堕天使①



 三条肝入りの病院でも、無情に診断は下された――


「もっと警戒するべきだった……!」


 ダンっと大きな音を立てて、草薙さんが車椅子のひじ掛けに拳を打ちつける。


「君達が接触した旨を三条の家に伝えたが、それだけじゃ駄目だったんだ……特に姿を知られている君達に、もっと警戒するよう帯刀と危機管理を促しておくべきだったのに……!」

「やめましょう、草薙さん。たらればを話しても事実は覆らない。それより――あ、」


 事務所に鳴り響くのは、固定電話が発する無機質な着信音。


「あなたには、やってもらわなきゃならないことがあるんだ」

「……そうだね。へこたれてなんていられない」


 顔色は悪いまま、草薙さんは受話器を取る。


 ……草薙さんのVtuberとしての仕事は、基本的にメッセージアプリでやり取りをしている。基本的に受け取るのは、あの防音室のパソコンでだ。親しい相手ならば、スマホに連絡が来るだろう。

 それでも事務所に固定電話を置いているのは、【エス】絡みの依頼を受けるためだ。


 勘当した娘の個人的なスマホになど――連絡できるわけがないからだ。

 だから事務所への連絡、というていで三条から連絡が来る。


「……もしもし」


 角張った声が応じる。


『もしもし。お前か』

「――って、やっぱり聞きつけてきましたか。

『お前にそう呼ばれる筋合いはない』


 張り詰めた空気は静まり返り、受話器越しで小さなはずの相手の声ですら、大きく広がって聞こえるようだった。


 草薙さんが電話越しに話しているのは――三条さんじょう鷹虎たかとら

 我らが雇い主・草薙初音の叔父にして、俺を【ギロチン】にした張本人――そして、鬼頭咲弥の義父。


『咲弥をどこへやった』

「…………」

『お前が隠したんだろう。正直に白状しろ』


 三条の家が提供したマンションにも、咲弥は帰っていない。帰れるはずがない。

 帰ったが最後、捕捉されて俺以外の【ギロチン】が首を刎ねに来るからだ。死なずに済んでも、人権もへったくれもない、実験動物の仲間入りが関の山。

 だから、俺達は咲弥を隠匿したのだ。


『お前の家にもいないのは確認済みだ。両親が【エス】という異常犯罪者と化した咲弥に、頼れる親族はいない。それは三条の家もそうだ。だとすれば……、』


 娘を心配する父親としてではなく、まるで凶悪犯を追う刑事のような鋭さで、三条鷹虎は追及する。


『あの若造、巽大和の家か』

「…………」


 草薙さんは答えない。

 代わりに発せられたのは、人間らしい反論だった。


「貴方にとって、一応は娘じゃないのか、あの子は」

『娘とて、【エス】には厳しく接しなければならない。さもなくば多くの死人が出るんだ。元よりあれは、人に似た人ならざる者だ。ゾンビ――フィクションのモンスターと変わらん。それを理解できないお前ではないだろう』

「そう、ですけど……」


 正論だ。だからこそ草薙さんも反論できない。けれどもそこに、人の親らしい人情はない。

 言葉を発することができない俺は、苦々しく歯噛みする。


『まあいい。いずれ【エス】としての本性が露わになれば、お前達も匿ってはいられまい。タイムリミットはそこまでだ』


 話は済んだとばかりに、草薙さんは一方的に電話を切られて終わった。


「はぁ……」

「対応、ありがとうございました」

「うん」


 いっとき、切り抜けたという安堵感が共有される。

 だが、あくまでほんのわずかな追及を逃れたというだけだ。決してこれからの安寧まで、約束してくれるものではない。


「隠し通すのも、そろそろ限界かな……」


 そうして、俺は咲弥のいる方へと目を向けた。


 咲弥がいるのは――


「みたいですね……」


 見つかるのも時間の問題だが、咲弥は【エス】よろしく暴れもしなければ、異常な食欲を見せることもなく、昏々こんこんと泥のように眠り続けていた。


 立って半畳、寝て一畳。物音一つしないい小さなクローゼットの中ゆえに、事務所をガサ入れに来た三条の目にも、まだ留まらずにいられた。

 「【エス】は獰猛なけだものそのものだ」という先入観が、咲弥を魔の手から救ってくれていた。


 見た目だけならば、眠れる森の美女のように可憐で幻想的だろう……生死の境を彷徨さまよっている現実を見なければ、だが。


「やっぱり、【エス】になってしまったんでしょうかね」

「分からない」


 まだ脈拍はある。あるからといって、安心はできない。今まさに止まっているとすれば……たらればの嫌な予想が脳裏を支配する。

 先程まで「たらればを話しても事実は覆らない」と言っていた口が、不安感で震える。


「……いや、この際だ。はっきり言おう」


 弱腰な俺を尻目に、草薙さんは意を決したように言う。


「まだ、五分五分だろう」

「五分五分……」

「他の感染症と同じさ。【エス】も感染したからといって、必ず発症するとは限らない。普通の感染症は体が負ければ発症して、【エス】は心が負ければ発症する」


 嫌な割合だ。希望も持てず、絶望もできない。

 どっちつかずのまま、見守っているしかない。


「咲弥ちゃんは今、戦っているんだ」

「戦ってる、か……」


 そう反芻はんすうして、俺は立ち上がった。


「キッチン、借りてもいいですか」


 エプロンは性に合わない。ならばと、仕事も手につかないと脱ぎ捨てていた白衣を羽織る。


「あいつ、起きたら腹減ってるだろうから。簡単なもの、作ってきますね」

「……ああ」


 草薙さんは、俺の愚行を看過してくれた。

 たとえなにもできないのだとしても、ただ立ち止まっているだけは嫌だった。俺の身勝手な我が儘だった。


 ――別に情があったわけじゃない。あんな奴、嫌い以外の感情はない。

 愛した人を殺した奴。憎むべき仇敵。

 既に憎悪と絶望は色せてしまったとしても、決して救う意志は生まれ得ない。


 ……けれども、

 適当な朝飯を作らない理由までには、至らなかった。


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