07 17歳の夢

 知覧から散華された特攻隊員の最年少は、二か月前に17歳になったばかりの男性だったという。

 17歳だよ……。

 検閲の目をかいくぐるためなのか。

 あくまでも家族宛ての文章しかない手紙や葉書の数々に、安っぽい涙も失せてしまいます。

(わたしは、ついつい「母親の目線」になってしまう。なので何度、文字を打ち直しても上手く文章を紡げる自信がない……)

 その方は出撃命令が出た日の夜に、ひとりでは寝られなかったとのこと。たったそれだけのことを伺っただけでも、わたしの心が潰れそうになる。17歳になったばかりの“男の子”に、この国の背負わせたものは大きすぎる。

 彼の物心ついたときからの夢が、飛行隊になることであったとしても。

 もしも、わたしの息子であったなら殴り飛ばしてでも辞めさせただろう。

 でも戦時下だったなら。あの当時の国家を覆っていた同調圧力的な空気の中での、親の立場であったなら……ひたむきに努力を続ける息子のことを簡単に殴ったり罵声を浴びせてでも「飛行隊になんか、絶対にさせない!」と言うことなんか、とてもじゃないけど、できないよ……。

 様々な人たちの夢やこころざしを無惨に踏み躙っていったのが、当時の日本を覆う空気だったのだ。誰も抵抗が出来なかったのだ。いまの時代には、いくらでも言える。だって「後出しジャンケン」みたいなものだもの。今の時代の母親視点から言っても、とてつもなく悔しく悲しい気持ちになる。

 知覧から飛び立った特攻隊員の平均年齢は21歳くらいなんだって。

 ちょっと……!

 当時の日本国は、それほどまでに戦力として要する人材に枯渇していたのですか?

 どんな母親でも我が子を「早々に夭折させるため」育ててなんか、いないよ!

 特攻平和記念館内に、鳥濱トメさんが語られているビデオがある。トメさん御自身が接してこられた特攻隊員さんの記憶を語られているのだが、隊員さんお一人お一人の御記憶が驚くほど鮮明なのだ。ほんとうに、びっくりした。

 トメさんが記憶されている特攻隊員たちは、造りも粗末な兵舎で……なにもかも手放し、なにもかもに口を閉ざし。尚且つ、遺される家族のために手紙を書いた。せめて飛び立つ前に父親に会いたいと願いながら手紙を書き、当時の郵便事情の悪さのために……叶わぬうちに命令に従った隊員もいた。

 広く知られているが23歳の男性が、将来を誓い合った女性に向けて「あなたの幸せを希ふ(ねがう)以外に何物もない」と綴っていた手紙がある。彼の心情を慮る。とてもではないが、安っぽく「寄り添って考える」などの言葉が使えない。

 どれだけ寂しかっただろう。どれだけ心細かっただろう。どれだけ悔しく、憤った気持ちを持っていただろう。でも、それら一切を外に出すことなく。

 最期まで自分を律した。

 鹿児島の夜は北国や関東から来た若者には暑く、耐えられなかったかもしれない。雨が降れば蒸し暑いときもあったかもしれない。

 それら環境のすべても誰に八つ当たりすることもなく、最期まで。

 今の時代に彼らの遺書や遺品を拝見させてもらう立場のわたしは、ひとつひとつに手を合わせて頭を下げることしかできない。

 ずっと海に沈んでいた特攻機「隼」が引き揚げられて展示してある。大刀洗平和記念館でも感じたけれども、乗務員席は想像以上に狭い。誰か聞いて欲しい。こんなもので若い人を見送るのか!

 この国の『平和という秩序』が護られているのは、特攻だけではなく……何千何百と彼らの命が消えても、消えていないから。

 故郷だけではなく、日本の国土の隅々にまで。消えても消えていない、たましいが息づいているから。

 


 





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