置き去りの存在

三鹿ショート

置き去りの存在

 私は、優れた人間ではない。

 常に他者の背中を見つめながら歩を進めるばかりで、振り返って手を差し伸べてくれる人間は皆無だった。

 だからこそ、何らかの問題が生じた際、私が真っ先に犠牲者と化すだろうと考えていた。

 だが、その思考は誤っていた。

 状況を打開するべく積極的に動いた人間ほど、死を迎えてもなお動き続ける存在たちの餌食と化していた。

 残っているのは、勇敢などといった言葉とは縁遠い、私のような弱者ばかりだった。

 弱者であるからこそ、自身が受ける被害を最小限に留めようとした結果、細々と生きることができているのだろう。

 何とも皮肉な話であり、同時に、私は笑いが止まらなかった。

 あれほど私を見下していた人間たちが、今では理性を失った獣と化しているのである。

 私は、これまで己を馬鹿にしてきた相手を一体ずつ捕らえては、時間をかけてその肉体を傷つけていった。

 頭部が無事ならば動き続けるために、足の先から丁寧に肉体を削り、切り落とし、取り出した臓器を他の人間たちに放り投げていった。

 同じ存在には興味が無いのか、仲間の腸が肩に引っかかったとしても、動ずることなく徘徊を続けている。

 何と滑稽な姿ではないか。

 私はかつて自分を見下していた人間の頭部の内部に、脳の代わりに土を詰め込み、それを球に見立て、しばらく蹴って遊んだ。

 やがて飽きると、それを火の中へと放り投げた。

 苦しむ声を聞くことができないことは、残念だった。


***


 彼女は、私と同じような人間だった。

 常に俯きながら生活し、他者に声をかけられると赤面してしまい、何も語ることができなかった。

 味方と呼ぶことができる人間は存在せず、誰にも頼ることなく生きていた。

 しかし、今では私が面倒を見ている。

 それは彼女に対する仲間意識などではなく、日々の脅威から彼女を守っている私に対する熱い視線が心地よかったからだ。

 だが、彼女の肉体を求めたことは、一度も無い。

 それは、単純な理由である。

 彼女が醜かったからだ。

 蛙のような顔立ちに加えて豚のように肥えた肉体の持ち主に、私が劣情を抱くわけがない。

 彼女もそのことを理解しているのだろう、私に対しては感謝の言葉を吐くばかりで、それ以上の行動に及ぶことはなかった。

 この関係は、何とも良いものである。


***


 目覚めると、彼女の姿が無いことに気が付いた。

 用を足しているのだろうかと考えていると、やがて彼女が荒い呼吸を繰り返しながら姿を現した。

 声をかけようとしたが、私は途中で止めた。

 何故なら、彼女の腕に歯形が存在していたためである。

 それが何を意味しているのか、私も彼女も理解している。

 それならば、何故この場所に戻ってきたのだろうか、そもそも、何故そのような醜態をさらす羽目になったのだろうか。

 私が事情を訊ねると、彼女は途切れ途切れに語った。

 いわく、彼女はかつて好意を抱いていた男性を目撃した。

 緩慢に歩く男性が転倒したために慌てて駆け寄ったところ、其処でようやく、その男性が既に生者ではないことに気が付いた。

 噛まれた彼女は男性を突き飛ばすと、他の人間たちが集まってくる前にその場から逃げ出した。

 そして、何故この場所に戻ってきたのかと言えば、

「ここを去る前に、あなたに感謝の言葉を伝えたかったのです」

 彼女は私に頭を下げ、これまで見せたことが無い笑みを浮かべると、その場を後にした。

 私は彼女を追うようなことはせず、生活の拠点を変えることにした。

 数日後、彼女が徘徊している姿を目にしたが、特段の感情を抱くことはなかった。

 彼女は自らの不注意で生者の立場を失った愚か者である。

 そのような人間に対して、憐れむ必要は無い。

 しかし、会話をする相手を失ったことについては、わずかばかりの無念さを覚えた。


***


 どれだけの時間を一人で過ごしたのだろうか。

 彼女を失ってから、私は他の人間と接触することがなかった。

 それは私の行動がどれほど優れているのかを証明しているはずなのだが、徘徊する人間を見ているうちに、私は気が付いた。

 一人だけ、生者として生き残っているこの状況もまた、以前と何も変わっていないのではないだろうか。

 他者に置いて行かれ、他者の姿を眺めるだけの状況は、崩壊する前の世界と遜色が無いのではないか。

 これまで私は生き残っていることを誇りにしていたが、今では褒めてくれる人間も、悔しがる人間も存在していないのである。

 私が取り残されていることに、変わりはないではないか。

 それならば、生き続けていたところで、何の意味が存在しているというのだろうか。

 今、彼らの仲間に加われば、上下の関係も無く、ただ徘徊する連中の一人として存在し続けるだけとなるだろう。

 それは、置き去りにされることのない世界ではないか。

 誰もが平等な世界こそ、悲しむ人間が存在することが無くなるのだ。

 そう考えた私は、表に出ると、叫び声をあげた。

 徘徊していた人間たちが、一斉に私に近付き始める。

 愚かな行為だが、これで良いのだ。

 だが、手を伸ばせば彼らに届く距離と化したところで、私は当然の事実に気が付いた。

 このままでは、私は激痛を味わうことになるのではないか。

 たとえ彼らの仲間と化すためには必要だとはいえ、痛みはなるべく避けたかったのである。

 しかし、既に遅かった。

 私は天に向かって声をあげながら、この激痛から解放されることを望んだ。

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置き去りの存在 三鹿ショート @mijikashort

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