嵐の前の静けさ②



 もつ鍋は、大層美味だった。


「うま……っ!」


 奮発したらしい牛もつに独特の臭みはなく、ふわふわと口の中でとろけた。よく煮えたキャベツもとろけ、もやしとニラは煮すぎずシャキシャキの歯触り。豚骨ベースに味噌と一味唐辛子を加えたスープは濃厚で、〆の袋ラーメンまでおかわりしてしまったほどだ。サンドイッチだけでは相当空腹だったらしい。


「三十路って成長期なの?」

「うるせ。こんな上物の肉が食えるほど、高時給取りじゃねぇんだよ」

「えぇー、このくらい普通じゃない?」

「お嬢様にゃ分からんだろうがな」

「はいはい。喧嘩はそれくらいにしておいて、デザートにケーキも頼んでおいたから」

「それはちょっと食べすぎでは……?」


 もつ鍋にすりおろしたニンニクを追加していた草薙さんはけろりと笑う。俺に並ぶほど食べていたが、デザートは別腹らしかった。


「……そういえば大和くん、」


 それまで笑っていた草薙さんの表情が、ふとかげる。


「私が三条の家でなにを聞いてきたのか……知りたくはないのかい?」

「なんです、教えてくれるんですか?」

「それは……」


 明瞭に話していた草薙さんが、あからさまに口ごもる。


「言えない、ってわけじゃない。この場にいる二人が秘密にしてくれるなら、私だって特にお咎めを受けるわけじゃないしね」

「でも、言わないんですよね」

「…………」


 全幅の信頼を置いているわけではないが、草薙さんが教えるべき情報を教えないような、臆病風に吹かれた薄情者ではないことは、俺だって知っている。問いかけてほしそうなのは、抱え込んだ秘密が大きすぎていることの証左だろう。


「なら、聞きません」

「!」


 ……だが出歯亀をするほど、俺も考えなしの命知らずではない。

 首を突っ込むべき事柄、突っ込むべきではない事柄の道理は弁えている。


 それに考えるまでもなく――秘されている事柄は、十中八九、ハルに関することなのは薄々勘づいていた。


 どうして秘匿を選択されたのか、どういった事柄なのかまでは分からない。

 だが裏を返せば、それだけ大きな秘密であるだろうことは透けて見えるだろう。


 知るべき時に知るべき秘密……というものは、なんだかんだ多い。


「教えてくれる時まで、大人しく待ちますよ。俺も咲弥も、『待て』のできない猟犬じゃないんで」

「えー! ボクは今すぐにでも教えてほしいんだけど」

「……こいつは放っておいてください。勝手に目移りして飽きるんで。ケーキが来たらけろっと忘れますよ」

「ちゃんとその時が来たら、私か、三条の者が秘密を明かすだろう。それまでの辛抱だ」

「ぶー」


 ふくれっ面の咲弥はさておき、草薙さんが言葉に表して誓ってくれたのならば、その時は近い将来、訪れるのだろう。


「大和くん」

「ん、なんです?」

「……ありがとう」

「いーえ。『どういたしまして』って、言うほどのことでもないでしょう。……ああほら、ケーキ来たみたいなんで、気持ちも切り替えましょ」

「うん。そうだね」


 少し間が空き、もう一度ぴんぽーんとチャイムの音が鳴り響く。


「私は財布を持ってくるから、大和くんは先に応対をよろしく頼むよ」


 俺の促しが功を奏したのか、草薙さんは気持ちが切り替わって、すっかり表情が晴れやかになったようだった。


「咲弥ちゃんは切る用の包丁、既に用意してあるから持って来てくれ」


 咲弥も目の前に現れないと分かった秘密よりも、今皿の上に乗ろうとしているケーキの方を優先したらしく、元気よく「はーい!」と応じる。


 俺はといえば、いつもの分担をぼやけた頭でこなしつつ、果たしてケーキが入る胃の隙間が残されているのか自問自答しながら、ドアスコープを確認して玄関のドアを開いた。

 くたびれた様子のフードデリバリーの配達員は、どこか生気のない瞳をしていた。


「どうも、ありがとうござ――」

「ヤマト、避けてッ!」

「え?」


 平穏は、一瞬で塗り替わる。


「――なぁんだ。気づくの早すぎ」


 覚えのある聞きたくない声で、視界が恐怖と戦慄のモノトーンへと。

 俺の体がこわばったのを、相手が見逃すはずはなかった。


「がッ――!?」


 蹴り飛ばされて、いつかの藤原ふじわら紫貴しきの軌跡をなぞるがごとく、俺の体はソファの背を転がり、団欒の証だった鍋を滅茶苦茶にしながら、床に倒れ伏した。


 攪拌かくはんされた頭蓋の中にも響き渡る、草薙さんの悲鳴。無惨に落ちる眼鏡。


 その俺に目もくれず、咲弥が包丁片手に突撃するのが、ぼやけた視界の端に映った。


「ああああああああッ!!」


 しかし、たかが調理用の三徳包丁。

 死肉でできた化けの皮一枚を貫通することも叶わず、ぐちりと脂肪の嫌な音を立てる。


「『まだ今度ネ』って言ったでしょ? サクヤちゃん!」


 新鮮な死体をまとった『しろいかみのおんなのこ』――ハルはケタケタと笑う。


「急ぎすぎたところはあるケド、だって仕方ないじゃない。丁度よく可愛いメイドのサクヤちゃんを見つけて、追い駆けてきたんだから」

「忌々しいストーカー風情が……」

「失敬ナ! アタシのことは、これから『シスター』って呼んでほしいナ」

「アンタみたいな姉、見たことも聞いたこともないわよ!」

「血縁なんて、そんな無粋なものじゃないヨ。相思相愛で、運命の誓いを立てた、姉と妹シスター……そういうの、【エスsister】って言うんでしょ?」

「…………っ!」


 あまりにも一方的な言い分。そんなもののために、無関係だったフードデリバリーの配達員を殺して被ったというのか。

 努めて冷静にあろうとしなければ、頭に血が上りそうだ。


「アンタなんかと姉妹のちぎりなんて、するわけないじゃない。一昨日おととい来やがれっての」


 強気に言い返す咲弥。だがしかし、旗色はかんばしくない。手持ちの武器は包丁一つきり。それもハルが化けの皮を脱ぎ捨てて、床へと落ちて丸腰だ。


「イイじゃない、それでも。敵対する者同士が愛を育むなんて、素敵ロマンチック――」

「ぐッ!」

「――だと思わない?」


 包丁を拾い上げようとしていた咲弥の手が、ハルの厚底靴に踏み潰される。


「そんなにアタシの血が欲しいんだ……まるでアナタの方が【エス】みたいじゃない?」

「ああ、そうね! 全身が空っぽになるくらいにはブチ撒けてほしいくらい!」

「それはできないけど……イイわヨ?」

「は、」


 ぽかんと空いたその口にねじ込まれたのは――ハルの唇、そして舌。


「ん、むぅ!?」


 口腔こうくう内を蹂躙じゅうりんする深い深いキス。性交よりもなまめかしい少女達の口づけは、やがてあか色に変わった。

 ねっとりと合わさった唾液の銀色をけがす、血のあか


「は――――、」


 それは、【エス】であるハルからもたらされた、


 濃厚な接触と共に嚥下えんげさせられる、冒涜ぼうとくの色。

 草薙さんの二度目の悲鳴が、遠くに聞こえた。


 ……俺はなにもできずに、その地獄絵図を見ているしかなかった。


「あは、」


 咲弥が、【エス】に感染した。

 その事実に打ちのめされる。


「あはァはははははははははははははははは――っ!!」


 想い人と蜜月を果たしたハルは、まるで絶頂したかのように下品でみだらな哄笑を響かせ、秋風と共に窓から飛び立っていった。


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