事の起こり③



 草薙初音の家は、マンションの二部屋にまたがっている。

 仕事や応接を行う側は、それこそデザイナーズオフィスのように小洒落ているが、いわゆる生活圏である側は真逆だ。


 もっとバリアフリーに特化しているとかではなく、単純な話、生活感に溢れて汚いというだけのこと。

 それを片付けるのが俺達の仕事なのだが……いかんせん骨が折れる。たかだか一日でどうしてこうも汚れるのだと内心毒づきつつ、今日もまた丁寧に掃除を行い、貴重な汗水を垂らす。


「おー、お疲れ様。それならお茶にでもしようか。貰い物のお菓子はないけれど」

「えーっ! ボクお腹空いたんだけど! カルボナーラ、ベーコン抜きが食べたい気分!」


 そうして終わった頃、別件を済ませたらしい草薙さんが戻ってきた。


「はいはい。それは君のところであったっていう、吸血鬼事件の話をしてからね」


 どうやら別件の合間に、咲弥の早退とその理由が、メッセージかなにかで届いていたらしい。そりゃそうだ。一応保護者兼雇い主なのだから当然である。さしもの咲弥も納得したらしく、ぶーぶーと文句を言いたけな唇を尖らせたまま、大人しく引いた。


 談話のお供となるのは、空腹をおもんばかって紅茶だ。ティーバッグだが、ミルクをたっぷり入れて安物の渋みをごまかす。本当はもっと高級な茶葉があるのだが、それは楽しい茶話の機会に。


「うん。ありがとう、大和くん」


 使用人の俺に茶の一つでも淹れるスキルがあればよかったのだろうが、草薙さんもお茶の味をとやかく言うほど細かい性質タチではない。メイドなどでも、掃除をするのと食事や茶の提供をするのは別業務らしい。そんな蘊蓄うんちくを説いていたのが草薙さん本人なのだから、これで本当に構わないのだろう。


 終わらなければ食事ができないと理解した咲弥は、観念したように先程の話を復唱した――被害者の遠野綿花。由緒正しい家柄の多い中学入学組で、同じく中学入学組のリーダー格である墨染薫とは、幼馴染の間柄。高校入学組の織田澪子。そして、生贄スケープゴートにされかねないのが、我らが鬼頭咲弥。


「……なるほどね。嫌な状況だ」


 紅茶でぬくもったはずの吐息が冷めている。


「確かに良くない状況ではありますけど、そんなのこいつを一旦自主休校させればいいじゃないですか」

「それはもう三条の方と話をつけてある」

「ええーっ……まあいいけど」

「いいのかよ」

「勉強とか内申点は困るけど、死ぬわけじゃないし――この場合は『殺されるかもしれないし』が正しいのかしら」

「物騒なこと言うな」

「なってるじゃない、物騒なこと」


 それはそうなのだが、とにかく舌を出してまであっけらかんと言うことではない。


「とまあ、早い話が三条の方でも『秘密裏に解決してほしい』という依頼が来ているらしくてね。それがなんと墨染薫の父親と来たもんだ」


 ……嫌に話が早すぎる、と思わざるを得ない。むしろ愛娘が疑いの目と危機に晒されたのだから、それくらいがむしゃらに動いて然るべきなのだろうか。


「明らかに怪しい、と眉をひそめる気持ちは分かるよ。大和くん」


 どうやら顔に出ていたらしい疑念を、草薙さんは指摘する。


斥候せんこうたる私達が失敗すれば、あのクラスは時期をちょっと先取りした新型インフルエンザにかこつけた学級閉鎖だ。自宅待機という軟禁状態にされてまで、正体を隠し通せるお利口さんな【エス】はいない」

「……俺達に『わざと失敗しろ』ってことですか?」

「ああ、違う違う」


 俺の考察を否定するように、草薙さんは空っぽのカップを振る。


「依頼してきた墨染薫の父親は、自分の娘が【エス】だなんて微塵も思っちゃいなかったよ――『自分の娘には、なに不自由なくさせてきた。だから【エス】に付け入られる隙などない』とね。墨染薫の父親は【エス】に関して門外漢だったが、主義主張はそんな感じだったそうだよ」

「なるほど……」


 親莫迦、ここに極まれり。

 だが筋は通っている。


 ――【エス】は精神疾患を起因とした、ごく稀に発生する奇病のようなものだ。

 未知のウイルスによるものだとも、免疫機能の暴走だとも言われているが、前提として【エス】と化すまでに、こころの病の諸症状が出てくる。

 摂食障害、睡眠障害、セルフネグレクト、自傷行為、人間不信、妄想や幻覚、思考能力の低下……様々あるが、ここで重要なのは【エス】と化すレベルの精神疾患があれば、それを毎日顔を合わせている同居人が気づかないわけがないということだ。親子仲が悪い場合もあるが、今回はそれに含まれないだろう。


「特に女性は、生理不順というシグナルもあるしね」

「……体が成長しきっていない中高生なんかは、生理不順でも怪しまれないと思いますけど」


 成人男性の俺が言うのも変な話だが、聞き及んだ話には口を挟まずにはいられないものだ。すると草薙さんも「否定はしないよ。私のようなスポーツに身を置いていた女性は過去、『生理不順になるほど体を追い詰めて一人前』のような風潮があったからね」と首肯した。


「けれど、その点に関しては問題ない。いじめの可能性も含めて保険医へも聴取されたし、それこそ麟堂義行の時のように、周囲との関わりが断絶されてでもいない限り、露見しないわけがない……だからこその告発だったんだろうけど」


 異常犯罪を隠れ蓑にした一般事件ならいざ知らず、今回は特権階級セレブリティ関連事件である。

 おまけに由緒正しき高等教育機関と来たものだ。恥や醜聞に成り得る危険性が高いのだから、内々に済ませようとしても不自然ではない。


 それぐらい危機への嗅覚があったからこそ成り上がってこられたのであれば、今回ばかりは皮肉な話と苦笑する他ないが。


「目下、正体もそうですけど、『変質』と『病因』はなんでしょうね」

「分からないね。なにせ、事件の舞台はお嬢様学校だ。彼女達がひび割れ、欠けるほど、満ち足りていないとは思えない」


 【エス】には、『変質』と『病因』と呼ばれる特徴が、例外なく必ず存在している。


 ――『変質』は文字通り、【エス】と化したことで発生した人体の変異特徴を指す。前回の例で言えば、声――声帯。話術なども加味されるが、凶器メインはそれだ。

 そして要となるのが、『病因』――【エス】と化した動機アイデンティティ


「自殺だったんだ。まず疑われるのは、いじめの線だった。だが金銭面でも怪しいところはなく、遺体の外傷も目立つものは飛び降りをした時のもの以外なかった。少女間のいざこざはあったにせよ、いじめはなかったと結論付けられている」

「分かるわけないんじゃない?」


 俺達の真面目な会話を暇そうに眺めていた咲弥が、ふあ、とあくびを一つ。


「人間は自分だって分かんないんだから、他人のことなんて分かるはずないわよ」

「あのなぁ……」


 口でこそ呆れるが、言っていることはもっともだ。


 手掛かりとなる『吸血鬼』というキーワードも、人喰いの鬼と化す【エス】では、形容として凡庸すぎる。『病因』はおろか、『変質』も予測不明。推理が実入りの少ない堂々巡りとなるのは、残念ながら目に見えていた。


「確かに、ここいらでひと息つくのは大切かもしれないね。取り敢えずこの後も予定があるから、少し早いけれどお昼にしようか」

「やったーっ! カルボナーラ、カルボナーラ! ベーコン抜き!」


 ぴょこぴょこウサギのように跳ね回る咲弥を尻目に、俺は草薙さんの口振りが気になった。


「『この後も予定がある』……って、また仕事ですか?」

「ん? ああ、違う違う。アポイントが取れたから、この件の続きだよ」


 アポイント――ビジネス用語であれば、商談相手と面会の約束を取りつけること意味するが、この場合は言うまでもなく、関係者との。


「織田澪子と同じ部活に所属している子と、これからウェブ通話ができる。この機会を逃すわけにはいかないな」


 閑話休題、あるいは嵐の前の静けさ。


 「腹が減っては戦は出来ぬ、だよ」と草薙さんはスマホでデリバリーアプリを立ち上げた。


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