第04話 どなたか、いらっしゃらないかな

 まだ日の高い時分、僕は鬱蒼うっそうとした森の中に居た。人の往来があるやも疑わしい獣道が如き小路こみちを歩き続けていたが、足に痛みをおぼえて歩みを止めた。

 さんざめくこずえから、陽の光が漏れきらめいていた。目を細めて見上げてみれば、木立こだちに切り取られた小さな空は抜けるようにあおかった。

 ブラウスが汗を吸って肌にまとわり付いていた。ジャケットなどとうに脱いでしまい、小脇に抱えている。足の痛みにどんな靴を履いているのかと見てみれば、いつも会社に行くときのパンプスだった。然程さほどヒールは高くないとはいえ、間違っても山歩きなどできる靴ではない。どおりで足は痛いし、歩きにくいはずだ。

 会社に向かっていたはずなのにこんな山道を歩いているだなんて、夢でも見ているのではないだろうか、そう思った。けれども、絡みつくように濃密な樹木の匂いや、踏みしめる柔らかな土の感触が、これが夢ではないことを告げていた。

 匂いに意識を向けた瞬間、不意に既視感にとらわれた。

「僕、この場所を知ってる!?」

 この匂い、この感触、そしてこの風景……初めてではない気がした。しかしいくら記憶を手繰たぐってみても、ここが何処どこであるのかは思い出すことができなかった。

 けれども、あと少し歩けば道が開けることを知っていた。記憶のささやきに従い、再びなだらかな坂道をのぼり始めた。

 やがて道はひらけ、立派な曲家まがりやが見えてきた。

 鈎形かぎがたの家屋に茅葺かやぶきの屋根。住居とうまやが一体となった曲家まがりや……祖母の家が、似たような作りであったことを思い出す。祖母が住む岩手では、伝統的な農家の住まいなのだそうだ。

 であるのならば、ここは岩手なのだろうか。いや、あり得ない。何をどうすれば、東京から五百キロを隔てた岩手の地に降り立つと言うのか……。

 ともあれ木々に閉ざされた森を抜け、ようやく民家に辿り着いたのだ。事情を話して休ませてもらおうと考えた。

 黒く立派な門をくぐって庭に入ると、見事な彼岸桜に目を奪われた。何百年の時を経れば、これほど見事な枝振りに成るのだろうか。かなりの樹齢を重ねた古木のように見える。枝先には数え切れぬほどの花が付き、今まさに桜花爛漫おうからんまんの時を迎えようとしていた。

 桜に見惚れながら庭を渡り、開け放たれた玄関を覗き込む。

「こんにちは」

 声をかけるも、返答は無かった。

 広い土間の左奥はうまやになっていて、栗毛の大きな馬が草をんでいた。何事かと僕に視線を向けたけれど、やがて興味が失せたように再び草を食み始めた。

「どなたか、いらっしゃらないかな」

 恐る恐る、土間へと足を踏み入れる。

 土間の右奥は台所で大きなかまどが在った。その奥、板の間の上がりばなには、三組の履物が揃え置かれていた。そして板の間の囲炉裏いろりにはまきがくべられ、鉄瓶が湯気を立てていた。

 人が居る痕跡は見て取れるのだけれど、人の姿だけが見えない。

 不思議に思いながら、庭に戻った。

 先ほどよりも落ち着いた心持ちで庭を見渡せば、垣根に咲き誇る紅白の花の鮮やかさが目に染みた。放し飼いにされた十羽ほどの鶏が、食べ物を探して地面をついばんでいる。短く喉を鳴らす鶏の声に混じって、遠くから牛の鳴き声や馬のいななきが聞こえた。声のする方を見遣れば、庭の奥に厩舎きゅうしゃが在るようだった。

 家人は家畜の世話に出ているか、畑に出ているのかもしれない。そう考えて、帰りを待たせてもらうことにした。縁側に腰を下ろして一息つくと、渡る風が思いのほか爽やかではやる心が安らいだ。

 心地の良さに大きく伸びをすると、勢い余って縁側に転がってしまった。転がった拍子に、視界の端が障子戸の隙間を捉える。縁側と座敷を隔てる障子戸が、わずかに開いていた。座敷の様子を伺うと、膳が据えられ朱塗りの椀が伏せられていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る