堕天使②



 ――鬼頭咲弥は、夢の淵で揺蕩たゆっていた。

 現実と記憶の狭間。浮かび上がっては消えていく泡沫うたかたは、これまで殺してきた【エス】達の形をしていた。


『お前は生きていてはいけない』

『お前は生きていてはいけない』

『お前は生きていてはいけない』


 麟堂義行、来栖五百奈、御園枝郎……だけではない。


『お前は生きていてはいけない』

『お前は生きていてはいけない』

『お前は生きていてはいけない』


 両親である鬼頭嶽士と鬼頭好乃、大和の彼女だった鳳美月……現在に至るまでに伸びた過去の幻影が、咲弥をさいなむ。


『お前は生きていてはいけない』

『お前は生きていてはいけない』

『お前は生きていてはいけない』

「お父さん……お母さん……鳳美月、さん……っ……」


 彼らだけではない。顔も知らない御園幹也や遠野綿花までもが、あやふやな姿で追い詰めていく。ぞろぞろと人山を築いた影に、思いがけず圧死しそうだった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 単なる自己嫌悪に留まらない罪悪感。

 「両親が殺されたのは、正しいことを成したがゆえなのだ」「だから自分は人を食らっても同じ怪物などではない」と、半ば信仰のつもりですがり続けた、血染めの十字架。その致死量の重さに、剥き出しの咲弥は圧し潰されようとしていた。


「分かってる……分かってるよ。が生きていていいはずがない、って」


 鼓動を止めれば、楽になれる。そんなことは、赤ん坊でも知っている――でも、できない。それは何故か?


「こ、怖い、よぉ……!」


 死ぬのが怖い。絶命への恐怖。

 両親から噴き出した、あか鉄錆てつさび臭さ。弾けた肉片。骨の砕ける音。

 くさびとして、心にい留められたトラウマ。


『――なら、死ななければイイわ』


 絡みついてくる濁白の誘惑は、ねっとりとした蜘蛛の糸に似ていた。蜜のようにとろける蠱惑こわく的な響きは、抗いがたい誘惑を帯びている。


『英雄にならなくても、怪物になれば、罪なんてあってないようなモノ。罪は人が決めた、自分勝手な基準なのだから』


 しろいかみのおんなのこ――ハルの可憐な声が、咲弥を頭の芯から揺るがす。


『……ほら、言うでしょ? 十人殺せば殺人鬼でも、百人殺せば英雄って。なら、怪物なら千人殺したって構わない。だって怪物なんだもの。食べたパンを数える人がいないのと同じだわ』


 「そのとおりだ」――と、弱りきった心は救いを求めて屈する。毒を持って毒を制するならば、図らずとも人を食らっていた自分の心根が最初から【エス】と同じだったと思うのは、自然な道理だ。そもそも、人は人を殺し続けられるほど、屈強に設計されていない。


 とうの昔に――鬼頭咲弥は限界を迎えていた。


『お腹は減ってない?』

「……空腹すぎて、死にそうなくらい」

『それは大変! じゃあ、早くなにか口に入れないと』


 それが悪魔の囁きだとしても、砂漠のオアシスに辿り着いた人間が泉の水を飲まずにはいられないように――咲弥は声に従って、目を覚ました。

 クローゼットから這い出て、防音室の鍵を開ける。


『運がいいわネ。アレなんて、丁度良くお腹こころを満たせるんじゃないかしら?』

「そうね……そうかもしれない……」


 事務所には、男が一人。

 平均的な短い黒髪に、十把じっぱ一絡ひとからげに作られたであろう眼鏡。普遍的な身長の、中肉中背。容姿にも特筆すべきことはない。一般な成人男性の象徴シンボル大量生産品スーツの上から白衣を身にまとい、なにやら安穏と過ごしている。


「食べて、しまおう」


 ――丁度いい。丸腰だ。

 あの隙だらけな首筋に歯を突き立ててあかを啜り、肉を食めば、この空腹も少しは膨れて――――。


「起きたか」

「?」

「ほれ、メシ」


 呆れるほど当たり前に、なんでもないふうに差し出してきたのは、ほっこりとしたミルク粥だった。


「食えよ。腹減ってんだろ」

「なんで……」

「は?」

「なんで殺さないの。を」


 ずっと疑問だった。【ギロチン】の仕事には、常に危険が伴う。それにかこつけて事故にしてしまえば、命を奪える機会はいくらでもあった。


 勿論、見殺しは寝覚めが悪いだろう。

 だとしても、かばわなくてもいい時にまで飛び込んでくる様はずっと、咲弥が抱く最大の疑問だった。

 男は咲弥を、真っ直ぐに見据える。


「殺してやるよ。いつだってな」

「なら殺しなさいよ! アンタの彼女の首を刎ねたのは私! 私なのよ! 『とっくに殺意は消えた』なんて言わせない! 私は愚かな人殺しなのよ!」

「なんだ、お前、殺されてぇのか」

「そうよ、臆病者!! さっさと殺しなさいよッ!!」

「嫌だね」


 そう、男は歌うようにうそぶきながら。


「寝込みを襲うのは趣味じゃない。つーか、そんなヨタヨタの小娘なんざ、ほっといたって死ぬだろ。殺されるつもりなら、それ相応の状態になってもらわないとな」


 なんて、欺瞞ぎまん

 なんて、穏健。


「なによ、それ……っ……」


 けれども、ミルク粥を叩き落とさなかった――叩き落として言い返せるだけの精も根も尽き果てていたのが、咲弥の敗因だった。


「っ」


 袖にされた怒りそのままに、咲弥はミルク粥をかき込んだ。


「作ってくれたんだよ。俺が風邪引いた時に、美月がな」

「恋人を殺した相手にそんなもの作るとか、どうかしてるわよ、アンタ」

「どうかしてる奴のメシをかっ食らってる奴が、よく吠えやがる」


 熱い。けれど蜂蜜と卵、そしてお米のやわらかな甘みが、舌から体へ沁み渡っていく。

 厳しい苦行で衰弱した釈迦の身を癒し、悟りへと導いたのも、村娘・スジャータが差し出した乳粥だったという。そのことを知らずとも、枯れきった胃を満たすには十分だった。


「あは……あはははは! 馬っ鹿みたい……」


 殺すために生かすなどという、嘘八百。

 子供騙しだと理解していても、咲弥に生きる意味を与えるに足り得る。心の闇を払う、一条の光きぼうとなる。


 【エス】の化身として語りかけてきたハルの言い分は、もっともなものだと、咲弥は思う。しかし、あれは殺し続ける理由にはなっても、


 天秤が傾いたのは、ひとえに口の上手さがあったか否かだ――一番殺したいはずの人間が殺さずに、自分を待っている。咲弥には、これ以上の理由が思いつかなかった。


「アイツを――アイとかいう【エス】の親玉を、倒しましょう」


 口元をグッ、と力強く拭った咲弥が言う。


「ああ」

「それで……ボクが【エス】に成り果てた時は、ヤマトが首を刎ねてね」

「…………」

「約束よ」

「……ああ」


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