第08話 やはり君たちの事は思い出せないんだ

 決めかねている御白様を尻目に、奥内様が声を上げる。

「ぼっこ。あの子、連れて来たげて」

 コクリと頷いて駆け出して行ったぼっこちゃんだったが、しばらくしてゆっくりと床に足を擦るように帰って来た。そろりそろりと歩く少女にの腕には、小さな黒猫が抱えられている。子猫の前足には真新しい包帯が巻かれていた。

 そっと畳に下ろす。包帯の白さが目に痛い。怯えた様子で周囲を伺う。

 やがて僕に視線が定まる。弱々しく一声鳴いた。そして脚を引きずりながら、僕に向かって歩き出す。

 痛々しい姿に耐えきれず、駆け寄って抱き上げる。

 抱き上げた瞬間に理解した。

 僕が此処に居る理由。

 閉ざされていた記憶が蘇る。

 出社途中。信号待ちをしていた交差点。珍しく黒猫を見かけた。道路を渡りたいらしく、自動車の往来が途切れる頃合いを測っているようだった。見切って黒猫が駆け出したところへトラックが迫っていた。気づいて黒猫は身を固くし、立ち往生した。

 危ないと思った瞬間、僕は反射的に駆け出していた。

 黒猫を抱き止めた所までは憶えている。

「そうか、この子を助けようとして……」

 勢いのついたトラックの前に躍り出たのだ。無事で済む訳がない。

 死んでしまった、という事なのだろうか。どこか他人事のように感じられ、現実感が湧いてこなかった。

 それはそうだろう。こうやって何事もなかったかのように、過ごしているのだから。

「……死んでしまったのか。僕は」

 誰も声を上げなかった。無言であることが肯定の印だった。

 子猫の喉元を撫でてやると、小さな舌で指を舐めてくれた。

「まさか、この子諸共もろともに……」

 嫌な想像がよぎった。僕が死んでしまったのならば、もしかしてこの子も……。

「大丈夫ですよ。凜華さん、貴方が救った命です」

「そうか。良かった……」

 子猫を救うことが出来たのならば、僕の命も少しは役に立ったということだろうか。

 今日までずっと、生きる事が辛くて仕方がないと思っていた。親の期待に押しつぶされるだけの日々だった。期待に応えられるよう努力もしたし、精一杯の虚勢も張った。期待に応えれば応えるほど、更に両親の期待は膨らんでいった。いい加減、疲れていたところだ。

 けれども、そんな日々も唐突に終わってしまったのだと言う。辛い日々から逃げ出すことが出来たと安堵する気持ちも在り、唐突な終了宣言に納得できない気持ちも在った。

「此処は天国なのか? それとも地獄?」

 自分の声に、まるで力が籠もっていないことに驚いた。自覚していなくとも、思いのほか衝撃を受けているのかも知れない。

「此処は、隠世かくりよですよ」

 御白様が答える。

「隠世? 境界の向こう側……というやつか?」

「そう、神やあやかしの住まう世界です」

「ならば、死者が来るような場所ではないのだろう?」

「凜華さんは、私達とのえにしがありましたので……」

 僕が幼い頃、御白様や奥内様との縁が結ばれているのだという。そしてこの曲家まがりやにも、幼い頃の僕は一度来ているらしい。

「すると君達はやはり、祖母の家で祀っていたオシラサマとオクナイサマなのか……」

 二人が……いや、二柱の神がうなづく。

「すまない。やはり君たちの事は思い出せないんだ」

「じきに思い出しますよ」

 御白様によると、僕が選ぶことが出来る道は三つあるらしい。

 一つ目は、隠世かくりよを出て天に昇る道。隠世を出た後のことは御白様の司るところではないため、どうなるのかは教えてもらえなかった。

 もう一つの道は、御白様の妻として隠世に留まる道なのだそうだ。

「やれやれ。色恋沙汰いろこいざたとは無縁だったと言うのに、まさか死んでから求婚されるとはな」

「求婚ではありませんよ。答は訊いてませんから。決定事項ですので」

 御白様の妻とならず、また天にも昇らない場合、僕の魂は消滅する事になるらしい。これが三つ目の選択肢だ。

 幼い頃の御白様達との縁だけでは、永く隠世に繋ぎ止めておくことは出来ないのだという。此処に残るには、もっと強い縁を結ぶ必要があるのだそうだ。

 御白様の心中察すると、やりきれない気持ちになる。きっと彼は僕を此処へ残すため、己を犠牲に縁を結ぼうとしているのだ。

「君は何故、僕をめとってまで残そうとしてくれるんだ」

「私がそうしたいから……という理由では、ご納得いただけませんか?」

 納得できる訳がない。

 御白様にそこまでしてもらう理由が見あたらないのだから。

「少し考えさせてくれないだろうか」

「えぇ、もちろん。でも、あまり時間はありませんよ」

 明後日の祝言がその刻限だと言う。明日にはもう、どの道を選ぶのか結論を出さなくてはならないようだ。

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