とある雨の日
夢咲 紅玲朱
第1話
その日、雅美は大学の帰り道、近所の神社へ向かった。
最近ついていない。
高校時代から付き合っていたカレと別れるはめになった。
大学に進学して一人暮らしを始めたものの、心細い。
・・・急に行く気になったのは、すごくありきたりな理由だ。
まとわりつく不運を祓ってもらいたく、雅美はため息をついたあと、石段をのぼる。
午後をとっくに過ぎ、人気はない。夕日が茜色に照らし出す本殿はちょっと不気味だ。
(だいじょうぶ。ここは神域。おばけはでないはず・・・っ)
参拝は早朝が良いとされているが、学生ゆえ致し方ない。作法通り、手を清め、鈴を鳴らし、手を叩いた。
(どうか、大学を無事に卒業できますように)
授業についていきながら自炊もしなければならない。情けなくて誰にも言えないが、本当はかなり不安だった。
深々と頭を下げれば、神様のご利益だろうか、すっきりと晴れやかな気持ちになる。
「・・・よしっ」
力強くうなずく。踵を返し、一歩踏み出したところで、雅美はなにか忘れていることに気づいた。
「あ。・・・お賽銭忘れちゃった!」
ささいなことだが、雅美は気にするタイプだ。せっかくお参りしたのに、ご利益をいただけなかったら悲しい。
(どうしよう。お参りした後に入れていいものなのかな?)
せっかく晴れやかな気分になったあとだ。すこし気がとがめた。
見渡せば、絵馬やおみくじが風に揺られている。
(そうだ。御守りにしよう)
払うはずだったお賽銭分、御守りをいただけば一石二鳥だ。
雅美は軽い足取りで無人の社務所へ向かう。巫女さんは忙しいのか、誰もいない。色とりどりの御守りのそばには、小型の賽銭箱が設置されている。
「うーん・・・。いつもなら学業成就だけど」
雅美は迷った挙げ句、普段選ばない御守りを手に取った。
鳥居をくぐったときには、天候が変わっていた。
ぽつぽつと雫が髪を濡らす。
(おかしいな。天気予報では晴れのはずなのに)
雅美はため息をつくと、小走りでアパートへ向かった。
いよいよ、本降りになってきた。
バケツを引っくり返したような豪雨に、雅美はもれなく全身ずぶ濡れになってしまった。
参考書を上着の下にかばい、濡れないようにしながら、我が家へ続く坂道を、息を切らして走る。いきなり不運だ。
「・・・ん?」
ふと、雅美の足が止まった。
カーブミラーのそばに、視線が釘付けになる。
女性が、雨に打たれるまま、ぼうっと立っていた。
童顔だが、高校生にしては落ち着いている。雅美と同じく、成人して間もない印象だ。茶色のミディアムヘアをぐっしょりと濡らし、メガネをかけている。
雅美は見て見ぬ振りしようかとも考えた。どう考えても、訳ありだからだ。
すると、女性は顔を上げた。
――目が合う。
(どこかで見たことのあるお顔・・・?)
雅美は首をひねった。どこで見たんだろう。打ち付ける雨が冷たいからか、うまく頭がまわらない。
それより、こんなところにいたら風邪を引いてしまう。
考えるより先に、体が動く。
気づけば、雅美は女性の手をつかんでいた。
「あのっ。おせっかいとは思いますが、こんな雨の中立っていたら危険ですよ!」
この豪雨だ。上から物が振ってくるかもしれないし、車が運転を誤ることだってある。
女性はしげしげと雅美を見つめる。・・・やがて、にこっと笑った。
「優しいのね」
一言、彼女は言う。
涼やかな声だった。
どうやら、話ができる状態のようだ。雅美は警戒心が少しだけ溶け、おでこに張り付いた髪の毛をかきあげた。
「私の家、すぐそこなんです。よかったら雨宿りしていきませんか。このままここにいたら、危ないですよ!」
後半は勢いだった。雅美は本来、人見知りだ。そうでなかったら、友達がいなくて心細いなどと神頼みしないだろう。
だが、不思議と彼女は他人じゃない気がしたのだ。
女性は微笑み、案外あっさりとうなずいた。雅美に手を引かれるまま、坂道を登る。
(変わった人を拾っちゃった・・・)
曇天を仰ぎ、雅美は赤の他人を家に上げるという未知の体験に立ち向かう。
やがて、ボロアパートに到着した。
軒下に駆け込めば、痛いほど頭を直撃していたゲリラから開放される。二人は階段を登った。
(どうしよう。なにから手を付けたらいいの・・・?)
びしょ濡れの参考書とか、肌まで染み込んだ雨水が冷たいとか、今は気にならない。それより、誘った手前、コミュ障の自分がちゃんとおもてなしできるか心配だった。
お客さんも、引っ越してからは初めてである。
(連れてきたんだもの。しっかりしなきゃ)
口の中がカラカラになりながら、雅美はドアノブに手をかけた。
「ごめんね。散らかってるけど。――いま、バスタオルを持ってくるから!」
雅美はずぶ濡れの靴下を脱ぎながら、脱衣所へ向かう。女性はというと、律儀に玄関に立ったままだ。床が濡れるのを気にしているらしい。・・・かと思えば、興味深げにきょろきょろ部屋の中を観察している。
雅美はできるだけ真新しいバスタオルを選ぶと、彼女の髪をごしごし拭いた。
「私は出会ったばかりだから、詳しいことは聞きません。・・・でも、あんなところにいたら誰でも心配になります」
「――」
女性は、されるがままだ。嬉しそうにほほえみながら、タオルの柔らかさを堪能している。
雅美はきりりと顔を引き締めた。
「いいですか。誰にでもついていったらだめですよ! 私だから良かったようなものの・・・」
説教くさいが、釘を差しておかねば。
すると女性は、のんびりと言った。
「だいじょうぶ。あなたはいい人よ」
「・・・どうして分かるんです?」
眉を寄せると、女性はふわりとはにかんだ。
「私は、あなただもの」
雅美は一瞬言葉に詰まったが、「はあ?」と眉を寄せた。
女性はそのまま、「お風呂、借りるわね」とさっさと脱衣所へ向かう。
ちょっと! と雅美は声を荒らげ、後を追った。
コーヒーを淹れながら、雅美は壁の向こうから聞こえるシャワーの音に耳を澄ませる。
(どういう意味かしら、あれ・・・)
――私は、あなただもの。
(うん。さっぱりわからん!)
雅美はマグカップをドンッと置いた。
(あの顔。たしかに見覚えがあるのに・・・!)
彼女の記憶をたどろうとすると、頭に霧がかかったようにぼうっとする。
すると、脱衣所のドアが開いた。
ミディアムヘアの毛先から雫を滴らせ、彼女が顔を出す。服は貸したものだ。
雅美は駆け寄った。
「さっぱりした? コーヒー淹れたわ。風邪をひく前に飲んでみて」
「ありがとう」
彼女はうなずき、うながされるまま座布団に座る。ぼうっとした瞳で、壁の時計を見つめた。
雅美は向かい側に座る。
「まだ、あなたの名前を聞いてなかったわ」
「・・・なまえは」
「うん?」
彼女はおもむろにコーヒーをすすった。
「おいしい」
「・・・よかったわ」
雅美はじれったかったが、辛抱強く待つ。コチ・・コチ・・・ッと時計の針が時を刻む。
突然、彼女は、なにかに突き動かされるように立ち上がった。
「いかなきゃ」
「はっ!? どこへ!?」
雅美は目を剥く。さっき来たばかりなのに、どこへ行くのか。
彼女はさっさと玄関へ行ってしまう。雅美はあわてて後を追った。
「ちょっと! ここまで来たんだから、もっとゆっくりしていったら?」
肩をつかむ。すると、彼女はくるりとこちらを向いた。
ゆるりとほほえむ。
「あなたは優しい。・・・きっと、いいことがある」
「っ」
雅美は、きゅっと胸が締め付けられた。
きっと、もう彼女と合うことはない。そんな気がして、雅美は「ちょっと待って!」とバッグの中を探る。
「これ。さっき神社でいただいた御守り。持っていって」
彼女の手に無理やり握らせる。
すると、彼女は首を振った。
「これは、あなたのもの。受け取れない」
「でもっ」
雅美はたじろぎ、うつむいた。
(歳が近い女の子。・・・友達になれるかもって思ったのに)
すると、ドアが開く気配がした。
「待って!」
雅美はあわてて、靴も履かずに玄関に降りた。彼女の背を追う。
せめて名前を聞きたかった。
だが、あっさりとドアは締まる。
――コーヒー、初めて飲んだけど、おいしかった。
涼やかな声が紡いだ別れの言葉は、そんな他愛のないものだ。
雅美がドアを開けたとき、そこには誰もいなかった。
翌日、雅美は熱を出した。あのあと、急にめまいがして、ベッドに倒れ込んだまま、朝まで起きなかったのだ。
体は重く、今日の学校は諦めることにする。
(パトカーのサイレン? うるさいな・・・)
ふと、スマホが光った。
(電話・・・? お母さんから?)
気怠いままの声色で、電話に出る。すると開口一番、母の悲鳴の入り混じった怒声が鼓膜を突いた。
『雅美っ!! テレビ、テレビ見てっ!!』
「なによ、こっちは風邪なんだってば」
文句を言えば、『いいから見なさい!!』とちょっと怖いくらいの勢いで言われた。
やむなく、テレビを付ける。
刹那、雅美は息を呑んだ。
「うそ・・・っ。孝宏っ!?」
高校時代から付き合っていた見覚えのある顔が、手錠をかけられ取り押さえられている。
『昨夜、ちょうどあんたが帰る頃よ。刃物を振り回してるところを、通りがかった警察官に捕まったの』
雅美は声も出ない。
真っ先に考えたのは、昨日の彼女の安否だった。
――彼女は、私と背格好も髪型も似ていた。服も、私の服を着ていた。
(・・・いや、私が着せてしまった!!)
ふと、鏡が目に入った。
――そうだ。誰かに似ていると思ったら。
私の顔に、似ているんだ。
震えが、とまらない。
悪寒が体中を冷たく蝕んでいくようだった。
――殺されるはずだったのは、私だった・・・??
枕元に置いた御守りに、視線を落とす。
彼女に渡せばよかった。
「っ!!」
後悔は大粒の涙に変わった。
アナウンサーがテレビの向こうから原稿を読み上げる。
『男は奇妙な言動を繰り返しており、《間違いなく女性を刺したはずなのに、霧のように消えてしまった。幻でも見ているようだった》と供述しています』
――え??
雅美は顔を上げた。ぽろりと涙が溢れる。
どういうことだ。刺された女性が消えた??
思わず御守りを手に取る。
「身代わり・・・御守り」
あの日、神社で選んだ御守りには、そう大書されていた。
ぴし・・・っ。
木札の御守りに亀裂が走る。
真っ二つに折れた御守りは、枕に落ちた。
《コーヒー、初めて飲んだけど、おいしかった》
彼女の声が聞こえた気がした。
鈴の音が、静かに部屋に響いた。
とある雨の日 夢咲 紅玲朱 @Yumesaki-gureisu285
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