向谷栞、思考停止する

 


 ”資本主義と共産主義、どっちもビミョーなんで第3の主義を思考しています。”



 思考部に入部して2日目の4月5日。俺は黒板にでかでかと書かれた1つの文章を見つめている。入部して2日目。早くも俺の青春に暗雲が立ち込める。



「はいっ! じゃあ、今日はこの文章中にある句読点を思考します!」

「……はい」



 句読点。文章において文体を分かりやすくするあれである。向谷の話では日本の句読点の起源は中国から来たもので、それが明治時代になり西洋から「,」と「.」が入ってきて今の形に落ち着いたのだというたぶん嘘

 


「じゃあ、今日はこの句読点の句点がなぜ西洋から入ってきた『.』じゃなく『。』の形になったのか思考していくわよ? いい?」

「……お、おう」



 そう、今日のテーマは句読点の句点について。西洋風の「.」ではなく、なぜ現在の「。」という形になったのかという内容だ。正直、句点が「.」でも「。」でもどちらでもいい。今、俺はもっと気になっていることがある。



 ”資本主義と共産主義、どっちもビミョーなんで第3の主義を思考しています。”

 目の前に書かれている文章だ。なんだよあれ!? 第3の主義を思考って。現在進行形じゃねぇか! ……やべぇよ、こいつ。絶対まだ資本主義や共産主義に代わる第3の主義を諦めてないよ。そしてそのことを隠す気がゼロなのも怖い。俺は改めて目の前の向谷に少しビビっている。



 が、ここは冷静に。大丈夫だ。こいつの今の第一目標はRTCの創設。Roroho――、なんちゃらを創ることだ。俺が部員としてしっかりと思考し、向谷がRTCを創り、やがて俺はそこの役員になる。うん、それでいい。だから今は目の前の文章中の句点だけに意識を集中させるのだ。



「あたしはこの.の存在感のなさが原因だと思うの」

「……というと?」

「ほらっ.英語やその他の西洋の文字って大文字があるじゃない? だから実際にはこの.の存在感がなくても大文字を探せば文章の先頭が分かるのよ」

「なるほどな……」

「でも、日本語では大文字もないし、昔の文は主に漢字で書いてて文章の区切りが分からない.だから西洋のこの.を使ってみたけどこんなゴミみたいなちっちゃな点じゃ漢字の中で存在感がない.『あれ? あのちっちゃい.どこ行った?』ってなってたと思うの」

「ふんふん」



 ゴミという表現はいささかどうかと思ったが、向谷の考えはなかなかに説得力がある.確かに大文字がある西洋文字と異なり、漢字が主体である文章中であのちっちゃい点は埋もれてしまうだろう.



「ということで『.』じゃなくてもっと大きくはっきりと『。』って表記にしたんじゃないかしら? 千賀はどう思う?」

「え、俺? ……そうだな」



 向谷に問われ俺は思考する.



「俺はあの.が筆で書くのに適していなかったから、だと思う」

「筆で書くのに?」

「昔、文字を書く際は主に筆を使っていただろ?」

「そうね」

「なら、あの.を筆で表現しようとすると一点に筆を押し当てる必要がある.その時、その箇所がふやけてしまったりしてたんじゃないか? だから『ああ! 毎回毎回この.書くたびに紙がふやけて.うざってぇ! よしっ、ま~~るっと! ……これで良しっ』ということで紙がふやけない『。』にしたんじゃないだろうか?」

「なるほどね.『。』なら筆で書いた際も墨が一か所につかないし、より大きく書けて目立つわね.なかなかいい思考ね、千賀!」

「あっ……どうも」



 ――――なんだろう.この虚無感.これを思考したからといって、その理由が分かったからといって何になるのだろうか.もっとも、こんな思考部に入部してなければ句読点の「。」の由来など永遠に考えようともしなかっただろうから良かったような気がしないでもない.が、こんな感じで俺は今後3年間思考し続けていくのだろうか.そんなことを思っていると突然、思考部の後ろの扉でガラガラッ、と音がした.



「……あれ? ……あの~、すみません。ここ……お料理部ですかぁ?」



 声の先に視線を向けるために振り返ると、女子生徒が左足を一歩部屋に踏み入れながらひょこっ、と覗き込んでいた。



「なんか用? ここは思考部なんだけど。料理部は東館の3階じゃないの」

「はぇ~、お料理部じゃないんですかぁ。間違えちゃいましたぁ。じゃあ……」

「ちょっと待ちなさい」

「はぁあああ!! はぇ? な、何するんですかぁ?」


 

 捕まった。のほほんとした雰囲気のその女子生徒はあっという間に向谷の左手に捕獲されていた。会話しながらも器用に距離を詰めていたからね、そいつは。



「あなた、お名前は?」

「はぇええ! た、多野。多野たの椎菜しいなですぅ」



 たのしいな――か。そりゃ、楽しいだろうな。あんなに可愛かったら。向谷に捕まったその女子生徒は垂れ気味の目にクリーム色の髪でとても上品な見た目だ。捕まった状態でも必死に四肢ししをぱたぱたさせている姿はとても可愛らしい。



「あ、あの……はなしてください」



 放してくれるわけがない。放してと言ってそうするなら、最初からそいつは捕縛ほばくしないはずだ。用があるから捕縛されたんだよ、多野さん。  



「わ、私、お料理部の見学に行こうと思って……間違えちゃっただけなんですぅ」

「ふ~~ん。……それはいけないわ」

「はぇ? な、何がですぅ?」

方向音痴ほうこうおんちはねぇ。しっかりと思考していないからこそ起こる現象なのよ?」

「はぇ? そ、そうなんですか?」

「そっ。ちゃんと自分の今いる場所を確認して、そこからどう歩いたら目的地にたどり着けるか思考していないから校内で迷子になったりするの。……いけないわぁ、これはいけない。料理部になんか入ってる場合じゃないわよ。このままじゃあなた、どこに行くにも一生迷子になっちゃうわよ?」

「そ、そうなんですかぁ」



 向谷は左手でしっかりと多野さんを捕えながらさとしている。きっと思考部に入ってもらう気なのだろう。実にわかりやすい。



「でも、大丈夫! この思考部に入ってちゃんと思考する習慣を身につければあなたの方向音痴も直るわ。どう? 思考部に入らない?」



 ほら、やっぱり。



「あ、あの……」

「ん? 何?」

「思考部って……何ですか?」

 まぁ、そうだよね。気になるだろうね、聞いたことない部活だし。

「え? あっ……そ、そうよね。思考部っていうのはね――」



 向谷は多野さんに思考部について説明を始める。が、多野さんの表情はとても硬い。まるで怯える小動物のようだ。それはそうだ。思考部なんていう謎ワードを出されていきなり初対面の女にがっしりと肩を掴まれているのだから。



「どう? 分かったかしら?」

「はい。……なんか、へんてこな部活なんですね」

「ぐっ!」



 多野さんの容赦ようしゃのない言葉に向谷はよろめき多野さんの肩から左手がはなれる。と、そのチャンスを逃すまいと多野さんは急いで部屋から出ていこうとした。

 ――が、今度は伸びてきた右手に捕まってしまった。



「あぁ!」

「いい? もう一度言うからよ~~く聞きなさい? 思考部に入ればその方向音痴が直るの。東館3階にある料理部に行こうとしてこんな全然違う場所にやってきちゃうそのとんでも方向音痴が直るのよ?」

「うぅ。で、でもやっぱり私はお料理部に入りたいので……それに方向音痴は、私の個性なので……」

「……は? 個性……? …………個性、個性? 個性? 個性?」



 ――――――!? な、なんだ!? 向谷の様子が急に変わった。急に動かなくなった。それに視線。一体どこを見ているんだ? 向谷は何もない窓の外に視線を向けたままぶつぶつ呟き始めた。



「じゃ、じゃあ……その、し、失礼しま。あっ!」



 多野さんは向谷がよそ見をしている隙に再び失礼を試みる。が、多野さんの身体はビクとも動かない。それどころか今度はせっかく離れた左手にも捕まり、両手でガシッ、と力強く向谷の身体へひきつけられてしまった。



「はぁええ!? な、なんですか!?」

「――入んなさいよ」

「……はぇ?」

「入んなさい入んなさい入んなさい人んなさい入んなさい入んなさい入んなさい入んなさい入んなさい入んなさい入んなさい入んなさい――」

「は、はぇええ!? な、何ですか!?」

「入ってよぉ~~、入ってくんなきゃや~~だぁ~~~!! や~~だぁ、や~~だぁやだぁ!!」

「はぇええ!? こ、この人……こ、怖いですぅ!!」



 な、なんだ!? 一体、何が起きてるってんだ!? 向谷の様子がやっぱりおかしい。まるで聞き分けのない、駄々をこねる子どものように引っ張った多野さんの体を揺さぶり始めた。前後にぐわんぐわんと揺さぶられまくっている。このままだと多野さんが危ない。何か、何か、――そうだ!



「向谷!!」

「……え? んぐっ!!」



 俺は向谷からもらっていた塩こんぶの封を切り、それを向谷の口に突っ込んだ。

 先ほどまで大暴れしていた口元から、ちゅぱ、ちゅぱ、ちゅぱ――と、塩こんぶを噛みしめる咀嚼音そしゃくおんが聞こえ始める。その隙を見て、俺は多野さんを向谷の両手から解放した。



「だ……大丈夫ですか? け、怪我は?」

「あ、ありがとうございます。……えっ……と……」

「あっ、俺、千賀です。1年C組の千賀大地」

「そうですか。私は1年B組の多野椎菜と申します。助けてくださりありがとうございます。あの……この方は……」

「ああ、えっと……こいつは向谷。1年A組の向谷栞っす」



 俺は塩こんぶをくわえて大人しく黙っている向谷の代わりに自己紹介を紹介する。 



「向谷さん……大丈夫でしょうか? 急に静かになっちゃいましたけど……」

「さ、さぁ……?」



 ちゅぱ、ちゅぱと塩こんぶをしゃぶる向谷を見続けること約30秒。ようやく口内の塩こんぶが食道を通じて胃へと運搬うんぱんされたのだろう。咀嚼音が聞こえなくなった。



「………………あれ? あたし何してた?」

「あっ、戻ったみたいっす」

「良かったですぅ」

 ふと向谷の顔を見ると、先ほどまで多野さんに見せていたしかめた面に戻っていた。

「覚えてないのか?」

「え? 何が?」



 こいつは驚いた。先ほどまであれほど聞き分けのない子どものような態度をとっていたのに。



「何がって……さっき変だったぞ? 動かなくなったと思ったら、急に取り乱したように多野さんにからみだして」

「ん? ……あっ! ま、またやっちゃった……思考停止しちゃってた……」

「し、思考停止?」

「そっ。あたしってあまりにも相手が理解不能な発言をしたり、奇妙な行動をとってるのを見るとその理由を思考しすぎちゃうの。それで頭の中がショートしちゃうのよ……。さっきこの子が方向音痴は個性とか意味不明なこと言うから……」

「へ、へぇ~。そうなんだ」



 怖い。さらっと説明してるけどショートってなんだ。ロボットか、お前は。普通の人間には起こりえない現象だ。それほどにこいつの頭の中の脳神経は活発に活動しているというのだろうか。さっきの塩こんぶのぬめりがこいつのショートした脳神経を繋ぎなおして思考回路が再起動したのだろうか。いずれにせよ、また向谷の不思議な特性が明らかになった。

 これは意外に使えるかもしれない。もし、今後こいつが危険な思考をし始めた際は意味不明な言動をとってその思考を妨害してやるとしよう。



「もうっ。方向音痴は個性じゃなくてただの短所なのよ? 分かる? ……で、どう? 入るわよね?」

「えっと……あの……」



 一難去ってまた一難。正気に戻った向谷は再び多野さんに近づく。まるで小さなねずみに詰め寄る凶暴な猫のように。  


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