ローチェリーナは思考する1



 水曜日。今日も多野さんはお休みらしい。思考部のメンバーで作ったグループチャットに朝、連絡が入っていたのだ。まぁ、入学早々から人一倍色々と気苦労が絶えなかっただろうし。土日の向谷による養蜂場への呼び出しと、月曜のあの出来事。心休まる日はなかったのだろうから仕方ない。



 可哀そうに。そんな多野さんの一日も早い回復を願いたい。大野先輩も少し遅れると連絡があったし。なので俺は本日、部長とマンツーマンとなった部室で自分の席に着席した。

 


「今日も椎菜休みかぁ……つまんない」



 教壇の前で呟く向谷。実は今日、俺はこいつのせいで遅刻した。え? 「昨日待ち合わせしただろって?」ああ、したよ。でもな、遅刻したんだよ、こいつのわがままのせいでな。



「今日のテーマはどうしよっかなぁ。手旗信号の練習にしよっか」



 俺を遅刻させた部長は今日もやる気満々だ。黒板にあいうえおかきくけこと順に五十音を書いている。が、今日はそんなことをしている場合じゃない。



「おい、んなことよりあの本のことを話さないといけないだろ」

 向谷は板書をする手を止め、振り返る。



「もう! 分かってるわよ。でもなんか、いや」

「現実逃避すんな、現実を見ろ。今日はあの本、持ってきたか?」

「ある、けど……」



 そういうと自分の席に置いたバッグの中から例の赤い本を取り出す。



「この本、なんか嫌な感じするのよね」

「そりゃ、あんなヤバイ女から受け取った本だしな」

「いや、それもあるけど」

「けど?」

「この本を見てると、なんか、どきどきしてくるっていうか……」



 向谷は本を開き、ぱらぱらと紙をなびかせる。



「どきどき? ――あっ」



 その時、信じられない光景を目にした。向谷のチャームポイント? の頭頂部の角のような鋭い髪束。俺はそれを角髪つのかみと名付けた。その角髪の左角がゆらゆらと揺れている。以前に見た光景を思い出す。が、今日はまた一段と力強く左右に揺らめいている。



「お、おい……それ」

「ん? なに?」 



 俺が指さした頭頂部。そこを確かめようと向谷の右手が角髪を捕えようとしたその時――、



「うっ、な、なに、これ……あたま、痛い……」

「む、向谷!? お、おい、大丈夫か!」



 向谷は急に苦しそうに顔をゆがめ、前かがみになった。その様子に慌てて向谷を支えようと椅子から立ち上がり向谷の肩に手を添えようとした、が――



「……え?」



 突然左腕を掴まれ、腕がグイと頭頂部のリボンまで引き上げられた。



「む、向谷? だ、大丈夫か?」

「……苦しい。お願い、助けて……」

「た、助けてって。ま、待ってろ、いま、先生呼んで……」



 そう言って足を一歩引こうとした瞬間、力強く左腕を再度引っ張られた。



「うおっ!」

「……違う。そうじゃなくて、解いて欲しいの。リボンを、紐を……」

「えっ、ひ、紐? んなことしてる場合じゃ、いててっ!」



 なお強く、腕を引かれた。



「いいの。お願い……早く、しろ」



 そう言われてみた頭頂部。その頭頂部では驚きの光景が広がっていた。踊っている。向谷の2本ある角髪のうちの左側が楽しそうに。いや、楽しそうではないのか、苦しそうに悶えてんのか? まぁ、どっちにしろめちゃくちゃ揺れてる。



 マジか。これって、あれだ。あのバス停や養蜂場でみた光景だよ。 

 解いてくれって。紐を? 引いたら、ゆらゆら揺れてる角髪がリボンの拘束から自由になって楽になるんだろうか。だったら自分でやれや。と思ったが、昨日の今日だ。もしかして甘えてんのか? ふふっ、ツンデレってやつか。可愛いじゃねぇか。ま、実を言うとこの角髪のことも気になっていたし、いい機会かもしれん。決めた。よし、引こう。 



 恐怖心がないかと言われれば、正直嘘になる。それでも確かめなければならない、そう思った。あのバス停で奇妙な男子学生と出会った時、その後の養蜂場での向谷の言動、あの光のともっていなかった冷たい目。そのすべての理由はこの紐を解いた先にある。



「よし、待ってろ。今、解いてやっから」



 俺は左手でリボンの紐を引っ張る。次第に左側の角髪付近の輪がしゅるしゅる、と小さくなり、左角髪の動きがいっそう激しくなった。



「よし、これでいいか? むか――え?」



 声をかけようと向谷の顔に視線を移そうとした瞬間、突然強い力が肩に加わった。その正体は向谷の両手だ。さっきまであれだけ苦しそうだった向谷は下をうつむいてはいたが、俺を突き飛ばしたその口元がにやりとしたのが分かった。その両手に突き飛ばされ、俺はおもわず後ろへ3歩よろめいた。



「あ、あぶねぇ。お、おい、何すんだよ!」



 何とかコケずにすんだ。が、一体どういうつもりだ、こいつは。せっかく苦しそうだったところを助けて、やった、の、に――

 イラついていた頭が真っ白になる。それほどに驚いた。いや、恐怖した。 



 目の前の向谷は両目を目いっぱいに開き、俺を見つめていた。口角をあげながら。それだけ言うと「笑ってるだけだろ」と言われるかもしれない。が、違う。笑っているように見える表情に、俺はなぜだか恐怖の感情を抱いている。



「…………久方ぶりの外の世界だ。騙されてくれて感謝するぞ、人民よ」

「……へ?」



 な、なんて? 今、聞きなれない用語を聞いたような気がするんだが。それに今の声、本当に向谷か? 様子が変わったように見える目の前の向谷。その声色こわいろも普段の声よりももっと低く、どこか大人っぽいような落ち着いた雰囲気の声色だ。そんな一声を発した途端、今度は急に深くうつむいてしまった。



「あ、あの……む、向谷? きゅ、急にど、どうした?」

「……………………」

「もしも~し、む、向谷?」



 返答がない。向谷は下を向いたまま直立不動の状態を保っている。やはり具合が悪いのだろうか。俺は突き飛ばされ、3歩距離の開いた向谷との距離を元に戻すため、1歩、2歩と歩を進める。そして最後の3歩目を踏み出そうとしたその瞬間――。

 向谷はうつむいていた顔を正面にあげ、カッ、と両目を見開いて俺を見つめてきた。



「ひっ!!」



 その見つめられた大きな両目に俺はおののき、せっかく進めていた歩を2歩後退させた。これだ。この目だ。一昨日の養蜂場で向谷がしていた目。蜂の巣箱を会社に例え、そこから解放すると言っていたあの時の、冷たい目。

 


「……我が名は、ローチェリーナ」

「ん? ロ? な、なんて? 向谷? ……お~い!」

「我が名はローチェリーナ」



 向谷はオウムのように先ほどの言葉を繰り返す。聞きなれない言葉だ。



「ろ、ローチェ……リーナ?」

「左様。アリス・ヴィクトリア・タチアナシア・アム・ロアナ・ムカヤシオリアスローチェリーナ・ラスタナティアだ。われはこの国に革新をもたらし、人民を救うものである」

「……え……えっと」 



 ――聞いたことのない早口言葉だ。急にどうしたのだろうか。それにしても、さっきまであんなに具合悪そうにしていたというのに。良く噛まずに訳分からん早口言葉をペラペラと言えたもんだ。



「アリス・ヴィク……、えっと、何? 何かの呪文か?」

「聞こえなかったのか? 人民よ」

「じ、じんみん?」



 俺は周囲を見渡す。が、俺以外に人はいない。じんみんって誰だ? やはり様子がおかしい。俺はゆっくりと首を向谷に戻し、右手の人差し指で自分の顔を指さした。



「えっ、じ、じんみん? って、俺?」

「そうだ。他に誰がいるというのだ、人民よ」

「じ、人民って、ひとたみって漢字の、あの人民っすか?」

「無論だ。他に何があるというのだ、人民よ」



 ――――さて、どうしたらいいんだろうか? この状況。怒った方がいいのかな。「失礼だろうが!」って。でも、そういう気分にもなれないんだよな。だって、ねぇもん。『人民』呼ばわりされたことなんて。



 えっ、俺が今使われてる人民って、二人称? だよな。俺に使ってるんだし。『あなた』とか『貴様』とか『そなた』とかは聞いたことあるよ、俺もさ。でも、『人民』は初めましてだからさ。二人称に使っていいのかも知らんし、距離感が掴めねぇよ。



「じ、人民……って、あ、あの一応名前があるんですけど」



 俺はひとまず敬語で応対する。



「そうか。申してみよ」

「……千賀です」

「そうか。では千賀人民よ」



 余計に悪化した。北京原人みたいな言い方すんな。余計に恥ずかしいわ。っつか、こいつ多分わざとやってるよね? 何の冗談だよ、向谷。まさか本当に二重人格だなんてことは――ないよな?



「あの、そうじゃなくて――」


  

 ええい、この際もう名前はいい。それよりももっと重要な、聞かなければならないことはたくさんある。戸惑とまといながらも俺は目の前のろー、チェリーナとか名乗る向谷に問う。



「な、なぁ向谷。お、面白いと思うけどそろそろ元の話し方――」

「ローチェリーナだと言ったであろう! 貴様、知能は確かか?」



 一応もう一度。あえて向谷と問いかけてみた。が、向谷は頑なにそれを否定する。なのでここからは目の前の女をローチェリーナと推定すいていして会話しよう。解きかけた片方の紐が長くゆらゆら垂れている。



 でも、やっぱり向谷にしか思えないんだよなぁ。絶対に。何なんだろうな、こいつは。本当に向谷じゃないのか。なら、こいつが一体何者で何をしようとしているのかをこの際確かめておかなければ――非常に厄介そうではあるが。

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