木漏れ日の影

 暗い部屋。時刻は昼を過ぎた頃。窓から差し込む光はあれど、空気、匂い、気配、時間。全てが暗く、押しつぶされそうな程に重い。自分の家。この空間をそう呼ぶ事は一生叶わないのだと、子供の頃から感じていた。俺はどこまでも非力だった。

 俺が八歳の時。

「いただきます。」

 静寂が支配する空間の中。一定のリズムを刻む秒針の音と共に、母親の声が響いた。母はテーブルに置かれたお米、お味噌汁、焼き魚。お昼にしては少し手の込んだご飯をゆっくりと口に運ぶ。テーブルにご飯が一つ。母が食すその一つ。俺の分など、いつも通りどこにもない。

 過去に一度。同じようにお昼を食べていた母親に声をかけたことがある。

「僕の分は…?」

 静かな部屋にそれ以上の音は聞こえてこなかった。俺の声は暗く、深く、届くことのない虚空へと攫われる。母はただ、俺の事など見えていないようにご飯を食べ続けた。いや、正確には、見たくなかったんだろう。空腹に耐えかねた俺は、母の食べていたご飯を少しもらおうと手を伸ばす。

「誰かそこにいるんですか。」

 返ってきたのは、冷酷で心ない無慈悲な言葉と、憚られ振り払われた自分の手だった。その時ですら、母親と視線が合う事はない。

 幼い頃から人の心を読むことに長けていた俺にとって、八年という歳月は、母から俺に向けられる愛情など微塵もないことを理解するのには十分だった。

 父親に助けを求めたことだってある。父の前では人が変わったように俺と接する母の死角を縫って。

「…お父さん……助けてっ…」

 か細く、消え入りそうな声を必死に父へ届けた。

「どうしたんだ?」

 冷淡な母に反して、父が見せた笑顔は俺の凍りついた心を暖かく溶かす。

「…お母さんがねっ…僕にお昼ご飯…くれなくてっ」

 喉が焼けるほどに苦しい。息が全て止まるような、そんな感覚に陥る。紡ぐ言葉は遅く、鼓動は早く。唯一の救いに手を伸ばすことが、こんなにも苦しいものだとは思いもしなかった。

「何言ってるんだ?…お母さんがそんな事するわけないだろう。」

 唯一の救いを失うことが、恐ろしいほどの絶望感に苛まれることも知らなかった。父の笑顔は、俺の心を黒く、黒く染め上げた。それが確か十歳の時。人は一日二食でも生きていけると余裕を持っていたのもその年までだった。

 父が単身赴任で家を離れた。乃ち、俺の死を意味する。それからと言うもの、母の外出時を狙っては自分でご飯を作るようにした。そうしないと、生きていけないから。余った時間は全て勉強に充てた。

そうしないと、いい職につけず早く家から出られないから。家での事は誰にも言わなかった。そうしないと、善人はいないとまた絶望感に浸ると思っていたから。バイトはしていた。けれど、給料は全て母の手へと渡っていた。スマホなんてもらえるわけがなかった。だから嘘をついて友達には誤魔化した。容姿には気をつけた。家のことがバレないように。

 今の俺を構成するのは、全て過去の悲惨な環境。母は今もきっと俺が家にいない事に幸福感を得ていることだろう。帰るべき場所のない俺に、帰りたいという感情はあるはずもなかった。


「柊斗ー!! 早くこっち来てよー!」

 若葉色に照らされた梨乃が、眩いほどの笑顔で俺を呼ぶ。彼女の笑顔は、俺の心を白く、白く染め上げる。彼女の視線は、真っ直ぐに俺を捉える。今までの俺を取り巻く全ての人間と、梨乃はどこか違う雰囲気を帯びていた。俺は既に、彼女に魅了されているのかもしれない。

「はーやーくー!!」

 急かす彼女の元へと足を向ける。

「すぐ行く!」

 人生で初めて見つけた居たいと思える場所。俺を待つ彼女の元へ。一歩、また一歩と進み続けた。

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