第7話 学びへの一歩
そして配信をはじめてから二日後、数学の授業中にSNSの通知がスマホに届いた。
突然どうしたんだろうとスマホを手に取って見てみると、配信のお知らせにコメントをくれてる人がいた。
悪口だったらどうしようと薄目で目を通すと、風呂敷を首に巻いた柴犬をアイコンにしているその人は、丁寧に、俺の折り本のどこが良かっただとか、俺が配信した折り本を作った写真だとかを載せてくれていて、思わず変な声が出そうになった。
口元を抑えて呼吸を整えて、その画面のスクショを撮る。
そこでふと、数学の先生の方を見る。俺がスマホをいじってるのには気づいているみたいだけれどもなにも言ってこない。おかしいな、いつもなら怒らないまでもすぐにしまえくらいは言うのに。
まあ、なにも言われないならそれでいいか。授業が終わったら昼休みだ。折り本の感想をもらえたって、海老名先生に報告しないと。
授業が終わるまであと五分。その五分がじれったい。そう思いながらソワソワしていると、数学の先生が俺達の方を向いてこう言った。
「それじゃあ、今日はちょっと早いけどここまで。
先生は購買行くから、みんなもたまには早めにいっといで」
みんなから歓声が上がって終了の挨拶をする。数学の先生が教室から出て行くなり、俺もスマホを握って職員室に向かった。
廊下を走ろうとすると、数学の先生に呼び止められる。
「東大島、ちょっと」
「……なんすか?」
授業中にスマホをいじってたことに文句を言いたいのだろうか。今はそれどころじゃないのに。そんな不満が過ぎったところで、数学の先生はこう言った。
「先に購買でパン買った方がいいよ。
後回しにすると買いそびれちゃうだろうし、海老名先生はちゃんと待っててくれるから」
なんで海老名先生のところに行くつもりだってのがバレたんだ?
でも、たしかに、海老名先生と話し込んだ後だとパンが買えないかもしれない。
「うぃっす」
一言だけ返して軽く頭を下げて購買に向かう。いつも通り一番安い菓子パンを買うと、数学の先生もたまごロールを買って職員室に向かう。なぜか一緒に並んで歩くことになってしまったけれど、数学の先生は授業中のスマホのことで文句を言ったりはしなかった。
ただ、職員室のドアを開ける直前に、俺に向かってにっこり笑ってこう言った。
「今回だけ特別だからね」
一体なんなんだろう。もしかして、俺のやってることとか、感想が来たこととか知っているのだろうか。
いや、そんなはずはない。だって、折り本のことは海老名先生にしか話してないし、先生の立っていたところから俺のスマホの画面が見えてたとも思えない。
なんとなく気味悪さを感じながら海老名先生のところに行く。
「あの、海老名先生」
俺が声を掛けると、海老名先生は待ってましたという顔で俺のことを迎えてくれる。
「どうもこんにちは。SNSの企画に参加していましたね。
私もプリントしましたよ」
「え? えっと、ありがとうございます……」
海老名先生もプリントしてくれてたと聞いて足がむずむずするほどうれしい。海老名先生の言葉と、授業中に来た感想の両方がうれしくてうまく言葉にできない。
そうしている間にも、海老名先生は俺の折り本のどこが良かったとか、奥さんはどこを褒めてたとか、そんなことを聞かせてくれる。ますます言葉が出てこなかった。
なにも言えないままにスマホを取り出して、授業中に撮ったスクリーンショットを海老名先生に見せる。
「……これは?」
俺のスマホの画面を見てきょとんとしている海老名先生に、俺はようやく口を開く。
「SNSで、知らない人から感想貰ったんです。
それで、海老名先生に報告しなきゃって思って」
それを聞いた海老名先生は、本当にうれしそうに笑ってこう言った。
「良かったですね。東大島君の折り本を楽しんでくれた人が他にもいて、私もうれしいです」
俺が持っているスマホの画面を、海老名先生は何度も何度も読む。
自分のことのようによろこんでもらえてとてもうれしくて、その気持ちが大きく膨らんできて、つい欲が出た。
「先生、もっとうまく書けるようになるにはどうしたらいいですか?」
そう、もっとうまく詩を書けるようになりたい。そう思ったのだ。
俺のそんな欲張りな気持ちに、海老名先生はこう答える。
「そうですね、もっとも効率がいいのは勉強をすることでしょうか」
「……え?」
勉強と言われて、急に気持ちがしぼんでしまった。
だって、俺は授業もまともに出てないし、テストでもほとんど赤点だ。そんな俺に勉強なんてできるはずがないと思ったのだ。
無理だと思ってしまったけれども、それでも一応海老名先生に訊く。
「勉強って、何の勉強をすればいいんですか?」
明らかに拗ねた声が出てしまった。それでも、海老名先生は呆れたようすも見せずに微笑んで教えてくれる。
「そうですね、これは想像が付くかと思いますが、まずは国語です。
国語で文章の読解に慣れるのが良いでしょう。まずは文章が読めないと、他の勉強もやりようがありません」
「うん……」
「次に数学です。数学というと意外に思うかもしれませんが、数学で学ぶべきことは計算ではなく論理的思考です。論理的思考ができた方が、感情的な文と理性的な文の書き分けがしやすくなります。
それに続いて、理科系と社会科です。このふたつは主に観察力を養います。物事をしっかり見て考える練習ですね。
あと、音楽と美術も多少は嗜んだ方がいいです。なにかを表現するときに、色々な表現方法を知っているというのは強みになります。
最後に、料理なんかもやってみるといいかもしれません。今解説したこと全部をこなすことになりますし、そうでなくても料理はできて損はしません」
結局、学校の授業ほぼ全部だ。
海老名先生の説明で、どれがどんなふうに必要なのかはわかったけれど、全部はできる気がしない。
「……全部できないとダメですか?」
つい小さくなる声でそう訊くと、海老名先生は頭を横に振る。
「正直言って、全部はなかなかに大変だと思います。
なので、基礎となる国語から押さえるのがいいでしょう」
「うん……」
海老名先生も、俺の成績が悪いのは知っているのだろう。国語から押さえろというのは、なんとなく妥協案のように感じた。
学校の勉強もまともに理解出来ない俺が、立派な詩を書くのなんて無理じゃないか。そう弱気になって、拗ねるようにこんなことを言ってしまった。
「やっぱ、全部で百点取れるようじゃないと、いいものなんて書けないですよね」
すると、海老名先生は困ったように笑う。
「そんな、全部で百点を取れる人なんて、有名な作家さんでもそうそういませんよ」
そんなものだろうか。俺は小説だとか、他の人が書いた詩だとか、そういうのを教科書以外では見たことがない。だから、海老名先生が言っていることが嘘なのか本当なのかわからなかった。
海老名先生が穏やかな声で言葉を続ける。
「学校のテストは、平均点が取れていれば上々、赤点でなければそれで十分なんです」
「えっ? そうなんです?」
「そうですよ。正直言って、テストの難易度は問題を作成している教師の気分しだいなところがある程度あるので」
「そうなんだ?」
意外な話を聞いた気がする。
でも、赤点でなければいいっていうハードルは、百点に比べたら全然低い。俺はまだ一年生だから、これから先頑張れば、赤点くらいは越えられるような気がした。
「まずは、国語の点数を安定させましょうか」
「うぃっす」
海老名先生の提案に素直に頷く。国語からならなんとなくやれる気がする。なんせ、国語では赤点を取らないどころか平均点だって取れることがあるからだ。
まずは安定して国語で平均点を取れるようにしよう。そう思っていると、海老名先生が真面目な顔をして俺に言う。
「これは私個人の意見ですが、東大島君の文章読解力は、決して低くはありません」
これも意外な話だった。だって、俺は国語のテストで良くて平均だから。
「俺、たしかに国語がいちばん成績いいですけど、それでも平均行くか行かないかですよ?」
さすがにお世辞だろうとふてくされた声を出すと、海老名先生は俺と海老名先生のことを交互に指さしながら言う。
「文章の読解力というのは、離れすぎていると会話が成立しないものです。
実際に、読解力の差で会話が成立しないことが我々教師の間でもあります」
「……そうなんです?」
まだ半信半疑だ。先生達の間で会話が成立しないってのはなんとなくわかる気がしたけど、それは主義主張の違いのような気がするからだ。
でも、海老名先生はこう続ける。
「そうです。実際に、数学の船堀先生と私で、会話が成り立たないことがあります」
「急に引き合いに出すのやめて」
「すいません」
つい海老名先生の向かいの席に座ってる船堀先生の方を見ると、たまごロールをかじりながらなんだか難しそうな本を読んでいた。
でも、引き合いに出すのをやめてと言うわりにはすこしだけうれしそうだ。
「そういうわけで、あなたは、音楽科とはいえ大学を卒業した私と会話が成り立っている。
それがどういう意味だかわかりますね?」
ここまで言われれば、海老名先生が言いたいことは俺にもわかる。
「……俺の読解力は、大学生並みってことですか?」
「そういうことになります」
海老名先生は自信満々にそう言うけれど、やっぱりいまいち信じられないような気がする。俺が大学生並みなら、テストでもっと良い点が取れるんじゃないかと思うのだ。納得できないままに、海老名先生に見せていたスマホをポケットにしまう。
俺が信じ切れていないのを察したのか、海老名先生が机の上にあるファイルケースから国語の教科書を取り出しながら訊ねてくる。
「東大島君は、国語のテストでどういった問題が苦手ですか?」
その質問に、俺は一学期の中間と期末のテストを思い浮かべながら返す。
「漢字の書き取りができないです。
書き取りじゃなくても、漢字を書くのが苦手で、そこではねられちゃって」
そう、中学までで習ったはずの漢字も書けないものが多くて、それで減点されていることが多いのだ。
まともに文字も書けないなんてと、海老名先生も呆れただろうか。漢字が書けないのを父さんにバカにされたのを思い出して思わずしぼんでいると、海老名先生は意外なことを言った。
「なるほど。たしかに、漢字は書ければその分便利です。
ですが、無理に覚える必要はありません」
「えっ? なんで覚えなくていいんですか?」
小学校の頃から、なんで漢字を覚えられないんだと親からも先生からも責められていたので、覚えなくていいという言葉がにわかには信じられない。なんで海老名先生はそんなことを言うんだろう。
「世の中には辞書というものがありますし、なんなら今の時代はスマホですぐに調べられます。
覚えられないなら、その分調べればいいだけです」
「え? でも、テストの時は辞書とかスマホとか使えないし……」
たしかに、調べればいいというのはわかる。でも、調べないとわからないようだと、テストで点は取れないのだ。
困惑していると、海老名先生はにっこりと笑ってこう続ける。
「そうですね、テスト中は使えません。
でも、あなたが勉強するとして、今のところのいちばんの目的は『より良い詩を書くこと』でしょう?
詩を書くときは、どれだけ調べながら書いても、やり直しても、だれも怒らないんですよ」
そうだ、ついテストの点に気を取られてた。別に俺はテストで良い点を取りたいわけじゃないんだ。詩を書きたいんだ。
ポケットの上からスマホを撫でる。これがあれば、色々なことを調べられる。こんなに心強いことがあるだろうか。
ふと、船堀先生の方に目をやると、目が合った。
船堀先生はすぐに目を逸らして、話を聞いてなどいないと言いたげに、手元の本に目をやった。
じっと船堀先生を見る。数学はそんなやり方じゃ通用しないと言うかもしれない。そう思った。
船堀先生がそろりと視線を上げて、俺と目を合わせてふにゃっと笑う。
「ぶっちゃけ数学も、計算は計算機やパソコンでできるから、自力で計算できる必要はないよ」
「……そうなんすか?」
「そう。テストの時は他に測りようがないから計算もして貰ってるけど、海老名先生が言ったように、理論的思考を養うのが数学だからね。
理論的思考の参考例として色々な公式とかやってるんだよ。
計算は、できたらいいね。くらい」
そういうものなんだ? 計算も自力でできなくていいなんて、そんなの考えたこともなかった。そう、俺は計算も苦手で、昔からそのことでずっとバカにされてて、それで、俺は頭が悪いんだって思ってた。
それなのに、船堀先生はこう言った。
「東大島はさ、証明得意じゃん?」
「……まあ、あれは、計算しなくていいから……」
「俺はね、証明が本来の数学の姿だと思ってる。
そのものの存在をどのようにしてあらしめるか。それが数学であり論理的思考だ。
ある現象の存在を証明するのに便利なのが公式で、それにはたまたま計算が伴う。
だから計算できることが数学の本体だと思われがちだけど、実際には、なんらかの言語で存在と事実を証明することが数学なんだ」
「う、うん?」
船堀先生の言っていることが、すこし難しくてうまく飲み込めない。つい首を傾げると、船堀先生がはっとしてこう言い直す。
「ざっくりまとめると、計算は苦手みたいだけど、証明が得意な東大島は、本質的に数学に向いてる」
「う……う……」
思わず顔が熱くなる。すぐになんて信じられない。数学で赤点しか取ったことない俺が、数学に向いているなんて思えない。
なんて返せば良いかわからなくなって、海老名先生の方を見る。すると、にっこり笑ってこう言った。
「あなたさえよければ、船堀先生に数学を教えて貰うのもいいかもしれませんね。できれば、私も一緒に」
海老名先生は、わざわざ俺の勉強に付き合ってくれるっていうんだろうか。海老名先生だって暇じゃないだろうのに。
「そ、そうですね……」
小さな声でそれだけ言うと、海老名先生は船堀先生の方を向いて言う。
「実は私、因数分解でつまずいているんです」
「海老名先生、どうやって大学入った?」
「よくわからないのですが、推薦でなんとか」
海老名先生と船堀先生のやりとりを聞いて思わず笑ってしまう。海老名先生は勉強はなんでもできると思ってたけど、案外そうでもないんだ。そのことに妙に安心した。
「じゃあ俺、数学もがんばってみる」
俺が船堀先生をちらりと見てそう言うと、船堀先生はウィンクをしてこう返す。
「いつでもおいで。授業の後でもいいし放課後でもいいし、海老名先生と一緒だっていい」
「は、はい……」
なんか、先生達ってみんなこわかったり気にくわないイメージがあったけど、海老名先生以外にもそうじゃない人がいるんだ。なんで今まで気づかなかったんだろう。
船堀先生が難しそうな本に視線を戻したところで、海老名先生が俺に国語の教科書を開いて見せる。
「では、すこしずつ赤点を克服していきましょう」
「はい」
「でも、どうせ勉強するならなのですが」
そう言って、海老名先生は古典の和歌の部分を指さす。古典は国語の中でも苦手な部分だ。なんせ古語がわからないし文法もいまいちわからない。
でも、海老名先生は古典を薦めたいのだろうか。日本の文化の元になるものだから? たしかに、なんとか和歌集とか聞くには聞くけど……
たぶん、無意識のうちに嫌そうな顔をしてしまったのだろう。海老名先生がたしなめるようにゆっくりと言う。
「これから詩を書いていくなら、古典でなくてもいいので、色々な形式の詩を知ったほうがいいです」
「色々な形式の?」
どういうことだろう。そんなにいろいろあるものなのだろうか。
不思議に思っていると、海老名先生は指折り聞かせてくれる。
「詩に分類されるものは色々あります。
定型のものであれば、五七五の俳句や川柳、五七五七七の短歌、一行一句を五行組み合わせる五行歌がありますし、定型でないものでしたら自由律など、現代語の詩だけでもこれだけあるのです」
なんだか難しいことを言ってるぞ。
たぶん、俺が書いてるのは自由律ってやつだろう。やっぱり自由に書きたいっていうのがあるから、型にはめられるのはなんとなく堅苦しい。でも、海老名先生はこう続ける。
「型にはまるというと、堅苦しく感じるかもしれません。
ですが、案外型が決まっていた方が書きやすかったりすることもあるんですよ。
実際に書く書かないは置いておいて、目を通すだけでもしておいていいと思います」
たしかに、短い文でなにかを書くなら、短い単語でなにかを表現してたりするはずだ。その方法を知るのは、全然悪いことじゃない。
「もし存在を知っていれば、気が向いたときに試すこともできますしね。
思いも寄らないしっくりくるものがあるかもしれません」
「んん……そっかぁ……」
海老名先生はそう言うけれど、今のところ定型のなにかを試してみる気はない。
でも、現代文であるなら、読んでみたいと思った。
「あの、そういうのってどこで読めるんですか?
できれば、古語じゃなくて現代文のがいいんですけど」
俺がそう訊ねると、海老名先生はぱらぱらと国語の教科書を捲ってからこう答えた。
「そうですね、自由律でしたら現代語のものが教科書にも載っていますが、数が少ないです。
もしそれだけで満足出来ないというのでしたら、図書館の司書さんに訊くといいでしょう」
「図書館」
どうしよう、困った。図書館はたまに行くけど、本の借り方とかそういうのが全然わからない。
たぶん、海老名先生は、俺が図書館の使い方を知らないなんて思ってないだろう。そんな顔をしている。だから、思いきってこう言った。
「実は俺、図書館の使い方がわかんないんです」
すると、海老名先生ははっとした顔をする。
「ああ、なるほど……
でしたら、借りたいときに声を掛けていただければ付き添いますよ。
昼休みと放課後は、大体空いていますので」
図書館で本を借りる。そのことを考えると緊張する。今までに何度か図書館には行っているけれど、本を借りるために行ってるんじゃなくて、友人からすこし離れたいときに、都合良く使っている逃げ場所みたいなものだったからだ。
俺が緊張で顔を赤くしていると、海老名先生は国語の教科書を元の場所に戻しながら言う。
「どんな本を借りたいか、なんとなくでもいいので決まったら、声を掛けてください」
海老名先生が俺にかけてくれる言葉はいつだって優しい。急にそのことが疑問になった。
「海老名先生は、どうしてそんなに俺のことを気にかけてくれるんですか?」
そう訊ねると、海老名先生はきょとんとした顔をする。
「どうして、というのは?」
俺が疑問に思っていること自体が疑問のようだ。俺は海老名先生を見て、船堀先生を見て、それからまた海老名先生の方を見て返す。
「ほとんどの先生は、俺のこと煙たがるから」
思わず目頭が熱くなる。そんな俺のことをまっすぐ見て、海老名先生はこう答えた。
「あなたが生徒だからです」
俺が生徒だから。ただそれだけの理由でこんなに? 思わず涙が零れる。拳を握って俯いていると、海老名先生がポケットティッシュで俺の涙を拭って続ける。
「希望を見つけた生徒の手助けをするのも、教師の役目です」
なにも言葉を返せない。希望を見つけたという実感が無くて、なんて言えばいいのかわからないのだ。
でも、これは確実に言える。詩を書くのは楽しいし、もっと書きたい。ほんの些細なきっかけでやってみて、なんとなくやってみたいと思ってる。こんな、取るに足らないような小さな気持ちが希望なのだろうか。
わからない。海老名先生が何を指して希望と言っているのかがわからない。わけがわからなくなって泣くことしかできなくて、その度に海老名先生は涙を拭ってくれる。
ふと、船堀先生が声を掛けてきた。
「東大島。時間は有限だ。その限られた時間を、お前はどう使いたい?」
限られた時間をどう使いたいか。それはもう決まってる。使える時間はできる限り詩を書きたい。そこでふと気がついた。こんなにやりたいと自分で思ったことがあるのは、いつぶりだろう。
多分、小さかった頃、小学生低学年の頃とか、保育園の時とか、そういう頃には深く考えずやりたいこととかがあった気がする。
でも、それは全部握りつぶされた。お前には無理だと、そんなことを考えても無駄だとか、散々否定されて、やりたいことを考えるのをやめていた。
きっと、久しぶりに湧いてきたこのやりたいという気持ちが希望だと、海老名先生も船堀先生も言いたいのだろう。
正直言えば、この気持ちが希望だと、俺は胸を張って言うことはできない。だからといって、この気持ちを簡単に捨てたくないと思った。
「海老名先生、俺……俺……」
ただ泣き続けて、なにを言いたいかもわからないし言葉にもならない。海老名先生は何度も涙を拭いながら優しく声を掛けてくれる。
「絶対に大丈夫。という保証はできませんが、やれるだけやってみましょう。
あなたには、あなたの大事なものを大事にする権利があります」
こんな、なんだかよくわからなくてちっぽけな気持ちを、大事なものだと認めてくれる。そのことがうれしかったし、この気持ちを支えようとしてくれる人がいるのもうれしかった。
大人なんてみんなろくでもなくて、いつか自分もそんなろくでもない大人になるんだって思ってたけど、この気持ちを自分で大事にできるなら、まだ多少はマシになれる気がした。
そうしているうちに予鈴が鳴った。まずい、お昼ごはんを食べていない。
俺が食べてないだけなら次の授業をサボって食べればいいだけだけれど、海老名先生は授業があるかもしれない。
悪いことをしたかな。そう思いながら海老名先生をうかがい見ると、海老名先生はお弁当を手早く広げてにこりと笑う。
「五分あればいけます」
それはさすがに無理では? 俺がそう思って戸惑っていると、船堀先生がなにも言わずに紙パックのお茶を海老名先生の机に置いた。
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