06 数々の「手紙」から見えてくるもの

 知覧分教場に配置されたら、自分の命の残り時間はわずかなもの。

 彼らは「三角兵舎」と呼ばれる宿舎で寝起きする。

 特攻平和記念館のそばに復元された兵舎があるが、実物はもっと粗末な作りだったそうだ。講話で檀上に立たれた男性のお母様が、なでしこ隊だったとのこと。なでしこ隊、あんまり聞き慣れない単語ですね。

(1945年3月27日から4月18日までの23日間、特攻隊の奉仕を命じられた知覧高等女学校3年生の少女たち。 校章がなでしこの花であったことから「なでしこ隊」と呼ばれました。 彼女たちの任務は、特攻隊員のために掃除・洗濯・給仕・裁縫などの世話をし、彼らの「死への出撃」を笑顔で見送ること/webから抜粋コピペしました)

 他に知覧の特攻隊で有名な方といえば、鳥濱トメさまでしょうか。

 冨屋旅館の、おかみさんだった鳥濱さん。当時は40歳。彼女が後世のわたしたちに遺してくださった「こころざし」の影響は非常に大きいと、しみじみ感じる。

(時間があれば冨屋旅館まで足を伸ばしたかった)

 出撃までの時間、三角兵舎で過ごした特攻隊員たちは灯りも乏しい狭い場所で……遺していく家族に宛てて手紙を書いた。今わたしたちが拝読させてもらう彼らの手紙の文字は美しく、文章はシンプルで力強い。そして託された感情がダイレクトに伝わってくる。

 ここで、ひとつ疑問が出てきた。

 戦時下の手紙といえば……いわゆる「検閲」は、厳しいものではなかったのか?

(後日調べてみると。検閲はあったけれども、それほどキツいものではなかったという説もある)

 検閲をかいくぐるために、墨で文章を塗りつぶされたりしないように……一番いいのは家族宛ての手紙だろうと考える。特に、母親宛てのものが多い。それは当然なのかもしれない。

 知覧分教場に「特攻」を目的として配置されてくる青年たちは、たいがいが17歳から26歳ほど。開戦したときの彼らの年代を考えると、女性との見合いや婚姻などは困難なことだっただろう。

 彼らの母親も……いくら強制ではないと言っても……特攻隊員として育てたわけではないだろう、絶対に。


 特攻隊員たちは出撃前に鳥濱さんや、なでしこ隊に手紙を託して飛び立っていった。遺書になる手紙の文字や文章のすべてから、彼ら自身や彼らにかかわる方々のひたむきさや誠実さが滲み出てくるような気がした。


 膨大な量の遺書と、散華していった若い男性の遺影。しかも遺影に映る彼らは

 、ことごとく笑っている。

「自分が亡くなったあとに遺された家族が『最期の写真』として見るのだから、とびきりの笑顔でいたい」

 そんな気持ちがいっぱいに込められている、白黒写真。


 余談になるが十年ほど前に靖國神社の遊就館を拝観した際に、JA京都のバスに乗り込んだ女性たちは、そのときに展示されていた特攻隊員の遺影を見て指をさし、

「やだコイツ気持ち悪いー!」

「変な顔!」

 と口々に言っていた。彼女たちの上司らしき男性も何人かいたが、咎めるでもなくニヤニヤしていて。

 正直言って、こいつら全員死ねと思った。今でも、あいつらは即刻死ねばいいと思っている。










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