陶酔と狂乱②



 ――覚悟を決めて、鍵を開ける。

 勝負はきっと、五秒とかからない。


「…………っ」


 引き戸の向こうにいる藤原紫貴も、罠だと警戒しているのだろう。しばらくは空気が凪いでいた。

 ――それが変わったのは、引き戸が細く開かれてから。


「みつけた」


 隙間から、目玉がぎょろりと動くのが見えた。

 咲弥を視認した藤原紫貴は、一気呵成に扉を全開にすると携えた刃物を振りかざして、一目散に咲弥へと肉薄した。


「きとうさく――、!?」


 が、それも真っ赤に濁った視界に阻まれる。

 引き戸が開かれる死角に潜み、相手が咲弥に向かって殺到するだろうという予測の元に、注目の外に免れていた俺――その手が顔面に被せた、咲弥のあかいスカーフに遮られて。

 振り払おうともがく一瞬の、しかし決定的な動きの滞りは、致命傷となった。


「がッ……!?」


 短くも助走をつけた咲弥の飛び蹴りが、容赦なく腹部に突き刺さる。

 吹き飛ばされた藤原紫貴はソファの背もたれの上を跳ね、転がり、そして意識ごと床に落ちた。


「せーこー!」


 したり顔で咲弥は飛び跳ねる。曲がりなりにも同じ学校の生徒を蹴り飛ばしてする反応ではない。お嬢さんは相当肝が太くて細かいことを気にしない性質タチなのだろう。知っていたが。


「ね? 言ったとおりだったでしょ?」

「まあ、そうなんだが……」


 ……咲弥の企てた作戦は、こうだ。


 刃物を持っていようと――たとえ拳銃を所持していたとしても、どんな武装していようが、所詮しょせんは素人の女子高生でしかない。荒事には不慣れだ。

 ならば、後は簡単。頼りの視覚を塞いで払おうとする隙を作り、出し抜けばいいだけのこと。結果的に、猪突猛進な彼女には効果こうか覿面てきめんだったようだ。


「しっかし……」


 岩倉女学院のセーラー服を着用している藤原紫貴は、どう見ても普通の女子高生だ。

 陸上部に所属しているだけあって、快活なベリーショートと日に焼けた健康的な肌には好感を抱く。聞いていた発言を思い返してみても、部員想いの優しい後輩という印象が残っている。事実、そうだったのだろう。


 ……それもまた、「こんなことにならなければ」の枕詞が付きまとうのが悲しいばかりだが。


「ホント、どうかしてる」


 一介の女子高生に、出刃包丁を持たせて特攻だ。友達すらまともに殴ったことがあるかどうかも分からない少女相手に、とても正気の沙汰とは思えない。


 そして、なにより狂気じみているのが――。


「ここ、だぞ……」


 このマンションは、一階がエントランスと駐車場を兼ねており、一〇一号室は二階からとなっている。窓は、鍵目がけて破壊されていた。

 明らかに、少女が身一つで昇ってきたにしては高すぎる。そして直前まで通話していたのだから、行動もまた、あまりにも早すぎる。


 ならばこの下に、事件の犯人である吸血鬼がいるかもしれない――空想と割り切るには現実的なイメージに、背筋が凍る。吹き込んできた秋風の冷たさが、余計にそのイメージを強固にした。


 その時、


「…………?」


 ふわり、と香る花の匂い。


 季節的にキンモクセイか? とも思ったが、なにか違う気がした。

 藤原紫貴のつけていた香水だろうかと目を向けてみれば、咲弥が窓辺に歩み寄っていた。


「不思議な気分だわ」


 歌うような、朗らかな声音。まるで踊るように優雅な仕草で、壊されたガラスの縁をなぞる。

 当然のことながら、たおやかな指先からは赤い血が滴った。


「人から殺意を向けられるのって、凄くドキドキするのね――」


 それをチョコレートのように舐め取りながら。


「――まるで、恋をしてるみたい」


 うっそりと、咲弥は赤面して微笑んでいた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る