこねる子供のように金棒を上下に振った。


「こうなったら、いっそのことみんな巻き込んで——」

 

「グオオオオオオオオオオオオオオオ。」


 禁断の最終手段を口にしかけたところで、突然の魔獣の咆哮に顔を上げた。


「は。」


 自分でもびっくりするくらい情けない声が出た。金棒を構えることすら忘れ、目の前の光景をただ呆然と見つめている。

 先程まで対峙していた妖異の頭は、一本の刀身によって貫かれていた。


「お待たせ。」


 その言葉を皮切りに、妖異はボロボロと崩れていった。眉間に刺さった刀身だけが、最後まで残る。

 黒い霧の向こうには、白い人影が立っていた。得意そうに笑う顔には、澄んだ青の瞳が輝いていた。


「あんた何して……。」


 よく見ると、冷月の片脇には一人の男性が抱えられていた。よく見るとその男性は、


「また死に損ねてしまったか。」


 先ほど桃子たちから去っていった作家先生だった。


「あ、もしかしてあんた……?」


「違う違う、先生は巻き込まれただけっぽい。崩れた店の隙間から、手が見えたから。」


 傍に抱えられた先生は、冷月に「立てるか?」と声をかけられて、ゆっくり地面に降ろされた。


「ふぅー、重かったー。」


 冷月はグイッと伸びをして、刀をしまった。しまった、というのは、特別収める鞘もなく、落ちた影に刀が吸い込まれるように消えたからだ。

 降ろされて呆けた顔をしている作家先生は、尻と手を地面についたままパチパチと二度瞬きをした。


「大丈夫、ですか……?」

 

 一部始終を見ていた野次馬たちと共に、純蓮が冷月たちに駆け寄る。


「おん、へーきへーき。びっくりさせてごめん。」


 冷月は申し訳なさそうに眉尻を下げると、手を合わせて純蓮に謝った。


「すごいぞ!」

「ねぇちゃんもカッコよかったぞ!」

「ヒーローだ!」


 純蓮の後ろにいた野次馬から、たくさんの賛辞を浴びて冷月は誇らしげな顔をした。口では「それほどでもー。」と言っているが、隠しきれない自尊心の高さから口角は上がりっぱなしだ。

 対して桃子は冷めた目をしている。それが当たり前だと言わんばかりに、どうも、と短く礼を返すだけだった。


 * * *


 ——いいな、こういう人たちはみんなに求められて、みんなに必要とされるんだ。

 歓声が響く中、純蓮は改めて自分の存在のちっぽけさに胸を締め付けられた。

 生きている世界が違う、観ている景色が違う。本来自分と関わることなんてなかったはずの人物たちの勇姿を見て、純蓮の心は離れていくばかりだった。


「羨ましい。」


 そう呟いた言葉は、喧騒にかき消され、誰に届くこともなかった。




 


 純蓮はしばらく項垂れて、冷月たちを見ることができないでいると、遠くの方から低い女性の声がした。


「はいはい、散った散った。業務を妨害するならみんな漏れなく地獄行きだからな。」


 その声を聞いて人だかりがだんだん小さくなっていく。


「では、僕もお暇するかね。」


 立ち上がった先生も喧騒に紛れていった。入れ替わるように、野次馬たちをかき分けて、だるそうに通りを歩いてくるシルエットが二つ、冷月たちに近づいた。

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