夕暮れの風
梨乃と並んで帰路に着く。もうあの小屋が自分の帰るべき場所だと思えるほどに彼女の隣は居心地が良かった。決して広くはないけれど、ベッドが二つ。丸テーブル一つに椅子が二つ。窓には色鮮やかな花々が花瓶に刺して飾られている。小さなキッチンには、最低限の料理道具と共に、いくつかの野菜と果物が冷やしてあった。あの小屋に梨乃はずっと住んでいた。信じがたい話だけど、彼女の生き生きとした姿を見れば、簡単に信じてしまう。家具が二つずつあったのも、きっと梨乃の言う過去の友人のものなのだろう。
「夜ご飯は何にしよっかなぁ…。」
そう頭を抱える梨乃が、どこか愛おしく感じていた。
「家に何かの野菜が残っていたはずなんだけれど…。」
「トマトとナスがあったのは今朝見たよ?」
「あ、そうだったわ!今が旬だから、沢山取ってあるのよね。」
「え、まさか、家の裏にあった庭ってもしかして…」
「あぁ、そうよ。そこで育ててるの。」
本当に彼女の生命力には脱帽する。
「今日はトマトスープでも作りましょうか。」
「俺も手伝うよ。」
「柊斗って料理できるの?」
「見くびらないで。少なくとも梨乃よりはできる。」
「ふふっ、お手並み拝見と言ったところね。」
今だけは、料理ができる自分を好きになれた。黒く染まった俺の過去を、梨乃が白く塗り替えてくれたから。
丁度小屋が見えた頃、暖色を帯びた空は、日が沈む直前の赤い夕空に変わっていた。初夏の夕刻はまだ少し暖かい風が身を包む。笑顔で話していた梨乃が、突然立ち止まった。
「どうかした?」
梨乃の顔から、次第に先程までの笑顔が消える。何も言わず、ただじっと来た方角の空を見ていた。彼女の視線の先を俺も追う。赤い夕空に、不自然に揺れる雲があった。雲……いや、煙…? そう気づいた時、全身の血の気がすっと引いた。
「……森林火災ね…」
梨乃はただ淡々とそう告げた。異様なまでに冷静な彼女に反して、俺の心は、恐怖、焦り、絶望。ありとあらゆる感情がひしめき合っていた。木々の燃える匂いが鼻を刺す。炎から逃れようと飛び立つ鳥達が、警報のように喚き鳴く。倒木の音と地面を揺らす程の衝撃。それらは俺を恐怖の底へと陥れるには十分すぎる着火剤だった。
「……梨乃っ……」
縋るように、求めるように、彼女の名を呼ぶ。だが、梨乃はただそっと、燃えゆく木々の方を見ているだけ。全てを受け入れるかのような、優しく、寂しげな表情で。
「……梨乃!!!」
答えてくれ…届いてくれ…俺を視界に捉えてくれ…
梨乃は、ゆっくりとこちらを向く。乾ききった俺の声は届き、彼女の瞳に俺が映る。でも、「…もう…無理だよ…」一番欲しくなかった答えをくれた。
「まだっ…まだ可能性はあるって…」
自分に強く言い聞かせる。まだ未来はあるって。そう信じていたい。
「少しでも遠くに行こう。それか、下に降りれば煙も少なくっ…」
「もう無理だって!!!」
必死に探した未来への鍵は、梨乃の声に姿を失くす。
「……なんでっ………」
気づけば嗚咽混じりの声になっていた。頬には溢れんばかりの涙が伝う。
「……もう…何も…」
そう言いながら彼女は足元に視線を移す。その瞬間、梨乃は膝から崩れ落ちた。彼女の身体を支えると同時に視界に映ったそれに、俺は息を飲んだ。梨乃のふくらはぎから下にかけて、燃えきった薪のように割れて、崩れて。彼女の白く美しかった肌は、炭のように黒かった。足先からゆっくりと、彼女の身体は燃えてゆく。木々に燃え広がる炎はまだ俺らの元には届かない。しかし、彼女から舞う火の粉が、視界を赤く灯した。梨乃を支えようと触れている肌は、どう見たって人間なのに。異様な光景に言葉を失う。梨乃は瞳に涙を浮かべ、俺を見つめた。酸素の薄れた空気にゆっくりと息を吸う。
「……柊斗っ、笑って。」
ただ一言。そう言い残した彼女は俺の腕の中で静かに眠った。とても幸せそうに笑ったまま。周りの音は聞こえない。きっと木々の燃える音がするのだろうが、少しも耳には届かない。梨乃の頬に伝う涙が、梨乃のものか、俺のものかも分からない。自分の涙が視界を歪ます。それでもなお、不器用ながらに口角をあげた。
なぁ、梨乃。俺、今、笑えてるかな?
どうやって笑うんだっけ。あれ、もう忘れてきちゃった。
なぁ、梨乃。俺、梨乃のこと、好きだったんだよ?多分これが恋なんだろうな。俺、女の人怖かったからさ、まだちょっと曖昧だけど。梨乃が俺の初恋。
なぁ、梨乃。君に梨の花をあげるよ。もらってくれるかな?綺麗で真っ白な梨の花。きっと君に似合うよ。
赤い炎と灰色の煙が空を覆った。
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