堕天使④



 ハルという名前が好きだ。


 どうしてって? だって、なにより響きが可愛いもの!

 ハル、はる、春――スプリング!

 『貼る』と『張る』は好きじゃないけど、【エス】のアタシらしい、【エスspring】の名前!


 それにケチをつける無粋な奴がいたら――ちょっと残念だけど、殺すしかない。

 アタシを愛さない世界タベモノに、価値イミなんてないから。


  ◇


「――あ、ここにいたんだネ!」


 しろいかみのおんなのこ――ハルは、宵闇の暗がりから現れた。


 月光を浴びて輪郭がほの白く光り輝いているが、雑木林の闇は、ひとたび影に踏み込めば月明かりを通さないほど濃い。闇と同じ色をした咲弥を見つけ出したのは、ひとえに【エス】として強化された視力あってこそだ。


「やっとアタシと姉妹シスターになってくれる覚悟が決まった?」


 ……そしてかの三条鷹虎も、曲がりなりにも姪の通告を信じて県境へと手を伸ばしている以上、海からほど遠いここには邪魔が入らない。


 ハルと咲弥は、一対一の二人だけの世界で対峙していた。


「うん。でもね……怖いの」

「怖い? そっか、人間辞めるんだもんネ。仕方ないかも」


 明日の天気はいくらでも変わるとでも言うふうに、ハルはフリルたっぷりの袖をはためかせ、ステップを踏む。


「でも【エス】は苦しくないし、痛みにも慣れる。病気もないし、怪我だって恐れる必要はない。人間じゃないから、嫌なことをぜーんぶ投げ出して逃げたってイイ。うるさい奴らは、みんな喋る肉でしかないし、食べても、千切っても、遊んでも許される」


 言葉は歌うように、祝うように。


「そして、アタシと姉妹シスターになれば、そんな最高の楽園セカイを共有できる」

「…………」

「喜びは無限で、悲しみは無縁。愛しさは絶対で、憎しみは絶無。イエス・キリストもブッダも、こんな幸福は味わえないわ。だって弟子はいるくせに、独りぼっちだったんだもの」


 不遜ふそんな豪語。

 しかし、咲弥は「そうかもね」と同意する。


「でしょ? だから一緒に――」

「でも、お断りだわ」


 だが、そこで同意は続かずに終わる。


「……どうして? 理由を聞かせて」

「ええ、いいわよ」


 眉山を怒らせるハルに向かって、咲弥の冷笑が突き刺さった。


「だって――

「……………………ハ?」


 思いがけない一言に、ハルの顔が引きつる。にもかかわらず、咲弥は傲岸ごうがん不遜ふそんにも、彼女――の秘密を暴き立てる。


「ハルって、ハロルドの愛称でしょう? アンタ、発音からどう見たって日本生まれ日本育ちじゃないし」

「そ、それだけで男扱いだなんて、心外だなぁ……。アタシは『ハル』って名前が可愛いから、気に入って使ってるだけで……」

「それだけじゃないわ。知らなかった? ホルモンバランスをいじくってごまかしたつもりだろうけど、男性のへそって女性よりウエストに近い位置にあるの」

「…………っ」


 矢継ぎ早な指摘に、ハルはたじろぐ。先程まで仲間だと思っていた少女が、ひと皮剥けば化け物で、埒外の本性が露わになったような恐怖。


 ……そう、恐怖だ。これまで生物としての絶対的な優位性を保っていたハルは、自身が暴かれることに恐怖を感じていた。

 苦痛も病魔もないと謳っておきながら、恐怖はないと囁かなかったツケが早々に回ってきたことを知らしめられる。


「まあ別に、なかみそとみがちょっと違ってても不思議じゃない。そのくらいでとやかく言うボクじゃないわ。でも、」


 咲弥はにんまりと春色の唇を歪めて、心の底から嘲り笑う。


?」

「――――――――、」

「そんな射精の快感に負けた変態女装野郎と姉妹シスターだなんて、笑い話にもほどがあるわ」


 ハルの『変質』は、至ってシンプル。強靭な身体能力と理想的な容姿の『全身変質』。

 そして、『病因』は――性別の二律背反。


 咲弥は分かりやすく低俗に煽ったが、そう単純な話ではないだろう。見た目よりも長い間、性別の不一致や、心と反する性欲に苦しんできたに違いない。


 それこそが、ハルの心のアキレス腱。

 その大切な箇所が、尊厳と共に音を立てて断ち切られる。


「お、前ェ――!!」


 瞬間、ハルの怒りが沸騰した。

 本物のけだものへと成り下がったハルが一陣の風となって疾駆し、咲弥へと飛びかかった。


 しかし、先んじて十分な距離を取っていた咲弥は、ひらりと後ずさって難を逃れる。憤怒の爪は、振り下ろされずに終わった。


「あら、残念ね」

「逃がすかッ!!」


 鞭のような力で振るわれるかいなは、けれども咲弥を捉えられない。

 ハルが怒りで我を忘れているというのはあるが、それでも咲弥の身のこなしは、以前のそれではなかった。


 咲弥の意志が固まったというのもあるだろう。それまで足枷となっていた憎悪が洗い流され、心が軽くなったというのも勿論。

 ……だが、それだけではない。

 元より、咲弥は【エス】の中でも屈指の身体能力を誇っている。並みいる難敵を一刀の下に討ち倒してきた実力は、伊達ではない。


 ――なかみそとみが食い違ったハル。

 ――なかみそとみが噛み合った咲弥。


 どちらに軍配が上がるかは、火を見るよりも明らかだった。


「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」

「ほざけ、ッあ――!?」


 ガキン!

 硬質な音が、ハルの華奢きゃしゃな足に牙を突き立てる。


「頭に血が上って、ツヤ消し程度じゃ見つけられなかったのね。大成功!」


 煙る銀のトラバサミ。

 外そうと躍起になるも、【エス】専用の特注品は、そうやすやすと抜け出せない。まさしく袋のネズミと化したハルに向けて、咲弥は反撃の狼煙のろしを上げる。


「どうだった? ボクの演技。【ギロチン】を辞めたら女優になれる?」

「三文芝居でのたまいやがる。蠟人形館ろうにんぎょうかんの方がお似合いだぞ」

「ならお嫁さんになって、永久就職でもしようかしら。ヤマトの、ね」

「寝言は寝て言え」


 物陰で状況の推移を見守っていた俺は、担いできていたスクールバッグを開ける。

 咲弥はそこから、同じく特注の処刑道具を引っ張り出した。


「なに……それェ……!?」

「見て分からない?」


 胸元を蹴り倒されたハルが見上げるのは、うなりを上げる駆動音。



 草薙さんが用意したのは、【エス】専用の小型チェーンソー。

 法外の代物だが、法外の代物の首を刎ねるには、十分剣呑な武器だった。


 ギラリ、と朱塗りストロベリーレッドのボディが怪しく月光を返す。


「――そして、アンタを殺す【ギロチン】よ!」


 咲弥はすべての元凶であるハルへ向けて、勢いよく刃を振り下ろした。


「嫌アアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 回転する鎖刃が、皮膚を切り裂き、肉をえぐる。絹を裂く悲鳴が、雑木林にこだました。


 いかに苦痛に慣れたと自慢する【エス】といえど、首から解体される艱難辛苦までは、夢にも思わなかったに違いない。


 死にたくない――その一心で、ハルも足掻あがく。

 しかし、どんなに死神の鎌を止めようとしても、指や手のひらでは刎ね飛ばされるだけだ。


「っ!」


 その弾け飛んだ一片が、咲弥の左目に当たる。


「咲、」

「大丈夫よ」


 強がるが、決して軽傷ではない。

 閉ざされた目蓋の隙間からは、痛ましい血が滴って見えた。


「死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! 死に、しにたくない! しにだくないいいいいいいいいいいいいいいい!!」

「そうやって、被害者達は必死に命乞いしたんじゃないの……!!」


 形勢逆転。


 呆気ないものだ、とも思う。

 正直言って、俺は成功するとは思っていなかった。


「私のお父さんも! お母さんも! みんなだって! 『死にたくない』『生きていたい』って思ってたから、【エス】になるほど苦しんでたんじゃないの!?」


 ……勝因はただ一つ。ハルが余裕にあぐらをかいていたことに他ならない。

 勘づかれるタイミングはいくらでもあった。咲弥の大根役者ぶりは言うに及ばず、その服装がなにより違和感を抱かせるものだったからだ。


 基本はメイド服と同じ、シニヨンに長髪をまとめた姿だが、服装に差異がある――ミニ丈のワンピース。クラシック贔屓びいきの草薙さんならば、絶対に用意しないものだった。


 このような服装になったのは、一つの理由に集約される――チェーンソーに巻き込まれないためだ。

 勿論、普段のセーラー服姿ではないことから、気づかれる可能性はいくらでもあった。咲弥を【エス】に感染させた時、下半身が扉で隠れるメイド服姿で車に乗っていたのを、目撃して追って来た可能性もあるだろう。それでも気づかれずに済んだのは、なにより己の絶対性を過信していたからだろう。


「これは【ギロチン】の正義としてじゃない――という復讐鬼として、アンタを殺す」

「が、ァ……ぐ……ェ……」


 絶対性は今や、砂上の楼閣ろうかくと化した。その結果が、骨を断つゴリゴリという怪音で奏でられる。


 ……そも、一度討伐に失敗した【ギロチン】が、そのまま手をこまねいているわけがない。

 弱い者は、相応に武装する。それが足りないならば、更に。嘘をつき、罠を張り、虎視眈々と準備をする。

 そんな当たり前の事実を、「人間ではないから」と忘れ去ったツケを、ハルは味わわされていた。


「クソ……クソクソクソクソ……! ころしてやる……殺す……!」


 ゴトリ、と最後の皮一枚を断ち切って、首が落ちる。


 呪いの捨て台詞を聞き届けながら、「殺すなら殺してみなさいよ」と咲弥は毒づき、念入りにハルの四肢を斬り落とす。最悪の場合、首を落としても動く危険性があると思われるからだ。


 だが、それも最後。

 花火のような血飛沫が散って、丁寧に解体された四肢がまとったドレスは台無しになる。闇を吸った鮮血は、チョコレートのように黒々としていた。


「せめて……」


 それが、末期まつごの怒りを招いたのだろう。


「せめて、お前だけでもおおおおおおおおおおおおおおおお――ッ!!」


 ハルは最後の力を振り絞り、首だけで飛びかかった。

 あまりの至近距離に、俺も間に割って入る暇もなく。


「しま――っ!」


 咲弥もチェーンソーで間合いを埋める間もなく、首を噛み千切ろうとした……その時だった。


「っ!?」


 カッ、と照らされたライトに目をつむる。

 目蓋一枚だけでは防ぎきれない煌々こうこうとした暴力の中、明らかな他者の介入を感じ取る。


「撃て!」


 放たれたのは、横からの一撃。

 パァンと乾いた音を立てて、こめかみからハルが射抜かれる。


 文明の利器に邪魔立てされ――今度こそ本当に、ハルは沈黙した。


 俺と咲弥の仇敵を討ち取ったという喜びよりも、闖入者ちんにゅうしゃの正体へと焦点が当たる。焦燥感に近い居心地の悪さに、俺は身震いをした。


「これは……」


 考えるまでもない。こんな夜遅く、不法投棄すらやってこない県境の雑木林に現れる人影など、誰なのか決まっているも同然だった。


「まったく……二手に分かれ、こちらに来たのは正解ビンゴだったか」


 ――三条鷹虎。

 スーツに髪を撫でつけた、理性はがねの化身がそこにいた。


 草薙さんの考えなど、若造の浅知恵でしかなかったのか……いや、こうして雌雄を決するだけの時間稼ぎにはなった。

 そもそも、最終的に三条の手の者に追いつかれるのは予想の範疇はんちゅうであり、どのみち俺達に逃げ場などなかったのだ。


「…………」


 これから俺達は、規則に則って裁かれ、処遇が決められるだろう。

 俺は職を失うだけで済むだろうが、【エス】との濃厚接触があった咲弥はどうなるか分からない。


 ……最悪の場合、秘密裏に処理ころされるかもしれない。


「お父さん……お母さん……」


 それでも、やるべきことは果たしたと、咲弥は大事を取ってポケットにしまっておいたあかいリボンの髪飾りを胸に寄せ、万感の思いを込めてぎゅっと抱き締める。


「私ね……やったよ……っ……」


 ここからいくらでも、最悪バッドエンドに転がる可能性があるだろう。それは先に述べたとおりだ。


 けれども、敬虔けいけんな祈りのような――母親に抱かれる子供のような顔をした咲弥あいつの顔を見てしまっては、後先考えるのは野暮だと思う。


「美月……」


 いつか見た、恋人の笑顔を思い起こす。

 似ても似つかない咲弥の表情は、けれどもやっと、美月のごく普通の笑顔を思い出せるキッカケをくれた……今のところは、それだけで十分だろう。


「ねえ、ヤマト」

「なんだよ」

「あのハルとかいう【エス】、火葬場で処分できなかったら……どうなると思う?」

「この期に及んで、不吉なこと言うなよ……」


 ――そうして、俺と咲弥は三条によって確保された。


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