夏の魔物
水田真里
第1話
チョークの擦れる音だけが耳を貫く。風もなければ消しゴムのひとつも落ちない。音を立てることすら少し怖くなる。あ、誰かくしゃみをした。2つ隣の席からは咳が聞こえる。何故だろう。生理現象は機を見計らったみたいに立て続けに起こる。これが同調圧力の賜物であれば、思春期の複雑系にはすぐに説明がつきそうだ。
私は、カフェで「いつもの」と伝えるように寝たふりをする。ただ、寝たふりをする。誰かの幻影をなぞるように。
うちのマスターは少し変わっているようで、コーヒーの代わりにチョークを、しかも投げて客に出すらしい。
その犯行現場を窓際の、まさに夏を体現したような少女は、笑うような、慈しむような、形容しづらい顔で見ていた。
家までの距離と流れる汗は反比例するらしい。沈んで見えなくなったって陽は許してくれない。
「おかえり。暑かったでしょ」
ベランダの縁に少女が一人。水色のワンピースに頭のふた周りはある麦わら帽子。今にも折れてしまいそうな彼女は、あの帽子をかぶるために生まれてきたのかもしれない。
危ないから降りな
私はその時どんな表情をしていただろうか。
寒気がする程度の間が空く。
「それって、冗談?」
彼女は言うことを聞かず、薄い笑みを浮かべる。話が通じないのは四年前から何も変わっていない。ガラス細工のような綺麗な黒髪は、水を得たように風に
なびく。口元は緩んでいるが、虚ろな目は光をともしていなかった。
私は確信した。
夏の魔物が現実に存在するなら、それは間違いなく、
彼女だ、と
4年前
その日は涼しかった。夏みたいに暑いと感じることがあれば、冷たい風が顔を出す日もある。夏を追いかけているようで、今日みたいに裏切る。春は不安定で中途半端だ。
「私、嫌われてるんだよね」
ぽつりと零す。彼女はいつだって苦しい素振りは見せない。
「……………」
彼女はカラッとした声色で、
「まずは親でしょー、あいつらは私じゃない誰かを見てるみたい。きっと、顔なんかちゃんとみたことないんだよ。クラスのみんなもそう。人ってさあ、自分が持ってないもの持ってる人見ると、ね、虐めたくなっちゃうんだよ。」
「君もそうでしょ。」
有無を言わせない力がその目にはあった。
私は首を振る。
「うわぁ、さすがに傷つくよぉ」
彼女は吸い込むような目で私を見ている。腰にまで届きそうな長い黒髪は風をまたいだ。
もう緑色になってしまった桜が似合いそうな、春が似合う少女だった。
彼女は私が好きだ。
分かりきっている。あの日から。ずっと。
「今日で終わりにしよう
もう終わってはくれないだろうけど」
彼女はどんな表情をしていたんだろう。陽は彼女の顔を他に見せるのを拒んでいるようだった。
残酷にも、この日で終わらせるなんて平和な解決を、春は許してくれなかったが。
5年前
「初めまして、私は浅見渚。よろしく」
中二の春、彼女は笑みを浮かべながら現れた。
私は、その顔を覚えていた。忘れようとしたって忘れられない。押さえ込もうとしたって隙間から溢れてくる。
できれば私は、その顔を拝みたくなかった。
夏にはもうクラスは5つか6つの集合に変わっていた。
「私、この名前嫌いなんだよね」
彼女は手を額に当て、目を薄く開きながら窓の外を見つめている。真意が不明で、私は困った顔をしていたと思う。
彼女はそれを見て、人形みたいに笑った。
「私の名前って渚ですごい夏っぽいじゃん?私夏嫌いだからさぁ」
やっぱハルとかのほうが良かったな、と消えてしまいそうな声で呟く。
「君もそう思うでしょ?」
私は首を振る
「あ、そう、なんだ。君は未だにそうなんだ、変われないんだよね?試しにハルって呼んで見てよー、ねぇ?」
私は首を振る。
「ねぇ、こっち見て。」
彼女の手は私の顔を掴んで離さない。
私は屈っするほかなかった。
「よくできました。やっぱ君はいい子だねぇ。じゃあご褒美にぃ……」
その目で見つめられたら、どうやっても抗えない。
体は力を失ってしまって、彼女の思うまま。
「やめて」
それはかろうじて声になった。本当の悲鳴は悲鳴にならない。
「嘘つきー、本当は楽しいんでしょ、嬉しいんでしょ?」
うるさかったセミはもう軒並み休みに入っている。
「だって」
「君、さっきからずっと笑ってる」
そう、私は壊れてるんだよ。3年前から。
私は恋をしていた。どうしようもできなくなってしまう程の。
それは初めてだった。空っぽの私は彼女を想えるだけで満たされていた。
もう恋はできなくなってしまった。
忘れることも、できなくなってしまった。
夏の魔物は私を閉じ込め、離さなかった。
夏は嫌いだ。
消すことの出来ない遠い夏の思い出は忘れた頃に私を蝕みに来る。陽は眩しすぎて、目を薄く開いたって直視できない。
一緒に行った夏祭り、少々寂れて閑散としたプール、
消えかけた文字の看板のかき氷屋。
思い出すだけで頭が痛くなる。忘れたくないが思い出したくもない。渚の言っていた通り私も彼女も、未だに「そう」なんだろう。
「花火、綺麗だね」
君は物語から出てきたような美しい横顔をしていた。
「君って、本当に泳げないんだね」
君は泣き笑いしそうなほどに口を歪めていた。
「くぅー、やっぱ頭痛くなるなー」
君はそれでいても楽しそうだった。
何年か前の記憶は昨日のように鮮明だ。だからこそ今日も私を苦しめ、今すぐにも消えてしまいたい焦燥に駆られる。
「君、こっち来なよ」
彼女は記憶の中でも彼女そのものだった。
彼女について行ってしまいたい。今すぐにでもこの苦しみから逃れたい。
それは春の魔物が許してくれなかった。
春の彼女はあの夏よりずっと昔から私を好きでいてくれた。どうしようもないほどに。周りから憎悪の目を向けられたりしても。
私は夏の彼女が未だに忘れられない。思い出してしまい体を蝕まれては、彼女の幻影に身を委ねる。私たちはあの夏から1歩も進めてはいない。
4年前
「これで終わるんだね。」
終わらない
「罪、償いきれるかな」
償いきれない
「あの子は多分許してくれない」
私も許さない
この日、私は双子の姉の
陽をあの夏に閉じ込めた彼女を無いものにしたかった
無いものにしてやった
それでも私は停滞したあの夏からは抜け出せない
この日からだ。
夏の魔物がうちに住むようになったのは。
夏の魔物 水田真里 @izumi-daifuku
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