向谷栞はオノマトペを思考する1
「はぁ~、気持ちいい~~。やっぱり春はいいわね」
「そうですね~」
2人の女子高生が風に髪をそよそよなびかせ、ぽかぽか空を見上げている。向谷と多野さんだ。今日は学校が終わり近くの河川敷にやってきているのだ。思考部部長である向谷の命令で「たまには部室から出て部活動しましょう!」、ということで俺たちは学校近くの川へ来たのだ。
河川敷のちょっとした広場では小学生くらいの子どもたちがサッカーをしたり、自転車に乗ったスーツ姿の人が通り過ぎていくのが見える。俺たち3人は河川敷から川の方へ進んでゆき、川の近くの砂利場にしゃがみこんだ。
「さて、と。じゃあ、今日の思考部の部活動を始めるわよ?」
「『始めるわよ?』、って。今日は何をするんだ?」
思考部の部活動は基本、向谷を中心に回っている。一応部員である俺たちにも提案権はあるのだが、俺も多野さんもどんな感じのテーマがいいのかいまいち掴めず、いまだに一度も提案できていない。
「今日のテーマは、ずばりこれ!! 『さらさら~~』、『わ~~わ~~』、『チリンチリン!!』」
「……分かんねぇよ。なんだよそれ」
向谷は俺たちの前で元気よく立ち上がるといきなり「さらさら~~」とフラダンスを踊りだしたり、「わ~~わ~~」と声をあげて両腕を力いっぱい空に突き上げたり、「チリンチリン!!」と言いながら両腕を身体の前に突き出したりしている。
「鈍いわね、わかんないの?」
「分かるか!!」
「もう! オノマトペよ、お・の・ま・と・ぺ!!」
「オノマトペ??」
「オノマトペって……あの日常の音を文字にしたものですよね?」
「そっ! 今日はそのオノマトペを思考していきましょう!」
「オノマトペを思考する? って、新しいオノマトペでも考えるってことか?」
「そうよ」
向谷は元気よく俺に向かって右手の人差し指を突き出してきた。指をさすな、指を。
「オノマトペを考えていくって……そんなんもう日本にはたくさんあるじゃねぇか。ただでさえ日本はオノマトペが多い国なんて言われてるんだぞ? これ以上増やす必要なんてあんのかよ?」
「ふっ。甘いわね、千賀」
「な、何が甘いんだよ」
「オノマトペっていうのは今まで誰かが考えた表現なのよ? 犬の『わんわん』、猫の『にゃー』、オットセイの『アウアウ!』」
「まぁ、そうだな」
何故にメジャーな犬と猫の後にオットセイが出てきたのだろう。しかも地味にオットセイのマネが上手い。でも、確かに言われてみればそうだ。今、俺たちが何気なく使っている日常のオノマトペだって誰かが作ったものだ。だからと言って今更犬の鳴き声のオノマトペを欧米式にバウバウと表現したって誰もそんなオノマトペを使うことはないだろう。一体こいつはどんなオノマトペを考えるつもりなのだろうか?
「そして、あたし達が今日思考していくオノマトペ。それは、これよ!」
そう言って、向谷はカバンからガサゴソと何かを取り出し、それを俺に向かってポイっ、と投げてきた。何やら黒くて、細長くて、触覚が――
「なんだこ、うぉおおおおお!! ご、ごきびゅりぃい!!」
その物体に俺はゾワゾワっ、と背筋がこわばり、思わず後ろへよろけた。
「あっはは!! 何ビビってんの? ちょーウケる〜! おもちゃよ、それ?」
「……へ?」
そう言われ投げられた黒々とした物体をよく見る。うっすい身体に不気味な触覚。しかしその感触は生き物のものではなく、人工物、おそらくはプラスチック製のおもちゃ。よくあるいたずらグッズのゴキブリのおもちゃのようだ。
向谷はゴキブリのおもちゃにビビっている俺を見ながら小学生のようにケタケタと大笑いしている。身体つきもそうだが、どうやら頭の中も小学生並みらしい。とても高校生の行動とは思えない。
「何なんだよ。ったく……ってか、何でこんなもんバッグの中に入れてんだよ?」
「痴漢対策……」
「は?」
「だから、痴漢対策よ、痴漢対策! 痴漢にあった時に使うためのグッズなの!」
「痴漢対策ってお前……」
向谷の説明に俺はポカンと口を開けたまま固まってしまう。一体どこの女子高生が痴漢対策にゴキブリのおもちゃをバッグに忍ばせているというのだろうか。きっと日本でこいつくらいなものだろう。そもそも痴漢対策で満員の車内でこんなリアルなゴキブリのおもちゃが放たれたら車内はたちまちパニックになるだろう。
「……されたことあんのか? 痴漢……」
「…………ない……けど」
ないんかい。だったらこの精巧な作りのゴキブリは長い間、こいつのバッグの中で高校生活を見届けるのだろう。3年間一度もお天道様を浴びることもなかろうよ。
「で? 今日はこのお前のお気に入りのゴキブリのおもちゃに相応しいオノマトペをみんなで思考してくってわけか?」
「違うわよ! ゴキブリのオノマトペはもうあるじゃない。『カサコソ』っていう不気味なオノマトペが」
「なら、何を思考していくんだよ?」
「このゴキブリと同じ、昆虫全般のオノマトペをよ!」
「うおっ! こっちに向けんな!!」
良くぞ聞いてくれたとばかりに俺の顔の間近にゴキブリのおもちゃをグイッ、と近づけてくる向谷。
「虫さんたちにオノマトペを付けていくってことですか? 向谷さん」
「その通りよ、椎菜!」
「はぇ~、何か面白そうです」
多野さんはどうやら乗り気らしい。まぁ、多野さんが乗り気なら俺もこのバカな思考に付き合ってやるとするか。
「昆虫のオノマトペってまぁないわけじゃないのよね。『あれマツムシが~~鳴いている~~、チンチロチンチロチンチロリン』とか、『コロコロコロコロ、コオロギや』とか。鳴く虫にはちゃんとその声に相応しいオノマトペがあるじゃない?」
「そうだな。セミの鳴き声は『ミ~ンミ~ン』や『カナカナカナカナ』とかあるしな」
「カエルさんも『ケロケロ』とかオノマトペがありますよね?」
「カエルは昆虫じゃないから。今日のテーマは昆虫のオノマトペなの。関係ない両生類を出さない!」
「はぇ……す、すみません」
「そんなに怒らなくてもいいだろ……」
多野さんのちょっとしたミスにバシッ、と厳しいツッコミを入れる向谷。うろたえる多野さんを無視して何やら視線を下に向けて砂利を凝視している。
「でも、鳴かない虫たちにはオノマトペがない!!」
「鳴かない……虫?」
そう言って向谷の視線の先に目を向けると、そこにはミミズやアリがいた。鳴かない虫とはこいつらのことなのだろう。
「まぁ、そりゃ……鳴かないからな」
「それってどうなの!? 可哀そうじゃない!?」
向谷はズイッ、と俺の顔に顔を近づけてきた。
「可哀そうって言われても……ねぇ?」
急に近づけられた顔から逃げるように俺は顔を上げ、向谷の後ろにいる多野さんに助けを求めた。多野さんも向谷のあまりの気迫に思わず苦笑いを浮かべ、顔が引きつっている。
「鳴いている虫。秋の虫やセミは鳴くからオノマトペが付いてる。でも、鳴かない健気なこのミミズやアリにはオノマトペがない。そんな昆虫たちにあたしたちがオノマトペを付けてあげましょう!」
まったく……なんて突飛な考えなのだろう。砂利で動いているミミズやアリは人間に注目されることもなく静かに暮らしているというのに。今、これらの昆虫たちは身勝手な人間によって勝手にオノマトペが与えられようとしている。
ん? 待てよ? ミミズって……昆虫か?
疑問に思った俺はスマホで「ミミズ 昆虫」と検索した。すると、ミミズは環形動物に属しているらしい。
「おいっ、これ」
「ん? 何よ?」
俺はスマホで検索したミミズの分類画面を向谷に見せる。
「ミミズは昆虫じゃねぇぞ?」
「……いいの。別に」
「いや、良くないだろ……」
「いいのよ! そんな細かいことは。あたしの中では地面にいるのはだいたい昆虫って認識だから」
地面にいるのはだいたい昆虫って。ざっくりしすぎだろう。そんなことを考えていると、向谷は突然地面に落ちている紐を拾い上げた。いや、よくよく目を凝らしてみてみるとそれは紐ではなかった。つやつやと光沢があって、何とも表現しにくい色味で、うねうねと動いていて――、
「うぉおお!! お、おい!! ミミズを拾い上げんな!!」
「え? 何?」
「お前、それでも女子か!?」
「は? 女子がミミズ拾っちゃいけないって法律でもあんの?」
「そ、それは。な、ないけどさ……」
ミミズってあれだよな。あそこを
「だったら叫ばないでよ。今からこのミミズの動きにオノマトペを付けるんだから」
「ミミズの動きに……オノマトペ?」
「そうよ? ミミズが『もぞもぞ』と動いている。……これじゃ面白くない。『もぞもぞ』っていうオノマトペはミミズ以外の芋虫や毛虫にだって使えちゃうから。文章っていうのは豊かな文字表現があることによってより豊かなものになっていくはずなの! だからミミズにはミミズの。この動きに相応しいオノマトペを作ってあげることが必要なのよ?」
「必要なのよ?」、と言われても。必要なのだろうか。そもそもミミズが出てくる文章自体があまりないような気がするのだが。であれば、せっかく考えたオノマトペも暇を持て余すのではないだろうか。そんなことを考えながら真剣な表情でミミズをまじまじと見る向谷の顔を見る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます