第2話 帰る場所

昨夜の出来事から、一夜明け ――――


「ん…」

私はゆっくりと瞼を開ける。

あれ…、ここ、どこ…?

ぼやけた視界に映り込む、少し古びた天井…。今まで、見たことのない天井だ。

あれ、私、どうして…?

私はガバッと布団から跳ね起きる。

そうだ!私が昨日、おつかいに行っている間に家が火事になってて、私は、お父様とお母様を探しに燃えている家に入って…

はっ!お父様とお母様を探さないと!!!

私は、立ち上がって、とにかく部屋を出ようとする。

だけど、

「弥十郎…?」

私が立ち上がって、まず最初に私の視界に入ってきたのは、あぐらをかいたまま寝落ちをしている弥十郎の姿だった。

私の立ち上がった気配に気づいて、弥十郎は「はっ!」と、目を覚ます。

「スイ…っ!!」

私の姿を見た弥十郎は、一気に込み上げてきたように、ブワッと大粒の涙が目から溢れ出した。それと同時に、弥十郎はギュッと、力いっぱい私を抱きしめた。

「良かった…本当に良かった…!!」

抱きしめられているから、表情は見えないけれど、弥十郎の息遣いが酷く荒い。号泣…しているのだろうか…。

こんなに泣いている弥十郎を見たのは、いつぶりだろう…?4歳の時とか?

とにかく、弥十郎はすぐに泣いたりするような男ではないのだ。

「どうして弥十郎がここに…?」

そうだ、問題はここがどこなのか、ということ。そして、なぜ弥十郎がここにいるのか。お父様とお母様…、お父様とお母様は!?

「お父様とお母様は!?」

私は弥十郎から自分の体を離して、弥十郎に問い詰める。

「スイの父上と母上は…」

弥十郎は、顔を伏せる。弥十郎から、ポタポタと涙が床に落ちる。

でも、私の無事を見て流したさっきの涙とは、どことなく違う涙のような気がする。

そんな弥十郎を見て、私は一瞬で悟った。

あぁ…どうして…?

どうしてこうも、大切な人は何もなく突然いなくなってしまうのだろうか…。

だって、つい数時間前までは、お父様もお母様も楽しそうに働いていた…。

お客さんだって、楽しそうに会話をして、美味しそうにうちのご飯を食べてくれていた…。

それなのに…、どうして…??

今も目を閉じれば、あの大好きだった空間が蘇ってくる。

「スイ!あちらのお客さんにこれ、お出しして!」

「スイ!料理を教えるぞ!こっちにおいで!!」

笑顔で私に手を差し伸べて下さるお父様とお母様が今でも、目の前にいるような気がして…。

私に沢山の愛を与えて下さったお父様とお母様。

どうしてこんな…。

私の目からポタポタと涙がこぼれ落ちる。

ようやく、何が起こったのかがはっきりと分かった。

昨日の大火事で、私のお父様とお母様は亡くなった、と。

もうこの世にはいないのだ、ということ…。

「どうして…うぅ…っ…あぁ…」

私は声を上手く出すことが出来ず、ただ、自分の拳を握りしめて泣く。

本当は、心のどこかで分かっていた。

もう、お父様とお母様は亡くなっているのではないのかって。

「スイ…すまない…。スイの御父上と母上を…俺は…、お守りすることが出来なかった…。」

弥十郎はそう言って、私を優しく抱きしめる。

「っ…あぁ…っ…うぅ…」

どうあがいたって、お父様とお母様が帰ってくることは、もうない。

この時、私は、ただただ泣くことしか出来なかった…。


――――――――――――――――――――――――――


「もうちょっと休んでいかなくて良いのか?」

弥十郎は、おむすびが三つと、たくわんを竹の皮で包んだお弁当を、私に渡しながら言う。

「うん。もう十分良くしてもらったし…。」

私は、ここの家の方に譲っていただいた綺麗な着物を見て、そう言う。

夏の早朝の町を吹き通る風が、涼しくて心地いい。

あの大火事の日、燃える三山亭の中で意識を失っていた私は、ある親切な青年の方に助け出されたのだそう。そして、私の身柄を引き取ってくれた弥十郎と、その兄上や柴崎先生(弥十郎の父上のことを私はそう呼んでいる。)ご夫妻は、柴崎先生の兄上のお家に一時期の間は避難させてもらうことになったのだ。

「たくさん迷惑をかけて御免なさい…。弥十郎たちの家だって、今回の大火事で焼けてしまったというのに…。」

私は、そう言って頭を下げる。

「いやいや、スイが謝る必要は無いよ。それに、今回の大火事は、尊王攘夷を提唱する長州藩士らが、お前の家から五軒先の西原さんのお宅があったろ?そのお宅に、放火をしたそうなんだ。あの日は風も強かったしな...。おかげで、あそこら辺一帯、すべて燃えてしまった…。」

弥十郎はそう言って、悔しそうに下唇を噛む。


そうなのだ。弥十郎が今話した通り、今の時代は大きく揺れ動いている。今から八年前の嘉永六年(1853年)。この年は、日本の浦賀にメリケン人の乗った黒船が四隻程来航した。メリケン人が来日した理由は、長年ずっと鎖国中だった日本を開国させるため。それを受けて、当時、徳川幕府の権威の象徴的存在の大老であった井伊直弼様は、メリケン人の要求を天子様(てんしさま・現在の天皇様のこと)にご相談なさらずに、承諾してしまったのだという。

この時から、日本の時代は大きく動き始めた。

異国と繋がりを持とうとする「開国派」と、メリケン人の要求を勝手に承諾してしまった徳川幕府に対する批判が高まり、天子様を尊ぶ考えの「尊王」と、異国人を追い払おうとする考えの「攘夷」が結びついた「尊王攘夷派」との大きく二つに日本は、別れていた。

そして、安政七年(1860年)。ついに、安政の大獄などの徳川幕府のやり方に対する浪士たちの不満は頂点に達し、三月三日、尊王攘夷派の水戸藩の浪士たちが、大老の井伊直弼様を江戸城桜田門外で暗殺した。これが俗に言う「桜田門外の変」である。


今回も、その「尊王攘夷派」の浪士たちが引き起こした事件だった。

「日本は大きく動いている。俺たちには、何が出来るのだろうか…。」

弥十郎は、どこか遠いところを見つめながら、そう言う。

そんな弥十郎を見ていると、弥十郎はどこか遠いところへ行ってしまいそうで…。

私は思わず、弥十郎の着物の袖を俯いたまま掴む。

「スイ?」

弥十郎に呼ばれて「えっ」と、顔を上げて見れば、弥十郎の顔がすぐ傍にあった。

「あぁ!いや、違うの!その…」

私はバッと弥十郎から離れる。

弥十郎は、いつの間に、あんなにもたくましく凛々しくなっていたのだろうか。

心の臓がドクドクと早く脈打つ。

「やっぱりここにいたいか?いてもいいんだぞ。俺だって、スイと離れるのは御免なんだ。」

弥十郎の言葉一つ一つが温かい。彼には、いつも助けられてばかりなのだ。

やっぱり、私は、弥十郎のことが…

「ううん、いいの。これ以上、弥十郎たちに迷惑をかけるわけにはいかないもの。どこかで働き先を見つけて、それでまた、必ず弥十郎や柴崎道場の皆様に会いに行きます。」

私はニコッと微笑む。それと同時に、今思いかけたことに蓋をする。

「うん。俺も必ず、今の状況が落ち着いたら会いに行く。また一緒に皆で暮らそう。約束だ。」

弥十郎は、私に右手の小指を差し出す。私もその指に、自分の右手の小指を絡める。

「そうだ!あと、それから…」

弥十郎は、ふと思い出したように縁側の方へと走って行った。すぐに戻ってくる。

「これは、俺の父上からだ。」

と、弥十郎は、私に小刀と、何かを包んだ風呂敷包みを持ってきた。

「嘘…これって、刀…」

「父上が、スイが元服する年齢になった時に、と前々から作られていたんだ。それから、こっちが…、スイ、自分で見てごらん。」

私は弥十郎から、風呂敷包みを受け取って、風呂敷を開く。

その中には、

「あぁ…」

火事の時に無くしたと思っていた、お父様とお母様の料理を記した料理本があった。

「スイ、助け出されて気を失っていた時も、ずっとその本だけは握りしめて離さなかったんだよ。スイも、料理本も、無事だったのは、スイの父上と母上が守って下さっていたからなのかもしれないな。」

「そうかも…しれないね…。」

私は、弥十郎の言葉に頷いて、またギュッと料理本を抱きしめた。

この料理本には、どことなく不思議な力がある気がする。

今だって、だんだんと元気が出てきた気がする。

「弥十郎…、ありがとう…。本当に…ありがとう…。」

私は、弥十郎に深く頭を下げる。

弥十郎はそんな私に返事をするように、優しく頭を撫でてくれる。

そして、頭を上げた後、弥十郎から小刀を受け取る。

その小刀の下げ緒は、新緑のような薄緑色で、鍔には椿の花の模様が掘られていた。

柴崎先生の気持ちがその小刀から伝わってくる。

私はその刀もギュッと、手に握りしめる。

そして、

「では、行って参ります。」

と、弥十郎に、火事から久しぶりのきちんとした笑顔で言った。

徐々に登ってくるお天道様が、私の旅立ちを応援してくれているように、その時の私は感じた。









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