アシーリュヴィキの血判書
「ん? なんだ、あいつ? いつの間に」
翡翠高校の制服姿の女子生徒はベンチに腰かけている俺たちを見つめていた。無表情で、笑顔一つ、微笑みすら見せず。
「なぁ、あの人誰かの知り合いか?」
「知らなぁい」
「私も知らない人です」
「そっか……。でも、めっちゃ俺たちのこと見てるんだけど」
「そうですね」
「そうね。……風紀委員とかなんじゃない? 買い食いしてるあたし達を教師にチクろうとしてるんじゃない?」
「は、はぇえ!?」
「ほぉら、椎菜。早く食べきっちゃいなさい? 食べてるとこ、撮影されちゃうわよ?」
「はぁああ!! は、はむ!!」
意地の悪い顔でにたにた笑う向谷に促され、多野さんは大急ぎで串についた残りのから揚げを口へ放り込んだ。
「あっはは! 早い早い!! いい食べっぷりじゃない、椎菜! あっはは」
「おい、多野さんをからかうなって!」
「あ~、面白い。で? あの女子……誰? なんかこっちに近づいてきてんだけど?」
笑いを止めた向谷は目を細めながら目の前を見つめている。その視線の先にはさきほどから俺たちを見続けている女子生徒がいた。
そのまま一直線に、どこにも視線を動かすことなく、そいつは向谷の目の前に立った。肩まで伸びた後ろ髪。前髪は目の上まできれいに下ろされている。どこにでもいそうな今風の女子生徒だ。ただ、1点を除いては。
「あ、あお……こ、こへは違うんれふ。つ、つひ、おいひそうらなって思って買っひゃったんれす……」
必死に手に持った買い食いの証拠を腰に隠し、言い訳をしている多野さん。が、もごもごさせている口のせいで台無しだ。と、そんなことはどうでもいい。目の前の女子生徒も多野さんの声など聞こえていないかのように視線を動かなさい。この女子生徒の目。俺はこの目をつい最近、見た。
あの時の、蜂の巣箱を見つめていた時に向谷が見せたあの目だ。凍りつくような、まるで光の感じられない目。それを向谷に向け続けているのだ。こいつはどう見ても風紀委員などではないだろう。
「……向谷栞」
「な、何? ってか、あんた誰?」
そんな女子生徒から向けられ続ける視線に流石の向谷も気後れしたらしい。顔をベンチの背もたれ側へわずかに引いた。
「私の存在なんてどうでもいい。私はこれを渡しに来ただけ。ツァルニシア、私たちの指導者に頼まれて」
「つ、ツァルニシア? って、なに」
そんな向谷の言葉を無視し、女子生徒は右肩にかけているカバンから何かを取り出そうとしている。そうして取り出されたのは、本だ。1冊の真っ赤な本だった。その本を向谷の前に差し出す。
「あなたは選ばれた。ツァルニシアに。偉大な私たちの白き神として……」
「ツァルニシア? ……白き神? 何言ってんのかよく分かんないけど。てか、もうちょっとなんか言ったらどうなの? さっきから意味わかんないんだけど」
「意味は分からなくていい。今は。この本の中にそのすべてが記されているから」
そう言うと女子生徒は手元の赤い本を向谷の鼻先に差し出した。
「……はぁ、もういいわ。話す気がないんならあたしもあんたに興味ないから。さっ、買い食いも済んだし2人とももう帰りま――」
そう言ってベンチから立ち上がろうとした向谷の動きがピタリと止まる。そして目を見開いている。それは俺も同じだった。多野さんも。
俺たち3人の視線が捉えていたのは銀白色の平たい金属。それでいてその先端は細く、鋭利。そう、刃物だった。差し出されていた本の下から刃物がせり出た。
驚きのあまり、声もでない。一体なんなんだよ、急に。こいつは一体誰なんだ? 翡翠高校の生徒なのか、それとも翡翠高校の制服を着ているだけの誰かなのか。それが分かったところで目の前の事態は解決などしないのに、考えずにはいられなかった。
「動かないで。動かれたらここを赤く染めないといけなくなるから」
刃物をさらに突き付けるでもなく目の前で淡々と語る女。
「…………な、なら……どうしろって……いうわけ?」
「この本を受け取ればいい。それだけ」
「この本を?」
「そう。そして読んで。理解して欲しい。私たちの理想を」
「り、理想をって。だから意味わかん――ひうっ!」
会話をしようとする向谷の顔の横を刃物が通り過ぎた。と、同時に俺はその刃物の根元にある女の左腕を掴んでいた。掴んだ刃物の先には両目を強く
自分でも分からない。頭の中で思考する間もなく、気が付いた時にはもう俺の右手の中には女の腕が入り込んでいた。
「……なんのつもり?」
女の声に俺は震える声を絞り出す。
「それは、こっち、が聞きた、いね。やめてくんねぇか。何の、つもりか知らねぇが、警察呼ぶぞ?」
ここはバシッと正義のヒーローみたいに自分で何とかするというカッコいい台詞を吐きたかったが、
「あなたには関係ない」
「いや、関係、あるね、向谷は、こいつは俺の入ってる思考部の、部長だ。わけわからんお前に、付き、合ってる暇は、ねぇんだよ」
「……意味が分からない。向谷栞は私たちの白き神。邪魔をするなら……殺すよ?」
「え? ――おわっ!!」
身体が突然宙に浮く。女の顔が逆さまに見える。何が起きたのかまったくわからなかったが、ドシャ。身体が痛み、女の顔が再び目の前に見えた。気が付くと俺の身体は公園の砂場に伏していた。――なんて馬鹿力だよ、こいつ。気が付いたら右手の中も空っぽ。そして目の前にすぐさま刃物が突き付けられた。
――やべぇな。このままだと刺されるか。でも。ここで、「すいませんでした。こ、殺さないでぇ!」て、命乞いすんのもどうなんだ? こんなやべぇのに命乞いが通じるかもわからんし、
「へっ、し、白き神がなんだか、知らんが、こいつは俺たち思考部の部長だ。そんでゆくゆくはRTC、って企業をつくるすげぇ、奴なんだ。こんなよく、分からん本を読んでやってる暇なんてねぇん、だよ」
言ってやった。俺は目の前の刃物と一緒に見えている赤い本に目一杯の
「じゃあ、死んで……」
俺の言葉を聞き終えた女は表情一つ変えることもなく、刃物を右手に持ち替え、それを高く掲げた。へっ。遠くで井戸端やっているマダムたちに見えないように頭より高い位置まで上げてないのが憎らしいねぇ。まぁ、俺を投げ飛ばすような怪力ならその位置からでも十分死ぬだろうよ。女が刃物を振り下ろ――
「や、やめてぇ!!」
と、思ったその時、向谷の震えた声が聞こえ、女の動きがはたと止まる。誰か気が付いてくれたか? そう思い、上にまたがる女との隙間から遠くのマダムたちを見渡すが、よほど大音量の井戸端なのか、こちらの事態に気が付いてはいないようだ。ババアどもが。気がつきやがれってんだ。女も今の声には少し動揺をしたようでわずかに周囲を確認し、その後向谷に視線を送る。
「あまり大きな声を出さないで。殺されたくないでしょ? この人を。ここにいる人たちも」
女はゆっくりと周囲を見渡す。その言葉を聞いた瞬間、俺は抵抗する気が失せた。こいつは本気だ。本気でここにいる全員を殺すつもりなのかもしれない。それに先ほど感じた視線、もしかしたら仲間かもしれん。こんな状況で俺ら3人でどうこうできる訳がない。向谷もそれを理解したかのように女の言葉にただただ小さく、こくりと頷いた。
♦︎
「…………悪りぃ」
「な、なんで謝んの!? あ、あたしこそ……ごめん。けが、しなかった?」
向谷はベンチに腰掛けながら右腕をさする俺を見ている。
「……おう。ちょっと擦りむいただけ」
「…………そっか」
その瞬間、俺を見つめる表情を緩めた気がした。
「む、向谷さん。……や、やっぱり警察にい、言った方が……」
「……ダメでしょ。それ」
多野さんに対する向谷の声もいつもの元気がない。いつもなら、「バッカじゃないの!?」って突っかかるんだろうが、そんな状況でもない。
「言ってたでしょ、あいつ。警察に言ったら身の安全は保障しないって」
「で、でも、ほ、保護してもらって」
「してもらえなかったら?」
「はぇ?」
「もし信じてもらえなかったらどうすんのよ? 高校生がいきなりこんな本持ってきて、『公園で女子高生に刃物で襲われたんですぅ』って言って信じる? もし信じてもらえなかったらあたしだけじゃなくて2人だって危ないのよ?」
向谷はバッグにしまった赤い本を多野さんに見せる。
「そ、それは……そうですけど……」
そう、女は向谷に忠告した。この本を読んでその思想を理解すること。この本のことを他言しないことを。そしてそれを破れば身の安全は保障しないと。いずれまた、回答を聞きにくると。
「でも、何なんだ? その本は」
「……知んないし。日本語じゃないんだからあたしに解るわけないじゃない。訳わかんないし」
先ほどとは打って変わって、俺の言葉に素っ気なく言葉を出すとふいっ、とうつむいてしまった。そして膝に置いたバッグの口を少し開け、先ほど女から受け取ってしまった赤い本をのぞき込んでいる。
その本にはこんな文字が書かれている。
Чернобог И Белобог
Асыливики
と。
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