向谷栞は灌仏会を思考する1
大野先輩の入部の翌日、今日は8日金曜日だ。今日をやり過ごせば俺はようやく安寧の土日を過ごすことができる――予定だ。目の前で黒板に今日の思考部のテーマを書いている女が余計なことを言わなければ。
向谷は上機嫌で黒板に板書をしている。今日は放課後すぐに向谷が俺の教室へ走ってきた。すでに多野さんが左手に捕まっていて、俺も2人とともに大野先輩の教室に行って入部届を書いてもらってきた。
この思考部には顧問の先生がいないのでその入部届はここの教室、1年A組の担任である加藤先生、カト先に向谷が手渡した。本来ならば顧問の先生がいなければ部活として活動はできないのだが、まずは顧問の先生を見つけることを思考部の第一優先事項と約束してカト先は一時的に仮顧問となっているらしい。
にもかかわらず、その約束を
本来の顧問である吹奏楽部の活動が忙しいのだろう。「早く顧問の先生を見つけてくれよ、向谷」というカト先の言葉に向谷は適当に「はい」と生返事をしていたから、どうやらまだ顧問の当てはないらしい。
まぁ、大野先輩も柔道部の活動が月、火、金と週3であるから思考部の活動はできても水、木だけらしいし、この思考部の顧問はそんなに負担はかからなさそうだ。
それでも見つかるかどうかは分からないが。
そんなことを考えているうちに今日のテーマが黒板に記された。
”灌仏会”
――――なんだろうか。黒板には灌仏会という漢字3文字が書かれていた。3文字のうち仏と会という字は見たことがあるが、最初の文字はなんだろうか。見たことがない。使っている文章も見たことがない。まったく未知の漢字だ。
「今日は
「灌仏会? ……って、何ですか? 向谷さん」
へぇ、灌仏会っていうのか。初めて聞く言葉だ。でも、祝うってなんだ? 何かけでたいことでもある日なのか?
「なぁ、向谷」
「質問があるときは挙手!」
挙手って。お前の目の前に2人しかいないんだから誰が発した声かくらい分かるだろうに。挙手ってのは普段1クラス分の生徒を統制している先生がやることだ。めんどうくさい奴。
「なぁ、向谷」
「何ですか? はい、千賀君!」
「灌仏会ってなんだ?」
「はい、灌仏会とは仏教をつくったお
「はぇ……お祝いですか?」
「そっ。日本国民は
「あっ、最近はハロウィンじゃなくてハロウィーンって言うらしいですよ?」
「うるさい。――黙りなさい、椎菜」
「はぇええ……す、すみません」
多野さんが怒られた。いつものことだ。気に入らない意見については露骨に嫌な顔をして相手を黙らせる。こいつの悪いところだ。せっかく多野さんは今どき~〜なぁ、呼称を教えてくれたんだ。素直にその危険な思考で満たされた脳内をアップデートしたらどうなんだ。と、そんなことは口が裂けても言えないのだが。ぎゃあぎゃあ騒がれるから。
「なんで日本人は海外の文化ばっかり祝うの? ありがたがるの!? このまま外国文化に日本を侵略させてはならない! 今こそ日本古来の仏教の伝統を取り戻すのよ!」
「あ、あの……向谷さん。でも、仏教も確かインドから来たものだからそれも海外の文化にな「静かにしなさい。椎菜」――は、はぇえ……す、すみません」
また多野さんが怒られてしまった。よし、ここは俺の方に向谷の意識を向かせることにしよう。
「その……灌仏会ってのは、具体的にどう祝うんだ?」
「ふふっ……よく聞いてくれたわね」
「お、おう」
良かった。ちょっと機嫌がよくなったらしい。こういう時は変に口答えせずに話に乗っかってやればいいのだ。
「一般的には4月8日の灌仏会には、お寺に行って甘いお茶をお釈迦様の像にかけたり、飲んだりする……みたい、な。感じ、らしい、わ」
「へぇ。なんか……よく分からんな」
どうやら灌仏会とは甘いお茶を飲むということらしい。
「なんか……ちょっと、地味ですね」
向谷の灌仏会の説明に対し、多野さんはあれだけ怒られた直後にも関わらず果敢に向谷に話しかけた。多野さんはなかなかにガッツのある子だ。そのふんわりとした見た目から想像できないほどに。そう考えると多野さんも向谷や大野先輩のようにどこか普通ではない思考を内に秘めているのかもしれない。
「そう! そうなの、椎菜! 地味、まさに地味なのよ!」
「えへへっ」
今度は怒られなくてよかったね、多野さん。多野さんの顔も仏のように晴れやかだ。
「灌仏会をどんな風に祝ったらいいのか何となくふんわりとしていて分かりにくい。あたしはそれこそが灌仏会が日本に周知されていない理由だと思うのよ! ……日本人はねぇ、何をしたらいいか分からないのが一番苦手なの」
「何をしたら分からないことが苦手……ですか?」
おっ、これはまたこいつの独自の思考がこれから語られる雰囲気だ。はてさて、今度はいったいどんなとんでも思考を披露してくれるのか。楽しみなものだ。
「さて、質問です。お正月とは何をする日でしょうか? はい、千賀」
「えっ、そりゃ……鏡餅を飾って、神社に参拝する……とか」
「はい、そうね。じゃあお花見は何をする日かしら? はいっ、椎菜!」
「は、はい……えっ……と、桜を見ながらごはんを食べる日です」
「んっ。ま、まぁ、だいたいそんな感じよね。他にもひな祭りにはひな人形を飾ってひなあられや
ひな祭りや子供の日は女の子や男の子の成長を祝うのであって、別に食べる日ではないと思うが、まぁいいか。こいつの話を聞いてやろう。
「こうした日本のイベントに外国文化は巧妙にもぐりこんできた。それがバレンタイン、ハロウィン、クリスマスなの」
「そ、そうなのか?」
「だってそうじゃない? この3つのイベントはねぇ、日本人が苦手な ”何をしたらいいか分からない” っていう問題をクリアすることで見事に日本に根付いたのよ。『バレンタインというのはチョコを食べる日なんだぞ。いいか? クリスマスというのはな、チキンとケーキを食べる日なんだぞ?』ってね」
「はぇ。そ、そうなんですか?」
多野さんは向谷の話を真に受けて純粋に驚いているが、もちろんそんなはずはないだろう。
「でも、ハロウィンだけは日本人にかぼちゃを食べる日だという認識では広がらなかった。いまいち盛り上がらなかったのね。そこでハロウィンは手法を変えて、『いいか? ハロウィンの日はなぁ、渋谷で仮装してバカ騒ぎしていい日なんだぞ』って言う認識をあたし達日本人に植え付けたのよ! まったく、なんて恐ろしいイベントなのかしら。いやぁ!! このまま外国文化に好き勝手されてたらあたし達の国はめちゃくちゃにされちゃうわ!」
そうなんだろうか。向谷は何か外国の陰謀によって日本に続々と悪しき文化が流れてきているような言いぐさだが、ハロウィンをあんな
俺たち日本人が、日々のストレスを上手く処理できずにいたがためにその1年分のうっ憤を晴らすために作り替えられた悲しきモンスターイベント。それがあの渋谷のハロウィン、いや、ハロウィーンなのだろう。
「そんな外国文化たちに対抗すべく、この思考部では灌仏会を素敵なイベントとして日本に根付かせます。じゃあ、さっそく思考を始めましょう!」
向谷はそう言うと黒板にカッカッ、とチョークで力強く灌仏会の現在の祝い方やその他の現在日本で祝われているイベントを書きだし始めた。
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