陶酔と狂乱①



 通話する相手は、高校入学組のリーダー格である織田澪子と同じ陸上部に所属している、藤原ふじわら紫貴しきという生徒らしい。

 同じ二年ではなく後輩だったが、背に腹は代えられない。こんな速度で会談にこぎつけられたのは、ひとえに卒業生OGである草薙さんの人脈様々だからだ。


 現在は半ば勘当の身だが、本当に良家育ちなのだと思い知らされる。デリバリーで頼んだのが、背脂こってり油そばでなければだが……。


「さて、腹ごなしもできたし、向こうも約束した昼休みの時間になってる頃合いだ。準備はいいかい?」


 元スポーツマンの食欲に三十路の胃はげんなりとしつつ、口では「了解です」とつつがなく答える。社会人根性は、こういうところでも役に立つ。


「――でも、なんでこの部屋なの?」


 咲弥が部屋の内装を見回す。パソコン、沢山の機材、マイク、スピーカー……そして、壁一面に貼り巡らされた吸音材と、分厚いドア。


「通話するのに、防音室ここ以上の環境はないからね。音質の問題じゃなくて、スマホのスピーカーに肩寄せ合ってっていうのもやりづらいし……あと、こっちが本命だ。録音できる」


 「秘密にしたい相手さんには悪いけどね」と肩をすくめる草薙さん。と、メッセージ受信のポップアップが軽快に茶々を入れる。


「おお、丁度良く来たみたいだ。ただ……分かってると思うけど、貴方達がいることは知らせていない。だから、」


 子供に言い聞かせるように、唇の前で人差し指を立てて。


「絶対に声は出さないこと――いいね?」

「分かりました」


 敢えて釘を刺したのは、信用に関わるから、というだけではない。特に咲弥の身を案じてのことだろう。

 そばにいることがバレれば、草薙さんの信用が失墜するだけではなく、流行り病のように不信が伝播して、犯人が咲弥へと強行手段を取りかねない。


 意図を察したのか、咲弥もふくれっ面で首肯する。草薙さんは返信すると、目で合図を送り、通話を開始した。


「もしもし?」

『……もしもし?』


 か細くかすれた少女の声。


「初めまして。陸上部OGの草薙初音です。藤原紫貴さん……ですよね?」

『はい、藤原紫貴です……』


 藤原紫貴の声は、初めて会話する相手だから以外の緊張で満ちていた。


「安心して……って言っても、なかなか難しいかもしれないけれど、お昼休みいっぱいまで話すつもりはないから、五分くらいで済むよ」

『ありがとうございます。でも、それくらいで話せるかどうか……』

「協力的でいてくれるのは助かるけど、あくまでこれは取り調べじゃあない。だから考えがまとまらなかったり、言葉がつっかえたりしても問題ないよ」

『そう……なんですか? わたし、てっきり知ってることは全部話さないといけないものだとばかり……』

「流石に五分でそれは、聞く私も大変だなぁ。改めて伝えておくと、触りの部分を、当事者に近しい人の言葉で知りたいだけだから……って、『だけ』って謙遜するのは、ちょっと無理があるか。失敬失敬」


 小粋に言葉を紡ぎつつ、草薙さんは話しやすい空気感へと変えていく。


「じゃあまず、今の陸上部ってどんな感じかな? 私がいた頃は大会に行くため、かなりハードワークだったと記憶しているけれど」

『本格的にインターハイを目指すような人は強豪校に進みますから、大会出場は目指しつつも、ハードな練習はそこまでですね。……OGの方からすると、堕落したなって思いますか?』

「いいや? 好きなものを嫌いになるほど取り組む必要はないし、貴方の言ったとおり、本気で極めるなら相応の設備がある方へ進学するのが普通だ」

『ふふふ、織田先輩も同じようなこと言ってました』


 織田先輩――おそらくは織田澪子のこと。


「暗い話に戻ってしまうけれど、今回の一件で被害者と織田澪子さんが同じクラスだと聞いていてね。容疑者に挙げられているようだけど――」

『っ、そんなこと……!』


 スピーカー越しの声が、痛切にゆがむ。


『先輩は、確かに高校入学組で派手ですけど、それも岩倉女学院イワジョの中で言えばって程度のものです。ただそれだけで疑うだなんて……!』

「――貴方の話を聞く限り、そんな恐ろしげな人物だとは到底思えないね。外部からの勝手な印象ではなく、常日頃接してきたからこそ知れる人物像は貴重だ。私から話しておくよ」

『ありがとうございます……っ』


 草薙さんも大人だ。相応に嘘を吐く。警察関係者から聞き取りを依頼されたかのように振る舞ってはいるが、実のところ、警察とは直接的な繋がりがない――「私から話しておくよ」とは言ったが、とは言っていない。


 懐に入り込んだことの証左か、藤原紫貴の唇はやわらかくほぐれていった。


『話せている人が、草薙さんで安心しました。わたしてっきり、怖い男性と話すことになるとばかり……女子高育ちなんで、男性と話すのは、あまり慣れていないんです。なので、スムーズに話せてありがたいです。普段からお話しするようなお仕事をされてるんですか? 陸上のコーチとか?』

「はははは、引退した今はしがない配信業だよ」

『凄いですね! わたし、そんな人と話すの初めてです。どこかでお目にかかってるかもしれませんね……そういえば、聞いているお声に雑音が全然乗らないのも、配信業の方だからですかね?』

「……そうだね。使い慣れてて設備もいいから、専用の部屋からかけているよ」

『あと、これは興味本位で伺うので……お気を悪くしてしまう質問かもしれないんですが……』


 続く言葉に、草薙さんの息が驚きで、一瞬詰まる。


『草薙さんは事故に遭われて以降、足に麻痺が残り、車椅子で生活されていると聞きましたが……本当ですか?』

「――――」

『本当、なんですね』

「――――」

『ごめんなさい、不躾な質問をしてしまって。でも許してくださいね? だって草薙さんも不躾な質問をしているんですから』


 おかしい――なにがおかしい?

 いやだって、おかしいじゃないか。


『じゃあ、今度はわたしから質問させてください。いいですよね?』


 ぴーぽーぴーぽー、ぴーぽーぴーぽー……。

 まるで真横を通過したような大きさで、今、救急車が通り過ぎる音が聞こえた。

 岩倉女学院で昼休みを過ごしている彼女のそばで、聞こえるはずのない音が。


――?』

「ッ大和くん、鍵閉めて!!」


 通話を切断するや否や、草薙さんがぴしゃりと叫んだ。

 弾かれるようにして防音室の鍵を閉めると、得も言われぬ静寂が漂った。


「なんですか、あの子……おかしな言動を、」

「しっ」


 草薙さんは車椅子を壁際へと進める……まるで、出入口の引き戸を警戒しているように。


 まさか、家を特定したとでもいうのだろうか? 仮に本当だとして、オートロック式マンションに乗り込もうとしているなど、にわかには信じられなかった。玄関にも鍵をかけてあるのだ。

 多少なりとも同年代より筋力がある陸上部だろうが、少女の腕力でしかないのは揺るぎない。特殊な工具が手に入ったとしても、そんな暴挙が――――。


 こんこん。


「っ!」


 こんこん。

 こんこん。

 鍵を閉めた引き戸から、ノックの音がこだまする。


 こんこん。

 こんこん。

 空耳ではないと訴えかけるように、ノックの音は連なって響く。


「ま、じかよ……」


 ……おかしいのだ。今現在、この草薙初音の家に上がり込んでいるのは、俺と、咲弥を除いて他にはいない。草薙さんもここにいる。


 こんこん。

 こんこん。

 じゃあ――このノックは、誰がしている?


 こんこんこんこん、こんこんこんこん。

 こんこんこんこん、こんこんこんこん。

 どんどんどんどん、どんどんどんどん。

 どんどんどんどん、どんどんどんどん。

 がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ――。


「あらあら、絶体絶命ね」

「なに他人事ひとごとぶってんだ、馬鹿! おいどうすんだ、こっちは丸腰だぞ。それに……」


 ハッとして言葉をき止める。


 「それに、車椅子で自由に身動きが取れない草薙さんまでいる」――思いがけなかったとはいえ、俺は言ってはならないことを言おうとしてしまった。


「いいんだ。事実だしね」

「……肯定しないでください。それを言ったら、この間の俺の失態まで認めざるを得なくなっちまう」


 がちゃがちゃがちゃがちゃ――。

 がちゃがちゃがちゃがちゃ――。

 音は話している最中も続いている。引き戸特有のフック状の金具もおかまいなしに、音の主は無理矢理こじ開けようとしていた。常軌を逸した執念だ。


 ただの偵察ならば、ここまでの強硬手段には及ばないだろう。つまるところそれは、凶器に類するものを所持している危険性が高いということ。


「大丈夫よ。ボク達は」

「――――は、」


 俺の冷や汗を無視して、咲弥は涼やかに歌う。


「ヤマトの疑念は、『相手が【エス】じゃないか』ってことだろうけど、ボクは違うと思うわ。本物の【エス】なら、ボク達が【ギロチン】だと知ってようと知っていまいと、隠密を心掛けるはず。警察は怖いからね。だからあの藤原紫貴って子は、手先が関の山よ」

「で、その関の山を安全に無力化できるってのか?」

「百パーセントは保証できないけど……」


 言葉尻を引くように、咲弥はセーラー服のスカーフを紐解いた。


「成功率の底上げはできる、かもね?」


 天鵞絨ビロードもかくやと艶めく真紅。それと瓜二つの舌が、臆病風に吹かれる俺を挑発していた。


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