ローチェリーナは資本主義を批判する2



「お、おい……」



 ローチェリーナの両手が俺の背中に回り、そのまま身体を寄せてくる。さっきにも増して甘く、いい香りが鼻をつく。



「結局、資本主義も共産主義と同じだ。利益のためであれば、労働者の自由をハサミで脅し、収奪する。そして、その収奪によって利益を得るのだ。だが、本当にそんな社会でいいのか? そうではないはずだ。我らは本当の意味で……互いに信頼できる関係でなければ、ならぬのだ。ハサミを突き付ける必要などない、真に絶対的な信頼関係のある社会を……な」

「や、やめろって…………」



 ダメだ、何も考えられないくなってきた。背中を掴んでいる両腕の力が次第に強くなる。大きな瞳が俺を見上げる。



「我はこのような薄汚い資本主義の豚どもが渦巻く社会に貴様を……放り込みたくはない……それだけなのだ。さぁ、我に忠誠を誓え。我の側近として、共に偉大で、崇高すうこうな共産主義社会を目指そうではないか?」

「あ、ああ…………」



 確かに、こいつの言うようにこのまま社会に出ても、俺はそんな資本主義社会に飲まれ、望まない転勤や仕事に従事することになるのかもしれん。なら、こいつの言う通り、一緒にRTC体制を目指すのも悪くないと思えてきた。



「……1つ、聞きたい?」

「なんだ? 申してみよ」

「今の資本主義社会って結構みんな疲弊したりしてるじゃん」

「そうだな」

「なら、RTC体制に日本社会が移行したらどうなるんだ?」

「何故、そのようなことを聞く?」

「えっ、あ、ほらっ。やっぱりRTC体制になったとしてもその社会についていくことが難しいやつだっていると思うんだ。その時にそういう人間はどうなるのかなって……」

「なるほどな……。それは、無論……」

「ふんふん、無論?」



 ローチェリーナは視線を右にやり、俺の腰に回していた左手で自分のあごを撫でた。これほど慈悲深いローチェリーナのことだ。RTCという共産主義社会になったとしても、きっと誰1人として見捨てられない社会をつくってくれるに違いな――



「処刑する」

「へぇ、処刑かぁ。…………って! 処刑!?」



 視線をこちらへ戻したローチェリーナはそう言い放った。



「当然だろう。諸外国の圧力に屈し国益を害した人民、市場において必要以上の利益を寡占する人民、新たなニーズに適応できぬ人民。それらすべての人民は処刑対象となる。――が、猶予は与える。それでもどうにもならぬ人民は、非常に残念なことだが――そうせざるを得まい」



 せざるを得まいって。おいおい、ま、まじかよ――予想外の言葉が飛び出しやがった。ヤバい、こいつやっぱりヤバすぎる。さっき言ってた甘い理想と全然違うし! 結局、今までの共産主義と変わらないじゃねぇか。前言撤回! こんなヤバイ奴に手を貸したら日本がめちゃくちゃになっちまう。もう一通り話は聞いたんだ。とっとと元の向谷に戻ってもらうとするか。



 俺はローチェリーナの頭部のリボンを確認する。前に大野先輩にリボンを解かれた時の向谷の様子。きっとこいつを全部解いちまえば、しおれ向谷になるはずだ。

 そう判断し、すぐさま左手で頭部のリボンを掴もうとした瞬間――、



「くっ……」



 左手で胸を強く押された。その衝撃でよろめく。



「な、何しやがる!」

「それはこちらの台詞だ。千賀人民よ。貴様こそ、今、我に何をしようとした?」

「そ、それは……」

「ふふっ、我は悲しいぞ? せっかく思想をともにできる側近を見つけたというのに……。愚かな選択だな……」

「へっ、誰が愚かだ! お前みたいな危険な奴に誰が協力するかっての!」



 俺は突き飛ばされ、離れたローチェリーナとの距離を詰めるために前へ右足を出し、両手でローチェリーナのリボンを解ききろうとした、が――



「愚かな……」

「うっせ――えっ?」



 頭頂部を捕えようとした俺の両手がローチェリーナの右手で素早く上に弾かれる。そしてすぐさまその弾かれた内の右腕が掴まれた。と、上に注意が向いた矢先、今度は右足首に素早い左足の蹴りをお見舞いされた。



「うっ……」



 俺の身体は一瞬でバランスを崩し、気がついたら床に右腕の強打していた。ちくしょう、一昨日あのクソ女にやられた方の腕だぞ。少しは気をつかえってんだ。

 そして床に突っ伏し、仰向けになって天を仰ぐ俺の前にローチェリーナの顔が現れた。ふと、視線を下に向けると両膝を床につけ、俺の身体に馬乗りになっていた。



「あっ……あの……」

「生意気な口を叩いたわりには大したことがない。これしきの力でよく我に歯向かったものだ」



 両足を大きく広げ、馬乗りの姿勢で俺を見下ろしている。いや、これはどういう状況なんだ。こんな小さい身体のどこにあんな馬鹿力があるってんだ。しかも、この体勢――もうちょい立ち上がったらスカートの中がここから見えそうだ。慌てて視線を顔へ戻す。顔が不敵な笑みを浮かべてやがる。



「が、――やはりいい」

「な、何がだ?」

「我は見ておったのだ。この女の身体の中で、あの時」

「あの時?」

「左様。あの奇妙な女に歯向かっていた貴様をな」

「あ、あの時も見ていたのか!?」

「無論だ。我はこの女の中ですべて見ておった。はじめは思考部などという訳の分からん部活に入ってきた愚かな人民としか思っていなかったが」



 そっから見てたんかい。ってか、訳の分からん部活って。一応お前の主人格がつくった部活だぞ、ここ。



「だが、あの時の貴様は実によかった。あれほどの生命の危機にあってなお、気骨溢れる姿勢を見せたのだからな。そうした人民は我の理想を成すためにやはり欲しい」

「そりゃどうも。まぁ、お前なんかに従うつもりはもうねぇが、な」

「――そうか。なら、こうしよう」

「……あ?」

「我と口づけをしろ、千賀人民よ」

「…………は、はぁ!? く、く、口づけ!? く、口づけって……な、なんで……」

「ふふっ、我と口づけするのは不服か?」

「そういうことを聞いてるんじゃねぇよ!」



 意味が分からん。なんて足払い食らって、床に突っ伏された奴にキスされる展開になるんだよ。わ、笑ってやがる。どういう情緒してんだ、こいつは。



「我は見ておったのだ」

「な、何を――」

「昨日、この女と貴様が楽しそうにメールのやりとりをしておったのを、な」

「な! そ、それも見てやがったのかよ!」

「無論だ」



 ってことは、もしかして今、この状況も向谷に丸見えってことか? だとしたら、ヤバイ。こんな状況をあとでどう弁明すりゃいいってんだ。    



「そして我は思った。口づけをしてやれば貴様が我に従うのではないかと、な」

「は、はぁ!? なんでだよ。話が飛躍しすぎだろ!?」

「そうか? 貴様、この女に少し好意を抱いているのではないか?」

「な! んなわけねぇだろ!!」



 た、確かに昨日はメールのやりとりをしてちょっとだけ、いつもと違うこいつに良い印象を持ったのはある。あるが、それは決して好意ではない、はずだ。でも、目の前でこんな馬乗りになられていると、意識するなと言われても意識しちまう。な、なんとか逃げねぇと。



「――そうか。まぁ、良い。年頃の男子というのは単純だ。いくら嫌がろうとも口づけをすれば自然と我に従いたくなる……」

「お、おい。や、やめろって! ああ、もうっ!」



 ローチェリーナは口を少し前につん、と突き出しそのまま馬乗りになった身体を俺に落としてきやがった。く、このままだとまずい。咄嗟に首を右に傾ける。と、その時。教室の扉がガラリ、と開く音がした。



「悪り、遅れた」



 反射的に視線だけを上に向けるとそこには大野先輩の顔があった。そして先輩と目が合った。先輩は俺を見ていた視線をローチェリーナへと移す。そして――



「……悪い、邪魔した」

 と、一言。

「い、いや、いやいやいや!! ま、待ってって! 大野先輩!」



 ぽつりと呟き、教室を去ろうとする先輩を必死に呼び止める。いや、そりゃ、確かに誰もいない教室で女子が男子の上で馬乗りになってたら、そう思うかもしれないけど、けど、違うんだって! ほらっ、こいつ俺にキスしようとしてるんだって。横に向けてる首を正面に戻すために、首絞めようとしてるんだって!



「待てって……。いや、こういうシチュエーションを邪魔するほど、俺は――」

「そうじゃないんですって! と、とにかく先輩、この前やったみたいにこいつのリボンを解いてく、ください」

 ローチェリーナの頭部のリボンを必死に指差ししながら先輩に懇願する。

「ん? よくわからんが、まぁいい。リボンをとればいいんだな?」

「うわ、危ね!」



 俺たちのやりとりを見ていたローチェリーナが馬乗りになっていた身体から立ち上がり、顔が仰がれた。危うく直視しそうになったスカートの中。俺は必死に視線を背ける。



「なんだ、貴様。我の邪魔をするというのか? なら容赦はせんぞ?」



 しばらくの間動かぬ2人。が、次の瞬間、2人は瞬く間に距離を詰め、柔道試合が始まった。さすが大野先輩、間合いの取り方が上手い。こいつは白熱する戦いが繰り広げられ――ない。その隙に俺は手薄になったローチェリーナの頭部からリボンをもぎ取る。



「なっ!」



 大野先輩の動きに気を取られていたローチェリーナが俺に気が付いた時にはすでに遅し。リボンは奴の頭部から完全に離別した。非常に卑劣な手口だが、仕方あるまい。2人の柔道試合にも興味はねぇしな。



「き、貴様ぁ!!」

「ははっ。油断したなぁ、ローチェリーナ」



 リボンを失ったローチェリーナがこちらを振り返り、ものすごい剣幕で俺を見た。もぎとったリボンをひらひら揺らしながらも、反射的に2歩さがる。



「わ、我はこの国を導く……ろ、ローチェリーナであるぞ! こ、このような非礼、許されるはずが……」



 リボンをもがれたローチェリーナは苦しそうに左手で頭を抑えている。

 声がたどたどしい。よしよし、効いてるな。はいはい、もうそういうのいいんで。さっさとお眠りくださいな、ローチェリーナ姫。王子様も口づけを躊躇ためらう程の暴君は、永遠とわの眠りにつくがいい。



「愚か、者が……絶えず思考し、常識を打破する努力をしなければ、社会は、国家は思考停止に蝕まれ、やがて消滅する……というのに。……だからこそ、我らは……思考し、既存の社会にケンカを売らねばならぬというのに……くっ……」



 意外と粘る――しつけぇな。潔くとっとと消えろよ、クソチェリーナ。左腕の腕時計をちらりと見る。



「……お、おのれ……許さぬぞ、千賀人民よ。わ、我は必ず……戻ってくる。この国に革新を……もたらす、ため……に……ぐっ」



 はいはい、分かった分かった。おもわず笑いそうになった口元を抑える。見事なまでに勇者に倒され、消えゆく大魔王のような捨て台詞だ。いや、――小魔王か。

 ローチェリーナが言葉を途切れさせ、うつむくこと十数秒。



「――ん。あれ? あたし、一体……今まで何を?」



 向谷らしき人格が戻ってきた。こっちはこっちで意識を取り戻した時のお決まりの言葉を吐きやがるし、ったく、本来なら一発ひっぱたいてやりたいとこだが。今だけは小魔王から解放された向谷姫として丁重にもてなすとしよう。



「大丈夫か? 向谷」



 優しい言葉をかけてやろう。さっきまでさんざん身体を乗っ取られていたわけだしな。



「あ、千賀? あれ? 大野先輩も、いつの間に?」

「ん? よく分からんが、すまん遅れた……」 

「いえ、助かりました」



 向谷はいきなり現れていた大野先輩に驚いている。そりゃそうだわな。リボンの解けたままの向谷は前のようになよなよとした表情を見せてきた。



「……ん? なんかあったの?」

「覚えてないのか?」

「ん? お、覚えてないって、何をよ?」



 向谷の言葉に俺は安堵した。ローチェリーナは向谷を通して外の様子を見ていたようだが、向谷はそれが出来ていなかったようだ。ということは俺のさっきの馬乗られ姿も見られていなかったわけだ。良かった良かった。



「いや、何でもねぇよ」

「んっ! ……な、何すんのよっ」

「しっかり結んどけ」



 そんなしおれ向谷の角髪を俺は手元のリボンでしっかりと結び直した。

 その後は大野先輩の初の思考部活動参加記念テーマとして、「なぜ、柔道の帯の色はあの順番なのか」というとりとめのないテーマを思考した。



 こうして俺は恐怖の小魔王をなんとか封じ込め、帰宅した。スマホの振動音がした。画面を見ると向谷からメッセージだ。



『今日、なんかあった? あたし途中で息苦しくなってそっからきおく、あいまいなんだけど』

『いや、大丈夫だ。なんもなかった』

『うそつかないでよ』

『まぁ、うまく言えんが。ちょっと気を失ってたから椅子に座らせてた』

『そっか』

『まぁ、貧血かもな』

『うん。あんがと……』

『おう。あと、頭のリボンはしっかりと結んどいてくれ』

『なんで?』

『封印が解けるから』

『いみわかんない』

『まぁ、とにかく頼む』

『あんま強く結ぶと痛いからやだけど、がんばってはみる』



 強く結ぶと痛いって、毛髪に神経でも通ってんのか? まぁ、あんな激しく揺れ動く不思議な角髪だ。通ってても不思議ないか。



『よろしく』

『うん。じゃあ、おやすみ』

『おう……』



 とりあえずこれで良いか。リボンさえきっかり結んでたらもうローチェリーナが出てくることもないだろう。今日のことはもう忘れよう。



 ――にしても、いい匂いだったな、あいつ。鼻をさすりながら俺はローチェリーナの匂いを思い出した。


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