第二章『幹と枝と怪物』

在りし日の思い出①



 今から四年前のこと……もう五年近くも前になる、俺の人生を一変させてしまった出来事。


 当時、俺はおおとり美月みづきという彼女と付き合っていた。


 大学時代に同じサークルだったのをキッカケに、卒業後も交流が続いたことで、付き合うことになった。暇な学生時分の関係がなあなあで続いていたわけではなかったのも功を奏してか、就職した後も交際は別段苦難を迎えることなく一年、また一年とつつがなく更新していった。

 それも、俺が円満でいられるよう努力していたというより、美月の性格あってことだったと思う。派手な美人ではなかったが、愛嬌があり、場を和ませてくれる存在だった。それが俺の抱いた、彼女への揺るぎない印象である。


 順風満帆だった俺達の生活に暗い影が落ち始めたのは、美月のある一言がキッカケだったのを、嫌というほどよく覚えている。


 ――「職場からの帰りに視線を感じて……同じ人影も見かけるから、なんか怖くって」


 言外に「ストーカーかもしれない」と語る彼女を守りたいのは山々だったが、確証もなく、互いに忙しく働く身の上で、送り迎えも難しい。


 ――「まあでも、気のせいかもしれないし、出来るだけ明るい道を歩いて帰って来るから大丈夫だよ」


 返答を渋っていた俺の心中を察して、美月はそうおもんばかった一言で空気を切り替えてくれた。

 構わないと言ってくれたが、やはり気にかかるのは本当で。


 ――「じゃあさ――同棲、しようか」


 何度か家を行き来していたが、互いの仕事もあって遠慮していた提案を照れくさそうに言った時の、美月の嬉しそうな顔たるや。今でも、目蓋の裏にまざまざと浮かび上がってくる。

 クリスマスにサンタクロースからプレゼントを貰った子供のような笑み。今見ても、それが図らずも終わりへと来尖り始める最初の一手だったとは、知るよしもなかった。


 同棲を提案して次の休み、俺達はキャンプへと出かけて――


 美月のストーカーと、金で雇われた奴らだった。

 一方的に想いを募らせた末、美月に俺という恋人がいることを同棲によって知り、捨て鉢になった結果の凶行。


 ……正直、子細を語るのは、とても辛い。

 俺の目の前で美月を強姦することで、自身の独占欲と優位性を満たそうとしたが、俺が激しく抵抗をしたためか、当初の目的は破棄。首に当てられた改造スタンガンが、バチンと意識の電源を落としたのを覚えている。


 ……そのまま気絶していればいいところを、運悪く、俺は中途半端なタイミングで目覚めてしまった。

 物々しい雰囲気を受けて、通報された警察機関が到着する直前――そして、美月が完膚なきまでに壊されてしまった、後。


 邪魔者だと放り捨てられたのだろう、辺り一帯に人気はなかった。


「美月……っ!」


 真っ先に脳裏をよぎったのは、愛する恋人の姿。

 朦朧とする意識のまま、俺は這いずり、木々を支えによろけながら、闇の中を月の光頼りに探し歩いた。途中、無様に転びながらも、懸命に。


 そうして俺の目に飛び込んできたのは――、


「ああ、大和」


 ――変わり果てた彼女の姿だった。


「み、づき……?」


 月明かり以外にまとうことを知らない裸身。服を駄目にされて、身一つで逃れてきたのかと思ったが、どうも違う。

 なにせ、ふくよかな体には、傷一つない。気絶させられる前に目撃した頬の打撲痕もなければ、夜に睦言を交わす時かと見紛うほどに平穏無事な肌は、露骨な違和感を想起させた。


「無事なのか、美月……!?」


 それでも、奇跡に守られて無事でいてくれたのなら……と歩み寄ろうとしたが、どうにも爪先が動かなかった。


が助けてくれたの――」


 この世の者とは思えない恍惚とした笑みに、得も言われぬ不気味さを感じたからに他ならなかった。


「――大和は、助けてくれなかったでしょ?」

「え……?」


 図星だが、美月は冗談でも人を傷つけるようなことは言わない人間だった。むしろたしなめる側だった彼女のストレートな侮蔑ぶべつに、思わずたじろぐ。


「でも折角だから、自慢に見せてあげる」


 柔肌を晒した美月が、陰部を広げて見せる――その時、大きな悲鳴を上げなかったのは、良かったのか、悪かったのか。


「ひっ!」


 乳歯のように小さな乱杭歯がびっしりと並び、怪物の産道と化したそれを、俺は知らない。


 腰を抜かして倒れた俺を、美月はけらけらとわらった。


「ろくすっぽ慣らさずにれられて、裂けて血塗れだったけど、もう痛くないし、苦しくない。辛くもない」


 言っている意味が、まるで理解できない。

 遠く知らない異国の言語のように聞こえる。


「ああ、気持ちいい!」


 両手を翼のごとく広げ、歓喜にむせぶ――かつての恋人。


「月光にあぶられる肌が気持ちいい! 産毛を撫でる風が気持ちいい! 心臓の鼓動が、呼吸する肺が、言葉を紡ぐ口が、気持ちいい!」


 ……目の前の恋人が、目を閉じる前と同一人物だと思えない。


「でも、」


 その瞳が、同一人物であることを否定するかのような狂気をはらむ。


「こうなったのは――大和のせい」

「っ」

「大和が不甲斐なかったから、守ってくれなかった。ストーカーを軽んじてたから、こうなった。役立たずだった」


 のそり、のそり、と鈍重な歩を進めてくる美月から逃げたいのに、足が動かない。恐怖というくさびい留められて、全身が戦慄に支配される。


「――いたぞ!」


 鋭く放たれる、中年男性の声。警察のものだと気づいても、助け舟だと思えなかったのは至極当然で。


!」

「は……?」


 殺した? 自分を暴行してきたとはいえ、大の大人、しかも複数人の男を殺した? 美月が?



 端的な肯定。混乱が思考をかき混ぜていく。

 俺の当惑を尻目に、刑事らしき男達は危険視を銃口として向ける。


「動くな!」

「撃ってみてよ。きっと気持ちいいから……ほら、もうこんなに濡れてる」


 俺にしたのと同様に、鮫のあぎとじみた陰部を見せつけて誘う。


「っ……!」


 ぱぁん、と威嚇の一撃が美月の脇を通り過ぎる。


「意気地なし。据え膳食わぬは男の恥、って言わない?」


 興を削がれた様子で、ゆっくりと歩み寄る。まるで自ら銃弾を欲しがるような挑発だった。


「クソッ!」


 ぱぁん、と一撃。


「美月っ……!」


 弾丸は太ももに突き刺さり、牙を食い込ませた証として、だらだらと鮮血が流れる。


「ふふふふ……あははははははは……!」


 心配を余所に、美月は高らかに哄笑を響かせた。


「気持ちいい! 気持ちいい気持ちいい気持ちいいギモヂイイイイイイイイ!!」


 魔性の絶叫が、木々を揺るがす。銃撃されても平然と悦に浸るような怪物を前に、悪夢にうなされているような心持ちで、俺は膝をつく。


「やまとぉ」


 舌足らずで甘い、猫撫で声。


「いっしょにきもちよくなろぉ」


 誘惑と呼ぶには有無を言わさぬ迫力があり、罪深い俺には、拒絶する道は残されていなかった。


 ――美月がこんなふうになったのは、俺がストーカーの害を軽く見ていたからで。

 ――美月がこんなふうになったのは、俺がキャンプに行こうなんて誘ったからで。

 ――美月がこんなふうになったのは、俺が弱くて暴漢共から守れなかったからで。


「全部……俺の……せいで……」

「ちがう」


 ハッと顔を上げれば、夢の中の住人が立っていた。


「あなたのせいじゃない」


 そう思ったのは、まだ中学生になってないくらいの女の子が、闇のように真っ黒い着物姿で立っていたからだ。髪飾りの赤いリボンだけが現代的で、妙に浮いている。


「あれは、もう人間じゃない」


 現実逃避を望むあまり、とうとう幻覚を見始めたのかと思う俺は、「え……?」と呆けた返事をする。


「――三条の手の者か。いいのか? あんな年端もいかないような少女で……」

「――大丈夫ですよ。あの子はこのために鍛錬を積んできましたから」


 遠く、警察関係者らしき人々が集まり始めたのか、声が聞こえた。しかし会話の内容までは分からず、俺は目を白黒するだけの木偶でくの坊だった。

 ……いや、木偶でくの坊以下だったと言わざるを得ない。なにせその時点で、見ていたはずの少女がなにを持っていたのか、話し声を繋ぎ合わせれば、なにが行われようとしているのか、判然としたはずだったからだ。


「人間じゃないから――」


 なにも分からず、ただぼんやりと光景を眺めているだけ。


「――


 だから、気づいた時には、すべてが手遅れになっていた。


「え?」


 かたわらにいたはずの、黒衣の少女が疾駆する。

 武士ですら袴姿で斬った張ったを繰り広げるというのに、凛とした着物の雅やかさそのままに弾丸となった様は、水中をたおやかに泳ぐ金魚を連想させた。


 漆黒の金魚はひれをはためかせ、銀の刃を構える。


「ま、待っ……!」


 そして、瞬きの間に、美月へと肉薄。


「ツッ!!」


 交錯は一瞬だった。


「あ、え……?」


 くずおれる白い肢体。

 立ちすくむ黒い少女。

 ――広がる赤い血潮。


「…………は、」


 気づかなかったが、ここら一帯はゆるやかな坂道になっていたらしい。傾斜に沿って『それ』が転がってきた時に、嫌でも知らされる。


「や、……と」


 『それ』は、日本刀で刎ね飛ばされた――


「ああ、あ」


 声がうまく出ない。体が自分のものではなくなったかのような錯覚。パニックで、脳の命令系統がグチャグチャに陥っている。


「こ、な……はずじゃ……」


 かすかに聞こえる、彼女の声。


「やま、とキャ、プ、して……」


 喉を斬られて、最早まともに発語できなかったそれが、唇の形状でなんとか悟れたのは、僥倖ぎょうこうか、神罰か。


「美月!」

「みら、はな、し、したく……」


 ――『大和とキャンプして、未来の話をしたくて』


「みづき……ああああああああ……!」


 だが、その声も阻まれた。黒衣の少女が持ってきた箱に、美月の首が容赦なく詰められる。


「な、なにすんだ!」

「このままでは完全には死なないので、火葬場で焼却します」

「な……!?」


 事務態度でも、ここまでの冷血漢は早々いないだろう。板面を読み上げるような無感動な言葉に、悲しみはことごとく踏みにじられる。

 俺はきっ、と少女の顔を見上げた。年相応の幼い顔立ちに、およそ感情と呼べるものはなに一つ見当たらない。稀代の名工が作り上げた人形と言われた方が、いっそ信じられるくらいには。


「やめろ! なんなんだよお前達! 美月に触るな!」

「『これ』は、もう人間ではありません。だから、適切に処分します」

「勝手なこと言うな! 美月は被害者なんだぞ!? 暴漢に襲われて――」

「違います。その暴漢が、警察になんて通報したと思います? 『人を喰うバケモノに襲われてる』ですよ。これはもう、人間ではない加害者でした」


 バケモノと言うなら、黒衣の少女の方がよほど化け物じみていた。幼い体に似つかわしくない、身体能力と剣戟けんげき。人の首を刎ねても、ゴミを捨てるように平然としていられる精神性。

 こんなやつに、美月の未来は、俺達の未来が奪われたのか――おぞましいほどの怒りが、腹の中で煮えたぎった。


「呪うなら、己が運のなさとを呪ってください」


 そう、

 その瞬間が、運命の分かれ道。


「お前、名前はなんだ……」

鬼頭きとう咲弥さくや

「鬼頭咲弥!! お前はこの俺が――たつみ大和やまとが殺してやる!! 絶対に!!」


 憤怒と慟哭、そしてありったけの殺意を叩きつけて、その澄ました顔をゆがませてやりたいとさえ思った。


 しかし実際に見たのは、


「――――ふ」


 まるで安堵したかのような、寂しげな微笑み。


 それが、巽大和おれ鬼頭咲弥あいつの邂逅だった。


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