向谷栞は暦を思考する2
向谷が黒板から離れると何やら見慣れない字ずらが現れた。 ”4日6月” 、黒板にはそう書かれている。月の下を黒板けしで消した縮こまった ”日” と、日の下にチョークって2本の線が付け加えられた ”月” 。その
「何なんだよ。その意味不明な文字は」
「あの……月と日が、逆になってます」
俺と多野さんが黒板に現れた4文字に困惑していると向谷は勢いよく教壇から再び近づいてくる。
「そうよ? 本来ならこの日付の月と日って、逆じゃない!?」
「…………は?」
「逆、ですか?」
こいつは一体何を言っているんだろう? 逆になっているのは黒板に書いてある文字の方だ。なぜこいつが月と日を逆にしたのかまったく理解ができない。が、向谷はきょとんとした表情の多野さんや俺を置いて話を続ける。
「明治時代以前、日本では
「太陰………」
「……歴?」
「何? 2人とも太陰暦を知らないの? もうっ。勉強不足よ? いい? 太陰暦っていうのは簡単に言うと月の形を中心に暦を数える方法なの。満月から次の満月までが一か月とかって決めて暦を数えてたわけ」
「……へぇ」
「そうなんですか」
俺は古典が嫌いだ。故に太陰暦とかなんか古典っぽい話はよく理解していない。というか、昔のことにそんなに興味はない。天動説とか地動説っていうのは昔の人間のほとんどが天動説っていう地球を中心に天が動いてるっていう話を信じてたっていうのを聞いて「まじかよ……昔の人間ってバカだったんだな」とか思ったりしたから、それは知ってる。
「でも、明治時代になって日本は西洋にならって近代化を目指す過程で太陰暦を廃止して新しく
「……太陽…………」
「歴……?」
「あんたたち……ねぇ。いい? 太陽暦っていうのは、太陽の周囲を一周する時間を1年っていう風にする暦のことなの」
「へぇ……」
「そうなんですか~」
多野さんも俺と同様に向谷の説明に関心している。どうやら多野さんも暦に関してはそれほど興味はないらしい。多野さんと共通点が見つかってうれしい。思わずにやけてしまう。が、顔をゆるめていると教壇の方から猛烈に威圧する視線を感じ、俺は慌てて視線をそちらへ戻す。
「……で、それがその文字と何の関係があるんだ?」
「まだ分かんないの?」
「おう」
俺は生返事を向谷に返す。正直考える気にもならない。4月6日という見慣れた文字が奇妙な順序に変えられている。黒板の文字を見るたびに気味が悪い。外もだんだん暗くなってきた。今日は夕方から見たい番組があるのだ。多野さんの素敵な顔も見られたし、もう早く帰りたい。俺は早く回答を聞くために思考するのを止めた。
「太陽暦を採用したとき。明治の偉人たちは1つ、重大なミスを犯した。それは……」
「それは……?」
「………………」
――何だよ。もったいぶんな。時間の無駄だ。早く話せ。俺は妙に間を空ける向谷に苛立ち、その持て余した人差し指で小刻みに机をたたく。
「それは……この日付の月と日の表記を逆にしなかったことよ!!」
「…………はぁ」
「『はぁ』、じゃない!! だってそうじゃない!? 昔の日本では太陰暦って月の満ち欠けを基準にしてたから月が先頭に来た表記でも良かった。でも、そのあとは地球や月が太陽の周囲を回っているっていう地動説にならって太陽暦を採用したのよ? だったら太陽を意味する日を先頭に持ってきてその日の中で1番目の月、2番目の月ってカウントしていくべきなのよ!」
「…………そうなんか? ってか、日付の月と日って月と太陽を意味してるのか?」
「え? そうなんじゃない?? 違うの? ねぇ、椎菜。日付の月と日って月と太陽を意味してるのよね??」
俺の素朴な疑問に対し表情を曇らせた向谷。
「あっ……と。た、たぶん……そう、だと思います」
「だよね~!」
向谷の問いかけに対し、多野さんは妙におどおどしながら向谷の考えに同意する。きっと恐れているのだろう。多野さんは先ほどまで姿勢よく座っていた椅子から姿勢を崩し、机の下に上半身の半分以上を隠している。まるで猫に追い詰められたネズミのように。
「ほらっ、椎菜もそうだって! だからやっぱり4
向谷は嬉しそうに1人で頷いて納得している。俺と多野さんはその様子をただただ椅子に座って見つけている。今日の部活動でも思考したのは奴1人だけだ。俺や多野さんは置いてけぼりを食らった。まぁ、俺は人差し指でなぜ人に指をさしてはいけないのかという裏テーマを1人で思考していたわけだが。
「というわけで、今日からこの思考部の部員たちには日付の表記の月と日をこのように正しく表記することを強要します!」
「……え?」
「はぇ??」
ぼんやりと思考の世界をさまよっていた俺の意識は教壇の上で黒板に書かれた ”4日6月” の4文字を勢いよくバンッ、と叩く音によって教室へ呼び戻された。
「な、なんだって!?」
「きょ、今日から? きょ、強制なんですか?」
「そっ。強制。これは命令よ!」
なんて奴だ。1人で勝手に考えて納得して、そしてそれをこの思考部という自らが統治する世界において強要してくるなんて。やっぱりこいつの思考は危険だ。独裁主義者そのものだ。
「そ、そんなの強要すんなよ! 今までこっちは4月6日を何度もやって来てんだ! 今日から4日6月の世界を生きていけるわけがないだろう!?」
「だって、この方がわかりやすいじゃない! 地球や月は日である太陽の周りを公転してるのよ? だったら1年を12分割するのが日、その日の周期が12回過ぎたらちょうどだいたい太陽の周囲を一周するんだからそっちの方がいいじゃない? 『
そう言って向谷は、「
「うわぁ! や、やめろぉ!! 頭の中がこんがらがる! 絶対そんな表記しないからな!」
「うっさい、うっさい!! これは命令よ!!」
なんてすさまじい独裁主義者予備軍だ。こいつもわがままを許してはいけない。俺は向谷の気迫に負けじと教壇の目の前まで行き、教壇の上で背伸びしている向谷の前に立つ。教壇に乗った状態の向谷の方に分があるか。ならば多野さんがこっちに加勢してくれれば。俺はそう思い、多野さんの方を振り向く。が、多野さんは席にはおらず、何やら教室の外を眺めている。
多野さん!? 何、のんきに外なんて見てんの!? 今、この部活は目の前の独裁者に支配されようとしてるんだよ!? さぁ、早くこっちに。一緒に目の前にいる小さな独裁者に立ち向かうんだ。
俺は窓際で外を眺める多野さんに歩み寄る。
「た、多野さん? 何見てるの?」
「お月様です」
「……お月様? あっ」
多野さんの見上げる視線の先に目を向けると、だんだんと暗くなり始めている空にうっすらと白い月が見えた。
「ふふっ、お月様がどうかしたの? 元主役だったお月様が?」
「うおっ!? 急に顔を出すな」
俺が多野さんの横顔を眺めていると先ほどまで対峙していた独裁者が勢いよく俺の前でジャンプして俺の顔の目の前に顔を近づけてきた。教壇のないフラットな床ではその方法しか俺の目の前に顔を出す方法がなかったのだろう。ビビる俺に勝ち誇ったような笑みを浮かべると、多野さんの横で呑気に月を眺めている。なんて自由な奴だ。
「今日のお月様はきれいですね……向谷さん」
「そう? いつもと同じ感じだけど?」
「まだ電気がなかった時代。お月様は太陽が消えた世界にある大切な明かりだったんだと思います。きっとそんな時代にお月様は世界の人たちにとっては太陽よりも愛着があったのかもしれません」
「……愛着?」
「はい。まん丸の時があったり、すっごく曲がってたり。色んな形があって可愛いなって」
「可愛い?」
「はい。それにお月様は太陽よりも地球からずっとずっと近くにいてくれる」
「……近くに……ねぇ」
「そんなお月様のことを昔の人たちはずっと好きだったのかもしれません。天動説や地動説なんて知らなくても。ずっとそばにいてくれる大切な存在として。だから、日付の表記もその時のまま残したのかもしれないなって私は思っちゃいました」
「…………そっか。そういう考え方もあるのね。なるほど。じゃあ、日付の表記はこのまま4月6日のままにしましょう」
「はい!」
そんな会話を終え、多野さんと向谷は仲良く並んで窓の外に高く上がった月を眺めている。すごいよ、多野さん。多野さんは多野さんなりに思考したんだ。月の価値を。昔の人々にとって月とは一体何だったのかを。それを主張し、多野さんは向谷の思考を変えたんだ。あれほど強情だった独裁者を。
――思考するってすごいんだな。正直、驚いた。俺は今まで日付に対して疑問に思ったことなんてなかった。こんなに身近な存在なのに。それが当然であることを疑わなかった。でも、向谷が黒板に示した4文字は俺の常識を破壊した。すさまじい破壊力だった。たったの4文字なのに。思考することで今までの常識なんて一瞬で破壊することはこれほどに容易なのだ。
俺は手元にある思考部の部活動用に買ったまっさらなノートの1ページ目にさらっと、そんな4文字を書き記した。
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