第8話 図書館とその先
それから数日、家にいる時や授業をサボっている時なんかの空いてる時間に、スマホを使って詩の種類やなんかを検索して調べていた。
たしかに、海老名先生が言っていた色々な詩は、現代語のものもかなりある。ちょっと古語っぽい言葉遣いのものもあったりはするけれど、全く意味がわからないというほどでもなくて、むしろ逆に、どういう場合だとそういう使い方をするのかというのが気になった。
一度に全部の種類の本を借りて読むのは難しそうなので、ある程度目星を付ける。
そうだな、まずは短歌の本なんか借りてみるのもいいかもしれない。教科書に載ってるのだけを見ていると、全く意味がわからなくて難しそうに見えていたけれど、現代語で書かれているものを改めて読んでみると、言葉のリズムとテンポが良くて、つい口ずさみそうになったのだ。
でも、短歌の本はどんなのが図書館にあるかわからない。本当に、こんなにふんわりしたイメージで図書館に行って本を借りられるのだろうかと不安だけれども、購買で買ったパンを教室で食べた後、職員室に行って海老名先生に声を掛ける。
「海老名先生、あの」
すると、海老名先生はお弁当を食べる手を一旦止めて返事をする。
「はい、何かご用ですか?」
食べてるところに悪かったかな。そう思いながら緊張した声で用件を伝える。
「借りたい本をなんとなく決めてきたんで、図書館に」
しどろもどろになる俺に、海老名先生はにこりと笑ってこう返す。
「わかりました。すぐにお弁当を食べますので少々お待ちください」
それから、大きく口を開けてお弁当を口に詰め込みはじめた。
いや、これは大丈夫なのか? ハラハラしながら見ていると、時々ペットボトルのお茶に口を付けている。たぶん、ちょいちょい喉に詰まっているのだろう。
やっぱり悪いことをしたなと、つい俯いていると、海老名先生は手早くお弁当箱を片付けて立ち上がる。
「では、図書館に行きますか」
いつも通りに優しい声でそう言って俺の肩を叩く。すこし脚が震えてるけど、海老名先生と一緒ならきっと大丈夫。自分に言い聞かせて、図書館に向かう決心を改めて固めた。
職員室を出る間際、倫理の先生が嫌味ったらしく海老名先生に言う。
「なんですか海老名先生。また生徒の人気取りですか?」
それを聞いて頭に血が上りそうになったけれど、俺が怒鳴り返す前に海老名先生がいつも通りの口調で言葉を返す。
「そう思いたいなら、そう思っていてください」
思わず口元がにやついた。海老名先生は誰にも反抗しないわけじゃなくて、こうやって言い返したりもするんだ。それを知ってなんとなくすっきりした。
海老名先生がこうやって誰かに言い返してるところなんて今まで見たことがなかったし、きっと生徒の前ではなるべくこういうところを見せないようにしているのだろう。そんな一面を偶然とはいえ見ることができて、ちょっとだけ得意な気持ちになる。
廊下を歩きながら海老名先生が俺に話し掛けてくる。
「なんだかご機嫌ですけど、そんなに図書館が楽しみですか?」
「んー、内緒」
「そうですか」
深くは探ってこないこの距離感が心地いい。普段歩き慣れてる学校の廊下が、いつもより明るく見えた。
ふと、通りかかった教室の中から声がかかる。
「あれ、東大島、先生とどこ行くの?」
「もしかして生徒指導室?
あー、でも、海老名先生だしそれはないか」
別のクラスの友人達だ。どうしよう、どう答えたらいいんだろう。足を止めてすこし考えて、自分の中の小さな気持ちに意識を持っていく。それから、はっきりと友人達に言う。
「海老名先生と一緒に図書館行く」
すると、友人達は驚いた顔をして俺を見る。
「え? なんで?」
「……読みたい本があるから」
友人達はみんな、本なんて読まない。俺だって、ちょっと前までは本なんて読もうと思ってなかったから、いきなり俺が本を読みたいなんて言ったら余計驚くのはわかってた。
友人達は笑い声を上げて俺に言う。
「なんだよ。本なんか読んでもつまらないのに」
「最近付き合いも悪いし、いい子ぶってんの?」
わかってた。こう言われるだろうってのはわかってた。俺が友人達の立場だったら、きっと同じことを言っただろうから、こう言ってしまう友人達を責められない。
けれど、自分の中の小さな気持ちを握りつぶされそうな気がした。
俺が友人達になにも返せないでいると、海老名先生はにこりと笑って友人達に言う。
「あなた達が気に入るような本も、きっと図書館にはありますよ」
それを聞いて友人達は笑い声を上げる。
「そんなのあるわけないだろ」
「じゃあ聞くけどさ、図書館にはエロい本とかあんの?」
明らかに馬鹿にしてる。そんなの図書館にあるわけない。
俺はそう思ったけれども、海老名先生はさらりとこう返す。
「ありますよ」
「そうだよなー。あるわけ……え? あんの?」
「あります」
友人達はもちろん、俺もびっくりしてなにも言えない。あるんだ?
戸惑う友人に、海老名先生は口の前に人差し指を立てて、声をすこし小さくして言う。
「ただ、これは他の先生には言わないようにしてくださいね。
図書館から外されてしまいますから」
「お、おう」
「ですので、気になったらいつでも訊きに来て下さい。
できれば、他の先生には内緒で」
ぽかんとする友人達を置いて、海老名先生はまた歩き出す。俺もそれに続く。友人達から十分距離を取った頃合いに、海老名先生が俺に話し掛けてきた。
「読みたいと思った本をつまらないと言われて、落ち込みましたか?」
俺は黙って頷く。
「つまらないかどうかを決めるのは、本を読むあなた自身です。
面白かったならそれに越したことはないですし、もしつまらないと感じても、あなたがそう思うならそれでかまいません」
そうは言うけど、つまらないものを読むなんて無駄じゃないだろうか。つまらなかったらどうしよう。そんな不安が湧いてくる。
俺が不安がってるのに気づいたのか、海老名先生ははっきりとこう言った。
「たとえつまらなかったとしても、本を読んだことは決して無駄にはなりません」
本当にそうなのか? 頭の中に、無駄なことをするなんてバカなやつだという罵声が響く。
それでも海老名先生は、それを打ち消すように言う。
「自分が抱いた気持ちを大切にして下さい。
失敗することは恥ずかしいことではありません」
そんなことを言われても、失敗するのは恥ずかしい。失敗すればバカにされるし晒される。なのに、なんで海老名先生は失敗することは恥ずかしいことじゃないなんて言えるんだろう。
「そういうこと、海老名先生はどこで習ったんですか?」
俺は今まで、失敗することは恥ずかしいことだと教え込まれてきた。親からもそうだったし、小学校や中学校の先生からもそう言われてきた。
海老名先生は瞬きをしてからこう答える。
「習ったというよりは、学んだが近いですね。
少なくとも大学に入ってからは、失敗することを責められたりはしませんでしたから」
「そっか」
やっぱり、大学に行かないとそういうことはわかんないんだ。諦めに近い何かを感じていると、海老名先生はいつもとようすが違う口調で言う。
「失敗することを責める人は、そもそも失敗しないようになにもしない人です。そんな人の言うことに耳を貸す必要はありません」
ああ、海老名先生も、きっと昔なにかあったんだ。直感的にそう思った。それと同時に、海老名先生にこの気持ちを抱かせ続けちゃだめだとも思った。
だから、咄嗟に話題を変えた。
「海老名先生は、本のこととかどこで教わったんです?」
ちょっとわざとらしかっただろうか。すこしどきどきしながらそう訊ねると、海老名先生はにこりと笑って返す。
「そうですね、図書館の使い方は小学校で習いましたが、色々な本があるというのを知ったのは図書館や本屋さんだけでなく、同好の志が集まるイベントでも知りましたね」
「イベント?」
なんだか海老名先生の口からイベントなんて言葉が出るのが意外だった。海老名先生が行くようなイベントって、どんなのだろう。
「どんなイベントなんですか?」
なんか、合コンみたいなところだったらどうしよう。そんなところだったとしたら、海老名先生に対するイメージが崩れてしまう。いや、崩れても海老名先生が変わるわけではないのだけど。
すこしだけ不安に思いながらそう訊ねると、海老名先生は楽しそうに話す。
「私がよく行くのは、文芸を個人やサークルでやっている人が集まるイベントですね」
「……それって、授業みたいに偉い人の話を聞くやつですか?」
文芸と言われてなんとなく腰が引ける。やっぱり海老名先生が行くようなイベントなのだから、お堅いところなのだろう。
俺には縁のない話だなと、なんとなくしょんぼりすると、海老名先生はまだ楽しそうに話を続ける。
「特に難しい話とかはないですよ。
文芸をやっている人が自分で本を作ってその本を売る、フリマみたいなものです」
「えっ? そうなの?」
本を売るフリマ? しかも自分で作った本を?
一体どういう感じなんだろう。なかなか想像ができない。でも、なんだかすごく楽しそうに感じた。
でも、本なんてどうやって作るんだろう。本を作るってなると、漫画家とか小説家とかになって出版社から本を出して貰うくらいしか思いつかない。
「どんな本が売ってるんです?
本屋に並んでる本とは違うんですか?」
俺の素朴な疑問に、海老名先生は丁寧に答えてくれる。
「そうですね、商業作家さんなんかは本屋に並んでいる本を出していることもあります。
ですが、大半の人は出版社を通さず、自分で印刷所に原稿を送って自費で本を印刷して貰っています。
中には自分で原稿をコピーして製本して、それを売る人もいます。
ですので、九割以上は本屋さんには並んでいないものですね」
「えー……そうなんだ……」
自分で本を作るなんてことができるんだ。そのことに驚く。
印刷所に原稿を持っていって本を作って貰うなんて、とんでもなくお金がかかるんじゃないだろうか。すこしやってみたいと思ったけど、俺にはそんなお金は作れそうにないし、そもそも原稿の作り方も知らない。無理な気がした。
「東大島君が作っているような折り本を売っている人もいますよ」
「え? 折り本でもいいんだ?」
「そうですよ。基本的に刷って折れば本です。
なんなら、私がよく行くイベントなら、文芸作品であれば本でなくても売っていいんです」
なんとなく乱暴なことを言っている気がするけれど、折り本でもいいなら俺も売ってみたいと思った。
でも、出店できるのか? 俺が? あの、かわいいけど貧相な折り本だけで?
恐る恐る海老名先生に訊ねる。
「そのイベントって、俺でも出られますか?」
俺の気持ちを察したのか、海老名先生はにこりと笑ってこう返す。
「そうですね、イベントにも寄りますが、大体の場合は高校生以上で出店料を払えるのであれば出ることはできます。
イベントの規約や注意事項に従うのは、当然の前提になりますが」
規約や注意事項があるのはわかる。みんなが好き勝手やってたらこの学校みたいになるのはすぐに想像が付く。
お金を払って、規約と注意事項を守りさえすれば、俺は俺の折り本を売ることができる。それはすごく魅力的なことに感じた。
そこまで話したところで、図書館に着いた。
海老名先生が図書館のドアを開けて中に入っていくのでそれに続く。すぐに本棚の方へ行くのかと思ったら、受付にいる先生じゃないけど大人の人に声を掛けている。
「東大島君、この司書さんにどんな本を読みたいか伝えてください」
「え? あ、はい」
この人が司書って人か。海老名先生が言うには、司書っていうのは図書館の本のことを管理していて、大体把握しているらしい。
図書館の中をぐるりと見渡す。数え切れないほどの本がある。この本をほとんど把握してるなんて、信じられない。
半信半疑で、司書にどんな本が読みたいか伝える。
「あの、短歌の本を借りたいんですけど。
できれば現代語で、それで、あの、普段あんまり本を読まないので、それでも読めるやつを」
すると、司書はにこりと笑ってからカウンターにあるパソコンでなにかを検索している。それからすぐに立ち上がって、俺と海老名先生を立ち並ぶ本棚の中に案内する。
「それなら、これはどうでしょう。
親しみやすい短歌がたくさん載っています」
そう言って渡されたのは、眩しいオレンジの紙に紺色でタイトルの入った本。こんな派手な本が短歌の本だとは信じられなかったけど、中を見てみるとたしかに短歌の本で、時々くすりと笑えるようなものもあった。
これなら俺でも読めるかもしれない。わくわくして、うれしくなって、思わず本を抱きしめる。
「あの、これ借りたいです!」
俺がそう言うと、司書さんはにこりと笑って受付に俺を連れて行く。
でも、この後どうしたら本を借りられるんだろう。不安になって海老名先生のことを見上げると、海老名先生は本の裏表紙を指さす。
「本の裏表紙の内側に、カードが入っています。
そのカードに名前を書いて手続きをするんですよ」
そんな簡単なことで本を借りられたんだ。
そんなことすら今まで知らなかったのをすこし恥ずかしく思ったけど、海老名先生も司書も、知らなかった俺のことを責めようとしないし、どうやって書けばいいのか丁寧に教えてくれた。
「貸出期間は一週間なので、期日までに返しに来て下さいね。
あと、本は折ったりしないように、なるべく丁寧に。
でももし折れたり破けたりした場合は、無理に直そうとせずにそのまま返して下さい。
補修も司書の仕事ですので」
司書はそう言って、俺に鮮やかな本を手渡す。そうだよな、借り物なんだから丁寧に扱わないと。そこまで考えて、ふと父さんのことが頭を過ぎる。
父さんには絶対に見せないようにしないと。バカにされるだけじゃなくて、きっと本を折ったり破いたり、最悪勝手に捨てたりするかもしれない。
俺が自分で借りたいと思ったはじめての本を、絶対に守り抜かないと。
本を抱きしめたまま図書館を出て、入り口を避けたところで海老名先生とすこし話をする。
「本を読むのが楽しみですか?」
「えっと、うん」
本を抱えた胸がどきどきする。この気持ちはなんて言ったらいいんだろう。
ふと、海老名先生を見上げて、図書館に入る前に思っていたことを言う。
「海老名先生、俺も先生が行ってるようなイベントに出たい」
すると、海老名先生は優しい声でこう返す。
「いいと思いますよ」
海老名先生なら肯定してくれるって、期待はしてた。期待通りに肯定してくれてうれしかったけど、海老名先生は、すこし真面目な声でこう続けた。
「ただ、イベントに出店したとして、本が一冊も売れないことはよくあることです。
正直言えば、出店しても本が一冊も売れないという人がほとんどです。
きっと、はじめて出店するあなたの本は売れないでしょう。
それでも出たいですか?」
それを聞いて動揺する。出店しても本が売れない。それでも出たいのか。無駄じゃないかとも思ったけれども、諦められない。
俺は、海老名先生に教えて貰ったSNSの企画で折り本を発表して、見てくれる人がいるうれしさを知ってしまった。
だから、もし売れなかったとしても、見てもらうためにはまず人前に出さないといけない。そのことはわかってしまう。
すこし考えて、無駄なことをするのはこわいという気持ちと、売れなくてもいいから人前に作品を出したい気持ちを天秤にかける。
それで決断した。
「それでも出たいです」
思ったより強い口調になってしまった俺の言葉に、海老名先生は優しく笑う。
「それなら、私が止める理由はありません」
少なくとも海老名先生は、本が売れないかもしれない俺の挑戦を受け入れてくれた。なんとなく、それだけでも十分な気がした。
海老名先生が言葉を続ける。
「本が売れないというのは、思ったよりも堪えます。
それに耐えられなくて、作るのをやめてしまっても誰も怒ったりはしません。
もし挫折しても、それは貴重な経験です」
「……うん」
詩を書けなくなるほど落ち込むのはこわいけど、でも、やりたいと思ったことをやりたい。だって、海老名先生はそのことを応援してくれてるんだから。
手をぎゅっと握りしめて不安と戦っていると、海老名先生がはっきりとした声でこう言った。
「それでも、売れなくて落ち込んだとしても書くことを続けたいと思ったのであれば、あなたには才能があります」
それを聞いて顔が熱くなる。だって、俺には何の才能もないと思っていたから、才能があるかもしれないと言われてどうしたらいいのかわからない。
ただそれだけのことで才能と言えるのかわからなかったけれど、俺は恐る恐る海老名先生にイベントのことを詳しく訊いた。海老名先生は内ポケットから手帳を取り出して、イベントの名前を書いてメモをくれた。
「これがイベントの名前です。
ネットで検索すれば出てくると思いますよ。
SNSで検索してみても、どんな雰囲気かわかっていいかもしれません」
「あ、ありがとうございます!」
俺は慌ててポケットにメモを入れて頭を下げる。
不安と期待が、胸と頭の中でごちゃ混ぜになっていた。
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