熟れた果実

「昨夜、永井 柊斗さんが行方不明になったとの情報が入りました。永井さんは、大学のサークルでバーベキューを行っていたとの事で、近くに深い川もあったことから、警察と消防は永井さんが流されてしまった可能性もあると見て、捜索を進めています。」

 静かな部屋には、淡々と報道を続けるアナウンサーの声が響いた。



 昨日は梨乃に連れられるがまま森を進み、そこにあった山小屋のような場所で夜を明けた。相当疲れていたのか目を覚したのはお昼を過ぎようとしていた頃。なぜこんな場所を知っているのか、梨乃に聞いてはみたものの、怪訝な顔で曖昧に流されたので、深追いはしなかった。俺よりも小さい梨乃だが、俺より何倍も生命力が高い。今だって梨乃の取ってきてくれた果物を二人で食べている程だ。

「オレンジなんて、この近くに育ってたのか?」

 綺麗な輪切りにされたそれを食べれば、芳醇な甘みが口の中に広がる。

「あるよ。他にもすももとか、びわとか美味しいものが沢山。」

 当たり前だと言わんばかりに梨乃はこちらを見ていた。

「あ、あと、少し歩いた先に池があるの。湖と言える程大きくはないのだけれど、とっても綺麗だから、後で一緒に行こうね。」

 ふふっと微笑みながらいう梨乃は、やはり俺を引き込む力があるように思う。

 毎日、毎日、やるべきことが決まっていて、行くべき所が決まっていて。それが当たり前と化していたこれまでの日々を、今では馬鹿馬鹿しく感じる。

やりたい事をして、行きたい所に行く。こんなにも高揚感に満ちた世界を俺は知らなかった。鼻歌を歌いながら上機嫌で外に向かう彼女。可憐なその姿はどれだけ見ても見飽きない。俺はまた、昨日と同じ白いワンピースの後を追う。

 しばらく歩くと、そこには確かに綺麗な池があった。池というには深く大きすぎるそれに、梨乃は迷いなく入っていく。裾が濡れないようにと持ち上げて水の中へと進む彼女を “妖艶だ“ なんて思う俺はおかしいのかもしれない。年下の女の子。頭ではわかってはいるが、そう思えないほどに大人っぽい。

「つめたー! でも楽しい!」

 でも、こうして見せる笑顔はとても子供らしい。自然の香りと共に涼しいそよ風が梨乃の髪をなびかせる。

「柊斗は入らないの?水が透明で綺麗よ。」

「そこまで言うなら入ろうかな。」

 梨乃の言うとおり、水はまだ少し冷たかったが、それを感じさせない程綺麗だった。午後の昼下がり。二人の笑顔が水面に映る。男女で水にはしゃぐ姿はきっと絵になる事だろう。草舟を作るところも、木々を眺めるところも、こうして岩に座って話す時も。梨乃がいる。ただそれだけで、どんな絵画よりも美しい。

 日も傾き、空が暖色を帯びた頃、

「私ね、今までずっと一人だったの。」

 梨乃は言葉を紡ぎ出す。過去を辿るようにゆっくりと。慎重に。

「友達もいない。毎日、あの小屋で過ごしてた。でもね、すごい昔に、一人だけ。私に友達がいたの。彼女はとても物知りだったわ。何もわからなかった私に、沢山のことを教えてくれた。お昼に食べたオレンジも、彼女に出会っていなければ、あんなに綺麗には切れなかった。」

 そう語る梨乃は、遥か遠くを愛おしそうに眺めていた。

「彼女は……私の腕の中で静かに眠ったわ。とても幸せそうに笑ったまま。」

 少し苦しそうな声と共に、梨乃の目から、涙が数滴頬を伝う。

「彼女は最後にただ一言。“梨乃はずっと笑顔でいてね“ そう言って目を閉じた。でも、私はそれができなかった。だって、私一人置いていかれたんだもの。笑い方すら忘れてしまった。でも、柊斗に会って、また笑えた。」

 俺に向かってくしゃっと笑った梨乃の笑顔は溢れた涙と共に夕陽に照らされた。

「ありがとう。」

 噛み締めながら大事に、大事に伝えられたその言葉に、俺は、「こちらこそ。」と返すことしかできなかった。梨乃につられて泣いてしまう前に、「そろそろ帰ろっか。」そう言って来た道を戻った。

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